第21話 帰ってきた非科学的な日常と居なくなったあいつ

 笹葉のいない、からになった布団を見て、天斗が最初に思ったことは「笹葉は1人で実家に帰ったんだな」ということだ。


 昨夜まで天斗は、笹葉を実家に送り届けることを前提に考えていたが、そこまで笹葉も幼くはないという事か。


 天斗はスマートフォンを数回タップして、登録された番号で電話をかける。朝七時だというのに、電話相手はすぐに出てくれた。


「あら、珍しいじゃない。あなたから電話をかけてくるなんて」


 口調こそは普段通りだが、少しだけ間延びした沙織の声がスマホ越しに聞こえてくる。まだ眠いのだろうか。


「そんなに珍しいことでもないだろ」


 笹葉が居た1週間は、何かと沙織に電話で助言をもらうことが多かった。


「珍しいわよ。そんなに今日の約束が楽しみだったの?」

「……? とりあえず、僕が言いたいことは笹葉が1人で帰ったということだけだ」


 今日の約束が楽しみとはどういうことだろうか。確かに、笹葉が居なくなって1人の時間を堪能できることは喜ばしいことだ。しかし、それを沙織の口から聞くと何だか変な感じがした。てっきり、沙織は笹葉が帰ったことを悲しむと思っていたのに。


「……ささは? ……って、女の人?」


 スマホ越しの沙織の声は、何故かいぶかしんだ語気をはらんでいた。


「は? ……まあ、女と言えば女だな。朝起きたら居なかったから多分無事に帰ったんだと思う」

「朝起きたらって……一緒に寝てたの!?」

「何をいまさら驚いているんだ。神楽も知ってただろ」

「知らないわよ!」

「……?」


 いまいち噛み合わない会話。何かおかしい。沙織は天斗がデパートで親子用の布団セットを買ったのを知っているはずだ。それに、1人で笹葉を実家に帰したことに心配したそぶりも見せなかった。沙織はこんな時に冗談を言えるほど器用ではないので、恐らく本気で言っているのだろう。


「なあ、神楽」

「……何?」

「……僕の家に、今日まで幼い女の子が泊まってたの、覚えてるか?」


 違和感の正体を掴むために、一気に核心に迫る。心拍数が跳ね上がって朝から体に悪い。それでも、天斗は知らなければならない、聞かなければならないことだと思った。


「え? あー、もちろん覚えてるわ! 今日までだったのね!」


 沙織のその一言に、天斗は心から安堵した。沙織は寝起きで寝ぼけていただけだったのだ。そう思って胸をなでおろしたが、続く沙織の言葉で、その安堵あんどは瞬く間に消え去ってしまった。


「私も加奈かなちゃんにお別れ言いたかったなぁ。あなたの従妹とは思えないほど可愛らしかったし」


 沙織の声は、ただひたすらに残念がっていた。お別れを言えなかったことに。笹葉へではなく、存在しない加奈かなという天斗の従妹に対して。


「……そうか。また……加奈がこっちに遊びに来たら、神楽にも連絡する」

「どうしたの? なんか元気ないわね」

「……気のせいだ」

「それならいいんだけど。あ、今日の遊園地のことで……」


 プツリ。


 天斗は沙織が話している途中で電話を切った。一度受け入れかけた現実が、どうしても現実に思えなくて、それを拒むように電話を切ったのだった。


「どういうことだ……!?」


 なぜだかわからないが、笹葉に関する沙織の記憶が書き換えられている。非科学的な、なんとも馬鹿らしい話だが、そうとしか言いようがない。


「でも何で……」


 真相を知るならば、笹葉が居たという確かな証拠が欲しい。それを沙織に見せて、どういう反応をするのかを確かめるのだ。


 しかし、家出少女の笹葉を匿っているということを知っているのは、世界で天斗と沙織だけだ。アパートの中は幼女が住んでいた形跡がしっかりと残っていたが、それは従妹の加奈という設定で解釈されてしまうだろう。笹葉がたしかに居たのだと証明できる確かなものは……。


「なくはない、か」


 昨日の七夕祭りの時に笹葉が結び付けた短冊。確たる証拠にはならないが、たしか末尾に「笹葉」と書かれていたはずだ。見に行く価値はある。


 天斗はさっそく出かける準備を始めた。一瞬、「沙織の記憶が書き換えられても、僕には何の影響もないんじゃないか」という考えが浮かんだが、頭を振ってすぐに振り払った。


 この不気味な現象を放置しておくのは後味が悪いし、それに天斗は1週間だけ笹葉を匿うと約束したのだ。今日だって、その1週間の内の1日だ。ここまで苦労してその約束を守ったのだから、最後までやり遂げたいという天斗の真面目な性格が体を動かした。


 地下鉄を終点で降り、バスを乗り継ぐこと3回。昨日沙織と登った山道を辿り、笹が生い茂る神社に足を運んだ。


 昨日とうって変わって、人の気配はこれっぽっちもない。天斗は神社の裏を回り、『奇跡の笹』を見上げた。


「たしか、この辺に……」


 背伸びをして、高いところに結ばれている短冊を次々と見ていったが、なかなか見当たらない。他の短冊よりも1段も2段も高いところに結んだはずなので、すぐにわかると思っていたが……。


 天斗は目星をつけながら探していったが、笹葉の短冊は見つけることができなかった。風で飛ばされてしまったんだろうか。答えはきっと誰もわからないだろう。


 結局、その日は笹葉が居たという証拠を見つけることはできなかった。神社からの帰り道で大学や、布団を買ったデパートなどの笹葉と行ったところを立ち寄っていたので、アパートに帰るころにはすっかり日が暮れていた。


 2日連続の遠出と山登りによって疲れ果てた天斗は、着替えもせずに布団に倒れこんだ。その拍子に、ポケットの中のスマホが振動していることに気づく。


 手と首だけを動かしてスマホを確認すると、沙織からの怒涛の不在着信とメールが届いていた。その中でも一番最新のメールを開く。


『もういいわ。帰る』


 これだけでは流石に何のことだかわからないので、少し前のメールを開いていくと、どうやら今日、天斗は沙織と遊園地に行くことになっていたらしい。


「……わけがわからん」


 もちろん、天斗はその約束に身に覚えがない。7月6日と7月7日。たった1日の差なのに、天斗を取り巻く世界は信じられないほど変化してしまった。


 怒られるのを知りながら沙織に電話を掛けられるほどの元気は天斗にはなかったため、メールで一言『ごめん』とだけ打って、天斗の7月7日は幕を閉じた。







 それから、天斗は日常生活を送る片手間で、笹葉が居た証拠を探し続けた。しかし、写真すら1枚も取っていなかったので、その行為は困難を極めた。


 1日、また1日と時間だけが過ぎていき、手がかりをつかむことさえできずに、だんだんとやる気が失われていく。


 半年が経った頃には、証拠を探すことを諦め、笹葉のことはふとした時に思い出す程度になっていた。


 1年が経った頃には、「笹葉が無事に過ごせていると信じるしかない」と腹をくくって、笹葉のことは考えないようにしようと決めた。


 天斗は笹葉のことを胸の内にしまって、日常生活を続けた。


 そして、天斗が次に笹葉のことを完全に思い出したのは、笹葉が居なくなってから実に17年後。


 7月6日の蒸し暑い夜のことだった。

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