幕末女史と浮きつつの少年

 放課後の図書室。

 の、座敷の部屋に「女史せんせい」は居る。

 日本人形の様に可憐な黒髪。「水蓮のような」という言葉が似合う女史の周りは常に何かの本で溢れていた。

 一人で読み切るのが不安なほど積まれた本はすべて歴史に関わるもので、オレには少々難解である。

 いつものように真剣な眼差しで本を読んでいる女史の目には相変わらずの涙が浮かんでいた。本を読むときのお決まりらしい。最初は戸惑ったけれど、それはもう慣れた。


 七月。初夏の季節というやつである。

 待ちに待った夏休みが目の前に迫り始めたので、教室は少しだけ騒がしくなった。

 大抵のひとは部活動三昧なので夏季戦の向けてラストスパートをかけている。当然、遊びに行くとか旅行とかは眼中に無い。親しい間柄の男女がどうこうなんてのが羨ましいとかも思っちゃいない。

 オレの恋人はバスケだ。部活が出来ればそれでいい。


 だが、しかし。それはそれとして。


 (夏祭りくらい……オレだって、オレだって……!)


 女史との思い出が欲しいんだ!


 そんな思いを巡らせながら、学期末考査の自主学習という名目で図書室に足を運んだのだった。

 やましい気持ちなんて微塵も無い。そんなものがあったら今頃オレは自分で腹を切って死んでいる。

 別にそういう間柄になりたいわけじゃないし、女史に見合うのはシルクハットが良く似合う英国紳士風のスマートな男性だから、オレじゃ到底釣り合わない。


 女史はオレの恩人だ。


 (あの日、女史が気づかせてくれたんだ。自分の信じたもののために誠の志を持って向き合うことを。信じたその先にある大切なものを)

 純粋に、女史に恩返しがしたい。

 しかし何が出来るとも無いので、ひとまずのオレの役目は、女史に近づいて付きまとうような勘違い野郎の顔面にダンクシュートをぶち込むことだろう。女史が運命のひとに出会うまで専属ボディーガードを務めさせてもらう。

 

「せ、女史」

 オレはポケットからハンカチを取り出して女史に話しかけた。図書室に行けば女史が泣いているのは判っているので、これはまあ、あたりまえのことだ。

「今日は何を読んでたんだ?」

「秋山香乃先生の『総司焔の如く』……って、あれ? 三組のきみ? 久しぶりだね」

 三組の君、と呼ばれて一瞬だけ戸惑う。そんな呼ばれ方をするたびに「そういえばまともに自己紹介もしてないな」と毎度思い返すけれど、最近は「これはこれでいいかもしれない」と思い始めていた。

 オレだって、女史のことは「女史」としか呼ばないし。おあいこだ。

「ひ、久しぶり……。あ、部活はちゃんと行ってるぜ⁈ ただ今日は休みなだけで!」

「ふふ、考査前だもんね。勉強しにきたの?」

「お、おう! それよか女史、これ! あの、使え!」

 用意していたハンカチをずいっと女史の目の前に突き出した。あまり上手く言葉が出なくて不格好になってしまった。けど、仕方ない。これがオレの精一杯だ。

 女史はそんなオレの手から受け取って「ありがとう」と微笑んだ。女史の涙が頬を伝って落ちる。

 相変わらず視界がきらきらする。心臓の辺りが熱くなって、オレは慌てて目を逸らした。

「ねえ、きみは今日が何の日か知ってる?」

 女史が涙を拭きながらオレにそう問いかけた。

 今日は七月八日だから七夕の次の日……なんて馬鹿は言わない。ちゃんと履修済みだ。

「池田屋事件、だろ? あんまり詳しいことは知らないけど」

 胸を張って言い切る。

 暫くの間があって、女史の息を呑む声が聞こえた。


「……知ってたの?」


 女史のために勉強したとは言えず、「まあな」とだけ返す。

 実際には女史と話がしたくてあれから本を読んだりなんだりしたのだが。

 そんなオレの下心……もとい、純粋な興味心を知ってか知らずか、女史はぱぁっと顔を輝かせて開口した。

「元治元年六月五日。新選組の最盛期と言われているのが池田屋事件なの。明治維新を十年遅らせたとも言われているね。京都に潜伏していた尊攘派の会合場所である池田屋に御用改めをして未然に被害を防いだ」

「京の御所に火を放って、混乱してるのをいいことに会津藩の藩主を殺して天皇を誘拐しようとしてたんだっけ。……あれ、でも、そもそもなんで新選組と長州は敵対してたんだ?」

 自信満々で御託を並べようと思っていたけれど、ふと沸いた疑問に全てを遮られた。

 新選組も長州も、どっちも外国を追い払おうぜって言ってたんだろ? なのにどうして敵対してるんだ? 双方で手を組んで外国と戦ったら良かったんじゃねぇか?

「話せば長くなるんだけど……大丈夫?」

 女史が恐る恐る尋ねてきた。

「勿論だ! さすがだな女史!」

 オレは嬉々として返事をする。


 やっぱ、すげぇな。


 実をいえば御所とか藩主とかよく分からないまま口を出してしまっていたので大助かりだ。身につけた浅はかな知識が女史に敵うはずもないことくらい、考えればわかることなのに、何を口滑らせているんだ、オレは。勉強しろ。

 女史はこほんとひとつ、咳払いをした。

「幕末の京都は政治の中心で、尊王派……幕府を倒して天皇中心の国づくりをしようという思想を持った志士たちが集まっていたの。もともといた幕府の組織だけでは治安維持の手が行き届かなくて、幕府は新しい組織を結成した。それが『浪士組』。清河八郎きよかわはちろうという人物が中心となって幕府と京都、そして将軍様を守るために結成されたものなんだけど、裏では別の思惑が絡んでいた」

「別の思惑?」

「浪士組の求人を江戸で行った後に京都に行ったんだけど、着いた途端『自分たちは将軍警護が目的ではない。真の目的は尊王攘夷だ』って演説をしたの。募集した時には『江戸から京都に向かう将軍様の警護のため』と言っておきながら、清河は倒幕のために兵を集めていた」

「……それって騙したってことじゃねぇか!」

 思わず叫んでいた。女史がびっくりしてオレを見上げる。

 時代の象徴だった幕府の権力を笠に着て、騙して兵を集めたなんて卑怯すぎる。

 ここまでしないと幕府は倒せないって思ったのかもしれないけど、それなら倒幕派の仲間を最初から集めれば良かっただろ。

 くっそ~! 正々堂々と戦えよ清河八郎!

 そうやって憤っているオレに、女神の如く女史はにこりと微笑んだ。

 これはまずい。

 オレはぎゅっと目を瞑る。

「確かに、清河のやったことは幕府に対する裏切りだった。けれどね、新選組は清河のおかげで出来たって言っても過言じゃないんだよ」

「どういうことだ……?」

「清河が演説をしたときに、真っ先に意を唱えたのが近藤勇こんどういさみだった。江戸に試衛館しえいかんっていう、近藤さんが道場主の剣術道場があったんだけど、その試衛館の門徒たちも浪士組に参加してたんだ。近藤さんをはじめとして、土方歳三ひじかたとしぞう沖田総司おきたそうじ藤堂平助とうどうへいすけ永倉新八ながくらしんぱち原田左之助はらださのすけ山南敬助やまなみけいすけ井上源三郎いのうえげんざぶろう……つまり」

「新選組の主要メンバーか!」

 オレはまた叫んでいた。

 女史に「ちょっ……と、声を、抑えようか」と言われてしまって、慌てて口を固く結ぶ。もう黙ろう。女史の邪魔をしてはいけない。

 ちょっと困ったような、でも楽しそうな女史の表情に一瞬だけ見惚れてしまって、オレは高速で頭を振った。

 女史、たぶん、というか、絶対に浴衣が似合うだろうな。もしかすると新選組の羽織とか持ってるかもしれない。それはそれで女史らしくて良いと思う。今やネット通販の世界だ。探せば既製品はどこにでも売ってある──って、何を考えてるんだ、オレは。


 頭を振ったり首を捻ったりと明らかに不審なオレを見て、女史が「どうしたの?」と尋ねてきた。

「悪ぃ、続けてくれ」オレは返す。


 女史は言葉を紡ぐ。

「彼らは清河の策には乗らなかった。筋が通っていない、我々はこのまま浪士組を脱退して当初の通り将軍様の警護を行う、って。それに賛同したのは何も試衛館の面々だけじゃなかった。次いで声を上げたのは、二人目の新選組局長『芹沢鴨せりざわかも』。芹沢さんは水戸藩の出身で──いや、話したらもっと長くなっちゃうからこれは割愛しようかな。──そうして浪士組を脱退した彼らは『壬生浪士組みぶろうしぐみ』と名前を変えて、それから『新選組』になった。新選組っていう名前は会津藩主の松平容保まつだいらかたもりから貰ったんだよ。……新選組になる前にいくつか事件が起きて、芹沢さんは死んでしまったけれど」

 芹沢鴨。

 初めて聞いた名前だった。

「新選組の局長は近藤勇だけだと思ってたけどもうひとりいたんだな」

 そう呟くと、女史は少しだけ顔を曇らせた。

「……芹沢さんは、結構乱暴してて、それで暗殺されたんだけど……彼もまた新選組に必要な存在だった。商家から強盗まがいに資金を集めたり、建物を壊したり燃やしたりしたから当然の報いだったんだろうけどね」

 浪士組は曲がりなりにも幕府の援助で成り立っていた組織だ。そんな浪士組を抜けてしまった彼らにはなんの後ろ盾も無かった。勿論、資金も。夏になってもまだ冬用の着物を着ていたなんて資料も残っているらしい。

 そんな金の無い壬生浪士組のために芹沢さんは無理にでも周りから資金を集めて、あの浅葱の隊服も、誠の旗も作り上げたのだという。

 さすがにひとの家に大砲ぶっ放したり火をつけたりはやりすぎだと思うけど。

「浅葱色の羽織にはそんな事情があったんだな……。色に意味があったりするのか?」

「よく聞いてくれました~!」

 女史が嬉しそうに言った。さっきまでの暗い顔に少しだけ心配していたけれど無用のようで安心する。

 気持ちが高揚しているのだろう、女史の陶器のような肌に赤みが増した。とても楽しそうに言葉を尽くす女史の目はすごく輝いている。

「浅葱色の着物っていうのは、もともと武士が切腹するために着る着物の色で、あんまり縁起が良いものじゃないんだよ。でも、彼らはその色を隊服にすることで『自分たちは死ぬ覚悟で戦う』っていうことを示したんだ。死ぬまで幕府のために刀を振るうっていう覚悟の象徴だったんだよ」

 でも普通に色が目立つからあんまり使われていなかったみたいだけどね、と女史はそう言ってにこやかに笑った。そうして言葉を続ける。

「幕末の日本は、大抵のひとたちが外国を良しとは思っていなかった。幕府も長州も、外国を倒すっていう目的は同じだったはずなんだけど、決定的に溝が出来てしまったのは新選組結成より十年遡った一八五三年。黒船の来航で幕府がアメリカと条約を結んでしまったことが原因だった。……みんなが授業で習った『日米和親条約』と『日米修好通商条約』だよ。憶えてる?」

「な、名前だけは辛うじて……。確か、不平等条約を結ばされたんだっけ?」

 そこまで覚えてたら花丸だよ、と女史が指で丸を作った。

 この間も見た大輪の向日葵が咲いたような笑顔に、一瞬だけ鼓動が高まる。その顔は、ずるい。本当に心臓に悪い。

 水蓮になったり向日葵になったり、まるで一年で移ろう日本の四季のように表情を変え、口を休めることもなく唄うように語っていく。


「幕府は外国の脅威に屈して、朝廷になんの相談もないまま条約を結んでしまった。それが尊王思想の強かった長州の火種になってしまった。幕府がこのまま政権を担っていては外国の言いなりになってしまう。幕府を滅ぼして、新しい世の中を作ろう。外国に対抗出来る強い日本を作るためには幕府では力不足だ。それが倒幕派の言い分だった」


 自分が信じるもののために志を果たした新選組と、先見の明を持って外国と幕府に危機感を抱いた長州。


 何が悪いとか、誰が悪いとかじゃなくて、これは抗えない時代の渦だったんだと納得してしまった。


 新選組は幕府がいなければ存続出来なかった。だから最期まで幕府に恩を返したかった、とは、以前のオレの解釈だ。

 けれど。

「……倒幕派は自分の意地や矜恃よりも日本の未来を見据えていたんだな。このままでは日本はダメだと、自分が死んだ後のこの国のことを考えていたのか」


 新選組は自分の信念を貫いて、長州を初めとする倒幕派は国の未来を思った。


 どっちも日本には大事な思いなのに、平行線を行ったまま交わることなどなくて。


 彼らの思いは、土俵から既に違っていたんだ。


「なあ、女史」

 オレは女史に声を掛ける。けれどなんの反応もなくて「女史?」ともう一度声を掛けて顔を覗き込んだ。


 女史は驚いた顔をしたまま、ゆっくりとオレの方を振り向いた。


 さながらホラー映画に出てくる日本人形のように見えてしまって、初めて女史から身を引いた。

「ど、どうしたんだ?」

「……ううん、いや、あのね」

 小さな声がぽつりぽつりと言葉を繋げる。

「ずっと、新選組の話しかしてこなかったから倒幕派の意見なんて考えたことも無くて。……そっか、信じる道が違えば、守るものも信念も違うんだ。初めて、気がついた」


 女史の頬を雫が伝う。




 ◇◇◇




 ちょっと長くなったけど、これが長州と新選組が敵対してた理由だよ。

 女史は傍らの本を愛おしげに見つめて水蓮のように、可憐に微笑んだ。

「きみがいると、いつも自分の知識の綻びに気づいちゃう。やっぱり私ダメだなぁ」

「そ……れって、女史の元にはオレがいた方がいいやつなん……あ、いや、何でもない! 何でも!」

 いくらなんでも口が滑りすぎた。オレはもう謹慎した方がいい。

「女史、なんか浮かない顔してるけど……やっぱりオレが言ったアレ、なんかまずかったんだろ?」

 困ったように眉根を寄せている女史の顔を見て、オレは不安げに尋ねた。

「ち、違うの! きみは何も悪くないよ!」

 オレが渡したハンカチも皆無、女史はぼろぼろぼろぼろと涙を流しながら必死にオレの言葉を否定する。

 傍から見れば確実にオレが女史を泣かしているようにしか見えないだろう。違うんだ、そうじゃない。そんな心算は一切無い。

 女史が新選組の話題に触れると涙腺が脆くなるのはいつものことで、それは仕方ないしそんな女史も、オレは、好ましいと、思っている。

 でもやっぱり、女史は笑顔の方が素敵だと思う。

 早く泣き止んでほしくて、どうすれば笑ってくれるのか考えて──オレは慌てて記憶から引きずり出した。


 そう、夏祭りである。


「せ、女史! 夏祭り行こう! 夏祭り! 感動して泣くのもいいけどよ、やっぱりたまには楽しんで心底から笑おうぜ、な?」

 懇願するように女史の手を取った。

 水分を吸った自分のハンカチを見て、もう一枚持ってくるべきなのではと逡巡する。

 夏祭り、とぽつりと呟いた女史は暫く間を置いたあと「行きたい」と笑顔で言葉を紡いた。

 まるで星屑が弾けるような。

 過去を語った女史の顔はやっぱり何よりも煌びやかに見えてしまって、オレには少し眩しかった。





 信じたものが違うだけで、運命の歯車は大きく変わってしまう。

 自分が信じるもの。

 何が正しいのか、いまは何も分からない。けれど、とりあえずオレが言えることは、女史が魅せられた彼らの生き様を、オレも信じていこうと思うってことだけだ。

 それが彼らが紡いだ歴史の果てに生きるオレの役目なのかもしれない。


 (終)

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幕末女史と移り気の少年 喜岡せん @yukiji_yoshioka

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