第九話 そして事件は起こる


 そうこうしているうちに王都は日も短くなり、再び寒い季節がやってきました。その事件が起こった日もかなり冷え込んでいました。後から思い返すと色々な偶然が重なった夕方でした。


 仕事を定時に終え、私は魔術塔のガブリエルさまを訪ねました。テネーブル家の書庫から長いこと借りっぱなしになっていた本を彼女に返すためでした。フランソワに頼んで彼女に返してもらってもいいのですが、どうしても私は職場で自分から彼に私用で話し掛けることを躊躇ためらってしまうのです。


 ガブリエルさまはついでだからと私を自宅まで送ると言って下さいました。


「今日は私がこの馬車に乗っているから丁度いいわ。実はね、ザックの実のご両親に領地で採れたりんごをおすそ分けしようと思ってフランソワに馬車を借りたのよ。先にフォルジェ家に寄ってもいいでしょう? クロエさんのお宅のすぐ近くですものね」


 フランソワの二台目の馬車となっている使用人の馬車をその日はガブリエルさまが使っていたのです。馬車はザカリーさんのご実家に寄った後、私の家に向かいました。


 もうすぐ我が家というところ、人通りの少ない路地でいきなり馬車が止まりました。そして私とガブリエルさまが異変に気付いた時にはもう遅く、いきなり男の人が扉を開けて乗り込んできました。


「あ、貴方は……」


 その人はガブリエルさまのお腹に素早く一撃を見舞いました。そして危険を察知し大声を上げようとした私も口に布を当てられ、そこで意識を手放してしまったのです。その布には何か薬品を含ませていたに違いありません。




 最初に感じたのは腕の痛みでした。背中に両腕が回っていて、動きません。私は冷たい地面に横たわっていました。うめき声さえも出ませんでした。少しずつ意識が戻り、自分の置かれている状況を考えることができました。


 しかし視界はまだもやがかかったようでした。実際薄暗いところのようです。ガブリエルさまはどこか探そうにも何も見えません。


 しばらくすると私の目には段々周りの景色がぼんやりと映るようになってきました。船に積む荷のような大きな木箱が沢山積まれています。大きな倉庫の中で、場所は港の近くに違いありません。


 私の手足はきつく縛られていて、身動きができませんでした。体をよじって反対側を向いてみようとしましたが、無理でした。


「意識が戻ったようだな、俺のクロエ」


 その男の声が頭上から聞こえてきました。私はまだ声が出ませんでした。彼が私の肩を掴んで体を起こしたので、木箱にもたれて座ることができました。


「あ、あ……」


 やっと声が少し出ました。言いたいことは色々あります。助けを呼ぼうと大声を出すのもまだ無理のようです。ガブリエルさまとテネーブル家の御者の方も、手足を縛られて少し離れたところに転がされていました。彼らは身動きひとつもしていません。一番に意識を戻したのは私のようです。


「ど、どうして……」


「お前は俺のものなのに、他の男に気を許しやがって。お仕置きが必要だ。今日もまたあの男といちゃつきながら帰って来たのかと思ったが、奴は一緒じゃないんだな」


 彼の言っていることは意味不明で、怒りが込み上げてきます。フランソワが私を時々送ってくれるのを見ていたのでしょう。この男は私の勤めるよろず屋によく客として来ている人でした。それ以外に彼の名前も何も知りませんし、ただの客と従業員という関係でしかありません。


「だ、誰か来て……火事よ!」


 大声を出そうとしましたが、お腹に力が入りません。私の声はこの大きな倉庫の外には届きそうにありませんでした。


「助けを呼ぼうとしても無駄だ。こんなところ、夜中に人が来るはずもねぇし。お前の連れと御者には興味はないが、お前が大人しく言う事を聞かなければ、奴らを痛めつけてもいいんだぜ」


 ということは男の目的は私だけなのです。私のせいでガブリエルさまと御者の方までがこんなことに巻き込まれて、申し訳ない気持ちで一杯でした。男は私の顎に手を掛けて上を向かせます。体ががくがくと震えるのは恐怖のせいで、寒さではないようでした。


「そ、それだけはやめて……」


 もしガブリエルさまに危害を加えられたら、フランソワやあの優しいご両親の嘆きは如何ばかりかと考え、涙がにじんできました。御者の方もそうです。全くのとばっちりです。


「さて、その可愛い顔に火傷を追わせて他の男には見向きもされない容姿にしてやるかな、それとも先に美味しく頂いてもいいよなぁ」


 彼は怖がる私を見て舌なめずりしています。


「ど、どうぞご自由に。私の体や顔を傷つけても、心までは奪えないわよ! それにフランソワは私の見た目ではなくて内面を好きになってくれたのだから。私が二度と見られないような無様ぶざまな容姿になったとしても彼の愛は変わらないって断言できるわ!」


 こんなのは全くの虚勢で、ただ言ってみただけでした。フランソワがここまで私を想っているわけないのは私が一番良く分かっているのです。実際、顔を傷つけられた私なんてもう相手にもされないでしょう。その上お嫁に行けない体にされそうです。


 確かに、花嫁絶対処女主義というものは以前ならともかく、最近はあまり貴族間でも厳しくはなくなり、すたれる傾向にあります。けれどこんな事件に巻き込まれて純潔を散らされたとあれば、人に後ろ指を指され、縁談に差し支えることでしょう。被害者の私に落ち度はないとしてもです。


 縁談はどうでもいいとしても、私だって一人の恋する女の子です。エレインの言うじょしりょくあっぷに励んで、ソッチノテクを磨いてと、恋に恋する女子なるものを体験してみたかったのです。


 とにかく、こんなことになる前にフランソワの誘いに乗って観劇でも食事でも一緒に行って普通に飽きられておくべきでした。そしてもしも叶うなら飽きられる前に一度だけでもいいから好きになった人に抱いてもらって、彼との甘くて楽しい思い出を作っておきたかった、と今から後悔しきりでした。


 覚悟をしてしっかりと目を閉じた私の瞼の裏にフランソワの少し寂しそうな顔が浮かんできました。


『僕自身ともっと仲良くなりたいからではなくて?』


(私だって本当は、はい、と答えたかったのです……申し訳ございません……)


 私は心の中でフランソワに謝っていました。


『クロエさん、大丈夫よ。助けが、フランソワがすぐそこまで来ているわ』


 同時にガブリエルさんがそう言って私を励ましてくれている幻聴が聞こえてきました。


『クロエ、今行くから。愛している』


 フランソワの声まで聞こえてきました。幻聴にしては何だかはっきりと聞こえました。現実逃避のせいなのか、私の片想いはかなりの重症のようです。


「お前のそんな生意気なところがいいよな、ゾクゾクしてきたぜ。夜は長いんだ、お互い楽しもうぜ」


 私は更に目をしっかりと閉じました。地面に押し倒され、男が覆い被さってくるのを覚悟しました。私はもう何も見たくありませんでした。


(さようなら、フランソワ。私の王子様……)




***ひとこと***

乙女のピーンチ! それにしてもこんな危機でも気丈なクロエには泣けます。


さて、次回はどうなることやら……ここでカッコ良くフランソワ王子様が現れるか!? 王国一の魔術師ガブリエルはまだ気を失ったまま?

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