進展
第十三話 初めての口付け
私はフランソワと辻馬車に揺られています。先に乗せてもらって下座についていたら、彼の隣に移動させられました。その上、しっかりと腰を抱かれていて、体が密着しているのです。昨晩もそうでしたが、この彼の温もりが心地良く感じられて離れ難いです。
「テネーブルさまは午後から出勤されるのですか?」
「うん、そうするつもり。こんな事になるなら日頃から仕事を溜めないようにするべきだったよ」
フランソワはいつも締め切りや期限ぎりぎりまで色々溜め込んでいるのです。私はフランソワの言葉に甘えて今日は一日休むことにしました。きっと職場に行っても仕事にならないでしょう。
「やっと完全に二人きりになれたね、クロエ。ところで短期的なものから長期的なもの、君に幾つかお願いがあるのだけど」
フランソワが少し私の方に体を向けました。腰に回された彼の手はそのままです。
「あ、はい。何でしょうか?」
彼が私に何を望むのでしょう……職場で二人の仲が噂になると都合が悪いから否定して欲しいとか……今朝二人同時に休みを取ったからその可能性はかなり大きいです。それとも……危機を救ってもらったからといって恋人面して勘違いするな、と言われるのかもしれません。もちろんそれは重々心得ています。
「君に口付けても良い?」
「えっ?」
思ってもみなかった事を言われました。それでも、昨晩から既に額や頬などに口付けられている私です。
「だからそんなに驚かなくても……」
「けれどテネーブルさまは昨夜から私に口付けておられますよね? どうして今更お願いだなんて……」
「いや、だからね、クロエ。僕が意味するのは家族や友人同士のキスではなくて、唇にする大人の口付けなの」
唇だけは私の許可を求めるフランソワが何だか可愛らしいです。
「あ、そうでしたか。えっと、その、どうぞお好きなだけ何処にでも」
「は? ど、ドコにでも?」
首を傾げる私にフランソワは何気に赤面しています。
「???」
「だったら早速、と、とりあえず唇だけは君の気が変わらないうちに……」
片手で私の
「ヒヒーン!」
「キャッ!」
私は座席から前に投げ出されそうになったところ、フランソワの腕に抱きとめられて無事でした。
「申し訳ないです旦那、たった今猫だか犬だかが前を横切って馬がびっくりしたもので……」
「い、いや。大丈夫だ」
そして馬車は再び動き出しました。
「驚きましたね」
何だか口付ける機会を逃してしまって、照れくさくなり、私は下を向きます。
「クロエ……」
けれどフランソワに再び顎を持ち上げられました。ところが、今度は馬車が舗装されていない道に入ったのか、ガタゴトと揺れが激しくなりました。落ち着いて口付けなんて出来る状態ではありません。
そうこうしているうちに、今度はガクンと音がして馬車が少し傾き、私達の体は衝撃で跳ね上がりました。車輪が壊れたのかどうか、ガタゴトと音がしています。馬車が減速して止まりました。
「何なんだよ、もう。クロエはここに居て。僕は降りて様子を見るから」
フランソワが不機嫌そうな顔をしています。車輪が路面の穴にはまった衝撃で痛んだと、御者の方が説明していました。馬車の窓から彼とフランソワの会話が聞こえます。
「こりゃあ駄目だ、修理に出さねぇと。旦那全く申し訳ないです、今他の車をつかまえて来ますのでそちらをお使い下さい」
「分かった……」
ここから私の家までは歩いて帰れる距離ですが、この美しいドレスで土埃の舞う道を歩きたくはありませんでした。私に下さったドレスとは言え、この装いは庶民の街を歩くために縫われたものではないのです。それに私がこんな貴族令嬢のような姿で近所を歩いていると人目を引くに決まっています。
私もフランソワと一緒に別の辻馬車に乗り換えることにしました。幸いなことに代車はすぐに来てくれました。
私を乗せた後、フランソワは御者の方に何か囁いていました。なるべく舗装されている道を通るように指示しているのでしょうか。
そして彼も馬車に乗るとすぐに私は再び彼にしっかりと引き寄せられました。
「今度は馬車が止まろうが、事故を起こして破壊されようが絶対にやめないからね」
そして私の唇にフランソワの温かいそれが重なります。最初は
フランソワが大人の口付けと言った意味が今やっと分かりました。私は彼の唇と舌の動きに応えようと必死で、息をするのも忘れそうでした。やっと唇を離されたと思ったら彼の唇は私の耳たぶを優しく
「あ、あぁ……」
自由になった私の口からは吐息交じりの声が漏れます。
「クロエ、そんな声出されたら僕もう……」
フランソワの手が私の背中やわき腹を撫でているのが温かく心地よく感じられて、私は頭を彼の肩に預け目を閉じていました。私の両手は彼の背中に回されて上着をしっかりと掴んでいます。それから再び唇を重ね、きつく抱き合っていた私たちでした。
馬車がもう我が家の前に着いているのでは、とふと我に返った私は血の気が引いていきそうでした。辻馬車は変わりなくまだ走っています。フランソワの胸を軽く押し、少し体を離して窓から外をちらりと見ました。今どこにいるのか、知らない風景でした。
彼と初めての口付けに夢中になっている間に辻馬車がとんでもない方向に向かっているのです。
「テネーブルさま、私たち一体何処にいるのでしょう? 大変です、貴方さまは午後からお仕事ですのに!」
「心配しないで、クロエ。ちゃんと君をおうちに送り届けるから」
フランソワにウィンクされてしまい、改めてドキドキしてきました。
「テネーブルさま……」
「それからね、もう一つのお願いはね、苗字はやめて、フランソワって呼んで?」
そう言えば先程幾つかお願いがあるとフランソワは言っていました。心の中ではもうずっと彼のことはフランソワと呼んでいた私でした。
「フ、フランソワさま……」
当の本人の前でその名を声に出して言うことを夢見ていましたが、実際試してみると意外と恥ずかしいものです。
「呼び捨てにしてよ、クロエ。もう君と僕の仲じゃないか。それに敬語もやめてね」
「私と貴方さまの仲、ですか……」
フランソワは一度接吻をした相手とは名前を呼び捨てて親しい言葉遣いをする人なのかもしれませんが、私はまだ抵抗がありました。何せ彼は次期公爵で職場の先輩なのです。
「あの、テネーブルさま、あ、フランソワ……さま。では私も一つお願いがございます」
「うん、何? 僕に出来ることなら何でもいいよ」
私は思い切って彼に頼み事をすることにしました。
***ひとこと***
おおっ、初めてのチューですっ! ところで、この二人はというか辻馬車は何処へ向かっているのでしょうか?
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