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その日も、雨が降っていた。
六時ごろ、予報よりかなり逸れた台風の影響で、高校の補習は早めに終わった。
校門を出る時は、雨は強くも風は弱く、誰かの置き傘を拝借して駅へ向かった。
地下鉄に乗ったのは十五分ばかり、到着するころにはいよいよ風も強くなり、雨は狂ったように降っていた。
この駅から家までは歩いて二十分ほど。
いつもの通路が浸水していたから反対側の階段を上がると、進行方向の左側の歩道に出た。すぐ右手には中央分離帯のある五車線道路。普段なら、真横を通る車の音が歩道にまでしっかり聞こえるが、この日は雨のカーテンが厚かった。
およそくるぶしほどの高さまで雨のあふれた歩道を見て、ほとほと嫌気がさした。だから、鞄からイヤホンを引っぱり出し、その日たまたま貸してもらった好きな歌手の曲を聴きながら帰ることにした。
傘を差して一歩でると、雨打つ音があまりにもうるさく、初めての数値まで音量を上げた。
帰路には四つの横断歩道があり、どこかで、家に続く右側の歩道に渡らなければいけない。ただ、あまり待たずに渡りたくて、一つ目の赤信号は見送り。二つ目の信号がちょうど点滅してくれたので、ここを渡ろうと立ち止まった。
歩道に隣接するスーパーの明かり、照らされた地面では、白い水しぶきが生き物のように狂い跳ねる様をじっと見ていた。
まもなく、イヤホンから好きな曲が流れ始めたころ、信号が青に変わり、私は小気味よく踏み出した。強い風のせいで傘を抱え込むように進むと、首に回しかけるタイプのイヤホンが耳から外れ、持ち手を肩まで通したスクールバッグから垂れ落ちた。足元はプール状態なのに、運動神経の悪い私は慌ててそれを拾おうと腰をかがめ、逆に水没させてしまった、と、次の瞬間だった。何が起こったかわからない。わからないままに前へと倒れ、気づくと四つ這いになっていた。
衝撃で傘が左側へ吹き飛ばされたのは感覚でわかった、でも認識できたのはそれくらい。
立ち上がるより早く、後ろにいたおばさんが心配して声をかけてくれた。
そのおばさんは一部始終を見ていて、私よりも慌てふためいていた。
おばさんによると、猛スピードでやってきた二人乗りのバイク。それは私の後ろを通るまさにその瞬間、後ろ乗りの方が私の頭めがけてバットらしき物を振りかぶったのだという。
私は幸いにも無事だったが、もし、あの偶然がなかったら。もし目撃者もおらず、雨で証拠もなにも流され、台風の飛来物が頭に当たった不運な事故として処理されていたとしたら。そう考えると、私は恐ろしくなったのと同時に、命の貴さを実感したのです。
どのくらい経ったのか、窓の外はまったく静かで、すっかり止んでいるようだ。
話しを終えた久慈は、役目は果たしましたよと言わんばかりに、余韻も残さず、無言でデスクへと戻った。
「は? なに、実話? 怪談だぞ、怪談。怖い話をするんですよー、久慈先生ー」
確かにその通りで、柴田が言うまで、その作り物ではない実体験らしき話に聞き入り、怪談話をしていたことなど部下らはすっかり忘れていた。
「ダメ、やりなおしだ」
柴田はやっぱり柴田らしくそう言ってみせたが、久慈はもう返事もしない。それどころか、女性社員を含めた三人の部下が、まるで我関せずといった風にそそくさと身支度を始めた。そして、唖然とする柴田をよそに、彼らはまるで命の儚さを悟ったかのような神妙な表情で、オフィスを出ていってしまった。
呆気にとられる柴田にとってさらに予想外だったのは、いつもならどんな時でも腰巾着だけは柴田に付き従ったのだが、この日は目も合わせることなく身支度を始めた。たまらずに柴田が呼び止めたが、返事もしない。まるでこれまでの腰巾着スタイルが偽りだったかのように、表情もなく帰っていった。
あまりにも突然に手下をなくし、およそ放心状態の柴田。明日からのことも考えると頭は混乱し、胸悪さが嗚咽を訴えるほど。
だが、部下に見限られた羞恥心からの火照りと、久慈に対する生理的な憤りが、柴田の思考を踏みとどまらせた。
顔を熱くするそれをごまかすように、大きなきかんぼうは拳を振り上げ「やりなおせって言ってんだろ」と吐き捨てながら、三度、テーブルを叩いた。
コーヒーは波打ち、ロウソクが倒れて火が消える。
跳ね上がった燭台は回転し、その金属音が真っ暗なオフィスを模った。
この時刻、増してやこの天気。窓の外からの明かりはない。
耳からは、まるでクビキリギリスが鳴くような空調の音が途切れることなく体の中に入ってくる。
ついさっきまで火照っていた柴田も、既に背筋が凍っていた。
はたと気づく柴田。
つい今までついていたはずの久慈のパソコン画面の明かりが、ない。
闇の中、慌てた柴田は手探りで小さくなったロウソクを探し、もう片方の手でライターを着火、できない。こんな時に、ライターがつかない。
手元で火花が散ると、ちらと、目の端にシルエットが映り込んだ。
脳裏が怯える。
もう一度こすると、さっきよりも近くに映る。
人型のそれはこする度に近づく、近づいて来る。もちろん久慈に違いない、そうでなくてはならないのだが、震えが止まらない。
自分でまいた種ほど、予期せぬ発芽は恐ろしい。
もうそこまで来ているのだろうか、とその時、親指をやけどしながらなんとか着火に成功。
柴田が顔を上げると、とうに久慈は座っていた。
束の間の静寂だったか、止んでいたはずの雨音がいつのまにか戻っている。窓を鳴らすのは夜の風か、どうやらついてきたらしい。
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