シースピリット

もなこ

シースピリット

 深夜に近くの海に行くことが私の唯一の癒しだ。家族も友達も知らない、私の至福のひととき。この時間だけは誰にも会わず、1人で過ごしている。

 今夜も1人、波の音を聴きに海に来た。今日みたいな熱帯夜は、寝付けないからよくここに来てしまう。

 海面に触れて海風に吹かれると、日々の疲れからやっと解放された気分になった。そろそろ帰ろうと振り返った時、私はそこに人影があることに気づいた。その人影はじっと私を見つめているようで、妙に気になった私はその人影の方に歩いて行った。

 近づくと、人影は男の人のものだとわかった。身長は高いけど、細くてなんだか頼りない。暗い中でも、私たちはお互いに目をそらさなかった。

 何か、不思議。夜中に人と会ったことがないからかもしれないけど、私は彼から今まであったどんな人からも感じたことのない何かを感じていた。

「こんばんは」

彼の低い声が聞こえて私も同じ言葉を返すと、彼は何故か驚いたような顔をした。

 不思議な声だ。穏やかな波の音のような声。この人は、何なんだろう。初めて会ったのにまるでずっと昔から大好きだったような感覚だ。それは恋とかそういう類のものじゃなくて、私が何よりも海が大好きなことと同じような感覚だった。

 その夜、私は結局夜明け近くまで彼と話していた。なぜかは分からない。彼は初めて会ったとは思えないほど話しやすかったのだ。人と話すことが苦手な私にはとても珍しく、あっという間に仲良くなれた。その日を境に、私は毎日のように夜中に彼と会って話をするようになった。彼と話ができるのなら、昼間にどれだけ眠くてもよかった。


 初めて会った時に感じたたあの感情は、いつしか恋に変わっていた。だけど、私は気持ちがバレてしまわないように必死でその感情を隠していた。

「海、好きなの?」

「……うん。大好き」

「僕も好きだよ。……君のこと」

「──え?」

 突如彼がそんな意味深な発言をした時があった。彼の目は私に恋なんてしている目ではない。それなのに、私のことを特別だとでも言うような口調だった。どういう意味? まったく分からなかった。でも、その意味を聞こうとしても、結局はぐらかされてしまった。


 ある夜、私は前々から思っていたことを彼に話した。

「ねえ、夜中じゃなくて、昼に会わない?」

実は、この話をするのは初めてではなかった。何度か話したことはあったが、答えは決まってNOだった。

「それは……できない」

毎度そう答える彼が、私に何か隠していることには気づいていた。でもそれがどうしても知られたくないことだということも気づいていたので、私は何も聞いたことがなかった。それでも、さすがに理由が気になった私はとうとう理由を聞いてしまった。

「ごめん」

何度聞いても、彼は辛そうにそう言う以外に何もしなかった。

 さすがに苛立っていた私は、彼の方を掴んだ。──はずだった。

「っ!?」

彼の体は、水だった。私の手が、その体を貫通して水しぶきを上げたのだ。今起こっていることが理解できず、私は自分の手を見つめていた。

「……ごめん。びっくりしたよね。僕はね、本当は君の前に現れちゃいけないんだ」

「……は?」

「僕は、海の心なんだ」

何を……言ってるの……? 海の、心? この人の頭はおかしくなってしまったのか。そう思いたかったけど、彼の目とさっきの出来事はそれが嘘じゃないということを十分すぎるほどはっきりと証明していた。

「君が夜の海が好きだという強い気持ちが、僕を人間の姿にしたんだ。だから夜にしか会えないし、僕は君にしか見えない」

さらに彼が続けた時、私はその波の音のような声に流されてしまいそうで言葉がまともに耳に入っていなかった。未だに彼の体をすり抜けた時のあの感覚が忘れられなかった。すり抜けるはずのないものがすり抜けた。それは私に想像以上の恐怖を与えた。

 それでも、耳に入ってほしくない言葉ほどよく入ってくるもので。

「正体がバレたからもう君とは会えない」

君の記憶も消さなきゃいけないと。そう言った彼の声だけは恐ろしいくらいはっきりと私の胸に刺さった。

「……そんなの嫌だ! もっと一緒に話したい。忘れたくない。ずっと覚えていたいよ……っ! 私、あなたのことが……」

「さよなら」

私の言葉を遮って、彼は静かに別れを告げた。涙が止まらなくなって彼の手を掴もうとするけど、やっぱり触れることはできずに、私の手が濡れるだけだった。そしてそんな私の額に手を触れて額が濡れた時の彼の瞳も、潤んでいる気がした。涙で視界全体が潤んでいたから、本当にそうだったかは分からないけど。

 次第に彼の体は向こう側が透けて見えるようになった。本当にお別れなんだ。そう思うと、私は彼に抱きつきたかった。ほとんど姿が見えなくなって、もういるのかいないのかも分からなくなった時だった。彼の声がかすかに私の耳に届いた。

「僕も好きだよ……君のこと」

私の涙は、止まることを知らなかった。

*°*°*°*°

 深夜に近くの海に行くことが私の唯一の癒しだ。家族も友達も知らない、私の至福のひととき。この時間だけは誰にも会わず、1人で過ごしている。

 だけどなんでだろう。ここで誰かと話して、かけがえのない時間を共有したことがある気がするのは。いつもより優しいこの波の音が、声のように聞こえるのは。こんな時間にここで誰かと話したことなんて、ないというのに──。

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