第22話 夢は自分で叶えるもの

 7月6日、金曜日、水上天斗は会社からの帰り道を1人歩いていた。


 大学卒業後、東京の総合商社に就職した天斗は、26歳の時に結婚。それから数回の転勤を経験して、今は大阪に一軒家を建てた。


 眩暈めまいがするほど多忙な業務が続くせいで、会社で寝泊まりする日も珍しくないため、なかなか家に返れていないというのが現状だが。


 ここまで聞くと、仕事は忙しいながらも、天斗は順風満帆じゅんぷうまんぱんな人生を歩んでいるようにも見える。しかし、天斗の現状の生活には、偶然とは思えない奇妙な点がいくつかあった。


 3日ぶりの帰り道を早足で歩き終えた天斗は、自宅のドアの前に立つ。あまりにも久しぶり過ぎてどこか他人の家のような感じさえする。疲れも相まって、自宅なのにインターホンに手を伸ばしかけたが、すんでのところで止めた。一呼吸ついてドアを開ける。


「ただいま」


 帰宅の合図は出来るだけ小さく。既に時刻は午後10時50分で、今年で10歳になる1人娘が、厳しい妻の指導によって眠っているはずだからだ。


「おかえりなさい」


 リビングの扉を開けると、機械的な、感情があまりこもっていない言葉が飛んでくる。声の主である天斗の妻は、顔を上げることなく淡々と食器を洗っていた。大学生の頃は肩甲骨辺りまであった長い茶髪は、今は首筋辺りまでで切り揃えられていた。昔の凛々しい面影を残しつつも、斜め下を見ている横顔からは、家事疲れが見てとれる。


 ここまででお気づきかもしれないが、水上天斗は、神楽沙織と結婚していた。


 25歳の時に同窓会で天斗を見つけた沙織は、半ば強引に天斗のアパートに転がりこんだ。そのままなし崩し的に同棲をはじめ、1年後に結婚することとなったのだ。さらにその1年後には、1人娘が生まれた。人生何が起こるかわからない。結婚式前夜に天斗の座右の銘はその言葉に決まった。


「夜ご飯、肉じゃがと焼き鮭があるけど」

「いらない。外で食べてきた」

「……そう」


 3日ぶりにあったというのに、2人の間には簡素で冷たい会話しか生まれなかった。結婚生活11年目にもなれば、ラブラブな雰囲気などある方が珍しいのだが、それを加味しても2人の仲は決して良いものとは言えなかった。


「あ、そうだ。明日は大事な打ち合わせが入ったんだ。だから朝早くに出る」


 天斗は風呂に入るためにネクタイを外す。明日は日曜日だが、大企業の営業マンには簡単に休みは手に入らない。


 しかし、天斗の発言が沙織の怒りに触れた。


「ちょっと、明日が何の日か知ってて言ってるの?」


 カチャリと食器が重なり合う音がリビングに響く。洗い物の手を止めた沙織の顔は、先ほどよりも心なしか下を向いていた。


「あ? ……あぁ、の誕生日だな」


 1人娘の名前を口にした途端、天斗の胸が小さく痛んだ。


 今から10年前、出産予定日ぴったりの、7月7日に生まれた天斗の一人娘は、沙織の提案によって「ささは」と名付けられた。理由はいたって単純なもので、誕生日が七夕の日だったから。天斗は「安直すぎる」という理由で拒否を続けたが、本当の理由は家出少女の笹葉と、自分の娘を重ねてしまうのが怖かったからだ。


 結局、天斗は拒否を続けるには説得力が足りないと諦めたが、最低限の食い下がりとして、漢字ではなく平仮名になった。


「そうよ! ささはの10歳の誕生日は遊園地に行くって去年約束したじゃない!」

「遊園地はまた今度行けばいいだろ。明日の打ち合わせは明日にしかできないんだよ」


 特に、明日の打ち合わせは今後の方針を左右する重要なものだった。それを家族団らんのために欠席など、天斗の中では到底考えられないことであった。


「上で決まったことだ。仕方ないだろ」

「こっちだって1年も前から決まってたことじゃない! ……あなたは、家族よりも仕事を取るの?」


 当然だ。仕事を取るに決まってる。天斗の口からそんな言葉がこぼれ出そうになった。なぜなら、天斗は水上家の大黒柱なのだから。家族の未来を守るために仕事をしなくてはならないから。


 口が開いて、肺から送り出された息が喉を震わせる。まさにその時だった。カタン、と小さな音が天斗の耳に届いた。視線の先にあるのは、ささはの寝室だ。


 少しだけ、本当に少しだけ開いている引き戸の隙間からは何も見えない。しかし、先ほど聞こえた小さな音は、天斗の心を大きく揺さぶった。


「……ッ!」


 天斗はその場を逃げ出すようにベランダへ早足で向かった。



 **



 一軒家を購入する際、家庭菜園がしたいという沙織の要望で、庭はかなり広い造りにした。


 ウッドデッキに腰掛けた天斗は、庭の中央に鎮座している1本の笹を見つめた。

 

 沙織の祖父の家から毎年この時期に送られてくるそれは、天斗が大学生時代に笹葉と見に行った『奇跡の笹』の一部を切り取ったものらしい。


 ふと空を仰ぐ。


 嫌でも重なる笹葉とささは。


 外見もかなり似ている気がする。笹葉との写真は1枚も取っていないため、客観的な比較はできないけれど。それに笹葉は幼少期の沙織に似ていたらしいから、余計になんとも言えない。


 7月にしては涼しい風が笹の葉を揺らす。その時、葉に結びつけられて一緒に揺れていた、真っ赤な短冊が天斗の目に止まった。


 おかしなことに、なぜかその短冊には見覚えがあった。つい数分前に今年の笹を見たはずなのに。


 天斗は立ち上がり、宙を動き回る真っ赤な短冊を捕まえた。書かれている内容を見ようと、近くに手繰り寄せる。


 書かれてあった内容には、やはり見覚えがあった。


『お父さんとお母さんといっしょにゆうえんちに行きたいです。』


 10歳にしてはやけに綺麗なその文字は、17年前に笹葉が書いていたものにひどく似ていた。


 天斗の胸の内に、抑え込んでいた笹葉の記憶が押し寄せる。


 代り映えのしない日々に突如現れた1人の幼女。彼女は天斗の日常を破壊し、そして現れた時以上に唐突に天斗の下を去った。


 たった1週間だけだったけれど、天斗の心を大きく変えた。それが一番現れていたのは、奇跡の笹で天斗が書いた短冊の内容だ。


 天斗は、ささはが書いた真っ赤な短冊から手を離し、スーツのポケットからスマホを取り出した。


 電話帳の上から3番目に登録されている番号をタップする。


 5回の呼び出し音の末、「何の用だ」という、少しばかり不機嫌そうな男の声がスマホ越しに聞こえてきた。


「夜分遅くに申し訳ありません。……明日の打ち合わせの件なのですが」


 17年前、天斗が誰にも見られないように、高いところに結びつけた短冊。


 天斗しか知らないその短冊の願いが叶うかどうかは、すべては天斗の行動にかかっていた。


 『笹葉の願いが叶いますように』

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気まぐれな七夕と少女 たもたも @hiiragiyosito

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