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 炎が、震えていた。

 震えるライターで震えるロウソクを灯し、燭台に刺す。

 もう優位を粉飾することは叶わない。柴田がそう解しかけた時、口火を切った久慈の言葉は意外なものだった。

「私はあなたが憎いです、本当に。でもここを辞めれば、いずれは忘れられると思います」

 青臭い発言だった。

 すっかり拍子抜けして、にわかに落ち着きを取り戻すと、柴田は内から湧き上がるものを感じた。

――とうとう言いやがった、こいつ。

「あっそ、はーい、バイバーイ」

 まだ脈は速いものの、柴田の声に怯えはない。なまじ怯えきった分、動揺は高揚に変わり始めていた。

「ただ、一言謝ってください」

「あっ? 謝る? えっらそうに。おまえ何様だ? ふざけんなっ」

 柴田の発言に微かなため息をもらすと、もとより期待していなかったというふうに、久慈は腰を上げた。

 デスクへと戻る久慈の背中。

 生意気なはずのその背中には、不思議と腹が立たなかった。それは、おそらく明日にでも引き出しの中の退職願が手元へ届けられるであろう未来を視たからかもしれない。

 これを以て、柴田はようやく悦に入ることができた。

 それでよかった。

 目的は達したのだから。

 だが口が、動いていた。

 今の柴田ではない、全ての柴田の所業。

 人が言葉を作り、言葉が人を作る。

 人生で発し、蓄積した言葉で作り上げた柴田という器。

 器の縁にはこうある。

『久慈には、病を患った兄弟がいたな。給料の多くはその兄弟の医療費に使っていたらしく、今年の初めに亡くなったんだよな』

 まもなく器より発せられる言葉。それは紛れもない柴田そのものであった。

「よかったな。お荷物がいなくなって、内心ホッとしてんじゃないのか?」


 背中と、雨音が、止まった。


 突然、体の真横で鳴った雷のような音に、思わず柴田は窓を向いた。どうやら強風が雨の大群を打ちつけたらしく、その勢いは恐ろしかった。

 なんだと驚いて、いつの間にか止めていた息を吐きながら戻す視線の先には、真っ暗の顔。

 思わず椅子ごと仰け反るも、引き戻され、掴まれた手首はそのまま膝に押さえつけられた。

 鼻先の顔は穴のように暗い。

 まるで迫ってくるようで。

 まるで吸い込まれるようで。

 感じるはずの温度がなく、しているはずの息もない。

 巨大な心音が脳を小突く中、見えない口から声がした。

 その声は先ほどの怪談の続きを話している。


 あの一件の後、バイクの二人組を探しあてたのだという。なぜそんなことをしたのか? それは、命の貴さを実感して生まれた正義心と疑念。それを社会に対して確認する必要があったのだという。


 味も色もなく、淡々と話すその口調は無感情で平坦で、およそ読経のように淀みなく、不気味。

 馬鹿げた内容なのに、一つ一つの言葉がひどく重い。

 まもなくして、嘘であってほしい言葉が聞こえた。虚栄であってほしい言葉が聞こえた。

 その言葉の重さも、尋常ではなかった。

 尋常を欠いた異常は句読点もなくさらなる異常に次ぐ異常を強制報告。そのなに一つも器に収められないまま、ただただ漏らし、ただ漏らす。


 頬を伝うものが止まらない。

 畏れと恍惚の区別がつかない。

 耳から入るのはもう言葉ではない。そう、それは話していたのではない。ただ、読んでいただけ。これは、儀式なのだろう。


 ようやく、穴の中に目が見えてきた。

 でも見ているはずの目は、見ていない。

 もう人間として、見られていない。

 この目、見覚えがある。

 あれはいつだったか。


 新しく入った社員は、理不尽な命令をすると、こういう目を返してきた。人間の温度というものを感じない、冷徹で、見る者に畏怖を与えるような。そう、獲物を捕食する虫のような目。

 初めの内はそれが不気味で、強く接するのを控えていた。でも次第に慣れてくると、融通の利かないその正義感が鬱陶しくて、不気味さを苛立ちが凌駕した。

 ある時、堪えかねてリストラをほのめかしてみると、その目は二度と現れなくなった。

 いびり始めたのは、この頃からか。

 理由はなかった。

 きっと腹が立ったはずなんだ、覚えてないけど。

 学生時代のいじめと同じで、なぜそいつに腹が立つのかはわからない。

 いつだって、嫌うほども相手のことを知らないのだから。


 意識の外で、火が消えた。

 闇か体か、区別もつかない。


 見えないはずの、目だけが見える。

 聞きたくないのに、脳まで聞こえる。


 始まったのは、いつからか。

 タイムマシンって、あるのかな。


 考えるのも、疲れたな。


 もう雨は、止みそうにない。

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雨音 ナロミメエ @naromime

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