夕闇

 時田隊は山の間の小道にまで押し寄せられていた。数もかなり少なくなっているように見える。

「伝令!伝令!」

 重蔵の背後から一人の兵士が馬で駆けてきた。小道から来たということは尾山家本陣からの伝令だということだ。

「総大将より伝令!退却せよ!」

「ようやくか……」

 重蔵が大きく息をつく。

「よし、今すぐ退却の合図を……」

「待て、先にお前が逃げるんだ。」

「何を言っているんだ!?」

 重蔵は太郎の言葉に驚くあまり、つい声を荒げてしまった。

「誰が山中隊を食い止めなければ退却なんて不可能だ。兵が残って食い止めるほかない。」

「ならば俺も残る!」

「ダメだ。」

「何故だァ!?」

 重蔵は怒鳴った。

「兵は隊長のために命を投げ打つ。お前を逃すためにだ。そのために兵は戦うんだ! 実際お前みたいなただの兵士の命なんか彼らはどうとも思っていない。

 だがお前は今ただの兵士じゃない、この隊の隊長だ! お前は漆黒の侍なんだ!

 一人の足軽としてじゃない。『漆黒の侍』として、一人の武士として、決断するんだ。」

「俺は……鎧を脱いだらただの足軽だ……」

「……」

 重蔵は俯いた顔を力強く上げた。黒い布から垣間見えるその眼には強い力が宿っているようだった。太郎は重蔵のその眼に圧倒されていた。その眼は紛れもない一人の武士の眼だったからだ。

「分かった!俺は時田隊の隊長としてこの戦場から逃げる。そして一人の兵士として、ここに必ず戻ってくる!」

 そう言うと、重蔵は黒馬に飛び乗った。そして戦場を背に、小道を南へと駆けて行った。




「よく伝えてくれた。そうなればこちらの陣は長くはもたん。撤退命令を出せ!!」

「はっ。」

 一人の兵士が馬を南に走らせて行った。

「それで時田は?」

 平吉は尾山義澄を時田の寝かせられるところに案内する。

「もう、死んでいます……」

 平吉の仲間の兵士が言った。

「そうか……」

「くっ……」

 平吉が唇を噛んだ。尾山義澄は時田の死に顔をじっと眺めていた。

「よく守ってくれた。武士ならば、首を敵に取られるのも避けたい不名誉だ。彼は死んでしまったが、彼の名誉を守ることは出来た。」

 抱いてはいけないであろう怒りが、平吉の体に駆け巡った。叶うことなら今すぐに刀を引き抜き、目の前にいるこの男の首を跳ね落としたかった。

「俺も重蔵のところに行きます……」

 なんとかその怒りを抑え込み、平吉は尾山家本陣を後にした。




「急ぐんだ、小僧ども!」

 男たちは小さな崖の上で身を潜める。この崖を飛び降りた先には例の小道がある。

「奴らは撤退する時に必ずこの道を通るはずだ。」

 男たちは刀を抜いた。そしてまだ来ぬかとその機会を伺った。

 しばらく時間が経った。すると、黒騎士が物凄い速さで、黒い馬にまたがり走って来た。

「今だ!」

 屈強な男は掛け声を上げると真っ先に崖から飛び降りた。村の若い男二人も勇ましくその後ろに続いた。

「あの野郎!!」

 屈強な兵士は後ろを振り返って怒りの声を上げた。勘太は崖から飛び降りていなかった。勘太は三人が崖から飛び降りるのを見届けるとそのまま山の中を南へと走った。もう勘太は後ろを振り返りはしなかった。




 平吉は例の小道にようやくたどり着いた。すると山から一人の男が勢いよく飛び降りてきた。それは勘太だった。

 しかし平吉の顔は次第に陰っていった。この男との再会よりも、眼は勘太の向こう側の光景にくぎ付けになってしまっていた。

 刀を持った三人の男が黒武者を取り囲む。炎のような真っ赤な空に写る黒い武者は、戦いながらも刀を体に受ける。三人の刀が容赦なく黒武者を襲った。

 それは一人の武士が殺されようとしている姿だった。一人の男が刀を振り上げた。その瞬間、漆黒の武士の頭の黒い影が空へと舞った。黒武者の残った体はそのままゆっくりと地面に倒れ、暗闇へ姿を消した。




 辺りは既に太陽が沈み、暗闇が包み込んでいた。平吉と勘太は暗闇に進行する隊の中でゆっくりと足を進める。撤退する彼ら兵士の間には陰鬱な空気が蔓延していた。

 うつむいていた平吉は突然その足を止めた。

「俺たちは一体何のために戦っていたんだろう……」

 平吉は足元の地面を見続けていた。その言葉を聞いた勘太も立ち止まった。周りの兵士たちは彼らを気にも留めずに歩みを続ける。しばらくの静寂が起こる。先に口を開いたのは勘太だった。

「……俺は仲間の兵士を殺した……その男は俺を見て安心したような顔をしていたんだ。きっと俺という存在が生きる希望を与えたんだ……だが俺は殺した……仕方なかったんだ……自分が生き延びるためにどんなことでもやるって決めていたから、家族に会う為なら何だって!! だから俺は仲間だろうと誰だろうと殺した!……でも、俺のせいで重蔵が死んだ……そして、分かったんだ……」

 勘太の頬に一滴の涙が流れた。唇にグッと力を入れた。

「どんなに生き延びたって、そのせいで大切な友人を殺したら意味なんてないんだ……この後悔だけは無くならないんだよ、生きている限り!! どうしてあの時落ち武者狩りなんかを提案したんだろうって……どうして大切なお前たちと一緒に戦わなかったんだろうって! 何が『自分が生きていることが一番大切』だ! 俺は選択を間違えたんだよっ!」

「……お前は間違ってないよ……」

 平吉が冷ややかなトーンで言った。勘太は涙をぬぐった。

「お前だけじゃない。俺も逃げようとしていたんだ。でも自分に必死に言い聞かせたんだ、『俺は尾山家のために戦うんだ』って。ずっとそう信じてきたから……

 そして伝言役を任された。あそこに残ることは地獄だって誰もが分かっていた。あそこで重蔵に影武者をやらせればいつかは死んでしまうことにも……俺は逃げたんだ。それを分かったうえで逃げたんだ、重蔵を捨てて……。

 他の兵士たちは皆主君のために伝言役を受け入れたのに、俺だけは自分ことだけを考えていた。俺だけが違ったんだ……俺だけが決断出来ずに怯えていた……。

 昔の俺なら『重蔵を止めなかったことを後悔している』とか、『お前を絶対に許さない』とでも言うんだろう……でも、あの時あいつが影武者をして敵を防いでいなければ、俺も敵兵に追いつかれて殺されていたかもしれない……もしあの時俺が重蔵を止めていたら俺は確実に死んでいたんだ……。

 俺は心のどこかできっと選んでいたんだ。自分が生き延びることを望んで、重蔵を見捨てることを決断してたんだ……それを選んだ、俺もお前も。だから俺は後悔していない。後悔なんてするはずがない。だって、俺たちは今、こうして生きているのだから…………きっと、そういうことなんだろう?」

『後悔していない。』そんな言葉とは裏腹に、平吉は知りたくなかったことを知ってしまったかのような哀しみの籠った眼で、何もない暗がりのただ一点をじっと見つめていた。

 平吉は自分の刀が入った鞘を無造作に投げ捨てた。そして進行する兵の列から離れて、一人暗闇の方へと歩みを進めていく。

 勘太は平吉を止めることも、平吉と共に歩くこともできなかった。ただその闇の中に消えていく平吉の後ろ姿を見ることだけしかできなかった。

 それ以来、平吉と勘太が会うことは一度もなかった。

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三人の足軽 シュンジュウ @o41-8675

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