045 SAKURA咲

 早朝。

 濃霧に視界が遮られても仕事は待ってくれない。

 男は薔薇が咲く庭を横切り、鍵のかかった門を開け、夜番役の守衛に声をかけた。

「お疲れ、変わったことはなかったか」

「平和なもんだよ。これで給金もらっていいのかって感じ」

 きっと本音が混じっているのだろう感想を朗らかに笑い飛ばし、使用人室に熱いお茶が用意してあるからそれで温まれと声をかけるつもりだった。――赤ん坊の泣き声が聞こえるまでは。

 少しずつ近づいてきている。

 泣き止まない赤子を抱えた母親が散歩でもしているのかとも考えた。だがこの一帯はターゲスアンブルフの屋敷タウンハウスを中心とした貴族街だ。貴族の子どもが家の外に出るのは昼過ぎ、それも乳母ナニーの付き添いがあってと相場が決まっている。仮に貴族の子どもだとしても、視界の悪い中、使用人が、夜も明けきらぬ時間に俳諧するだろうか。……なにかがおかしい。もしかしたら、たとえば、……そう。

「幽れ……ふが」

 真っ青な顔をした同僚に口をふさがれた。

 泣き声がどんどん近づいてくる。

 霧に黒い影が浮かびあがり、ひたりひたりとかすかな足音が聞こえ──

「ひっ……!」

 二人は今度こそ肝をつぶした。助けを求めて互いを抱き合うような格好になる。

 現れたのは大の男でも勝てないと確信させるだけの大きな野良犬だった。体格もさることながら眼光も鋭く、威圧感に凄味があった。おかしな点をあげるなら一つ、大きなかごくわえていることだが、怖気づく二人に観察眼を働かせる余裕はなかった。

 なんでこんなところに野良犬が! と震えあがった直後。

 またあの泣き声が響く。か細く弱い赤ん坊の声は、野良犬が咥えた籠の中から聞こえた。

 一人の男がそろりと一歩踏み出す。

「ちょっと待て、なにするつもりだ!」

「わかんねぇけど助けないと」

 犬を刺激しないよう極力音量を落として援護を頼む。

「どうなっても知らねぇぞ……!」

 襲われればひとたまりもない。

 高圧的な直視を真正面から迎えて、一歩また一歩を歩みを進めると。

 犬が籠をそっと降ろし、自身もうずくまるように体を伏せた。

 二人は顔を見合わせ、あいかわらず慎重に距離を詰めた。

 一方が籠をそっと持ち上げる。もう一方は身をかがめて野良犬に近づいた。襲ってくる気配はない。それどころか、ずいぶんと疲れているように見えた。呼吸が荒く、さっきまで光を放っていた目も、いまは閉じられたまま開く気配もない。それに血の匂いがした。胴体をくまなく観察すると、毛皮の一部が黒く変色しており、赤黒い染みが霧の向こうに点々と続いていた。

(なんだこれ……)

 さっきまでとは違う意味で顔から血の気が引いてゆく。

(まるでこの犬が、赤ん坊を危険から守ったみたいな……)

「お、おい」

 同僚が震える声を上げた。彼は左腕で籠を囲うように持ち、右手でおくるみの間から一枚の封書を取り上げた。

 朝日が濃い霧に乱反射する異様な静けさの中、封書の出し入れ口をぴたりと止める封蝋が日の目を浴びる。

 見覚えのある紋章でも確かめずにはいられず、二人は背後の門扉をおそるおそる振り返った。

 封蝋とおなじ紋章──ターゲスアンブルフの家紋だ。


   *


 その日の午後、帝宮の離宮の広間サルーンには、常にない数の人間が集まった。

 離宮の──正確には神女たちの管理者である皇子の肩書きと、氏族大公クラン・エルツェツォーグの重責をになうアインホルン。

 二年前にターゲスアンブルフを継承したカール・ターゲスアンブルフ。かつてシュウと呼ばれていた男のいとこだ。

 医師のディキット。

 垂れた目元にほくろを乗せた甘露の神女クリームヒルトと、彼女に抱かれた赤ん坊。加えて、彼女の人狼のうち選抜された六名。

 そこに新たに果実の神女クリスタと彼女の人狼が加わった。息せき切って広間に飛びこんだクリスタは、集まった一同と、彼らに囲まれた血まみれの動物を見て息を呑んだ。

「……うそ……」

 大きな犬かと思ったが、犬ではなかった。

 神女だからこそ分かる。これは人狼だ。しかも彼女──薔薇の神女の……

「まさか……ユスラの……? ほんとに?」

 床に横たわったままの狼が薄く瞼を開いた。

 どんよりと疲れ切った瞳がクリスタを捉えると、再び静かに閉じられてしまう。

 まさか死んでしまったのではないかと焦り、慌てて駆け寄ったところ、浅い呼吸が確認された。途切れがちで、弱く、か細い。いまにも止まってしまいそうだ。

 クリスタは医者でもないし、けがや病気のたぐいとは縁がない。それでも分かってしまったのは、彼女が神女で、よその神女おんなのとはいえ、彼が人狼だからだろう。

 彼はもうもたない。

「なんなの? なんでこんな……」

「ユスラさまよ」

 朝露にぬれたような声のぬしはクリームヒルトだ。

 彼女は抱えている赤ん坊を潰さぬよう配慮しながら、身をかがめてクリスタの隣に膝をついた。

「ターゲスアンブルフ卿のお屋敷の前にこの子を運んできたそうよ。それからこれが」

 差し出された手紙はすでに開封されていた。受け取って表書きを確認するが宛名はない。念のためクリームヒルトの顔を見つめると、構わないと意思表示された。

 クリスタは中から一枚の粗末な紙を取り出した。手紙というよりもただの紙片メモといったほうがぴったりな大きさだった。

「……たくさん謝りたいけれど、紙面が少ないので手短に……」

 特徴的な丸みのある字体で、口語的な文章だった。

 読み上げる声はクリスタのものだったが、多くの人間たちの脳裏で、かつての彼女の声に変換された。


 たくさん謝りたいけれど、紙面が少ないので手短にします。

 この子は神女です。能力は分かりません。名前はサクラ。私とシュウの子どもです。


「……え」

 驚きのあまり朗読が止まった。鼓動が一気に早くなる。

 子ども? 神女と人狼の? ありえない! 神女は子どもを持てないはず……。

 返答を求めて続きに目を走らせる。

 だが紙面が足りないという前置きのとおり、謎に対する回答は記載されていなかった。


 クリスタとクリームヒルトさまにこの子を託します。

 離宮の図書室、北の一番奥の一番下、右から五番目に、ある双子の兄妹きょうだいの考察についての資料があります。

 神女と人狼について調べてください。きっとまだ秘密がある。


 手記はそこで終わっていた。最後の一文、秘密のくだりは隙間にねじこように潰れそうなほど小さな文字で書きこまれていた。

 室内に沈黙が落ちる。

 静かになると、皆の呼吸がよく聞こえた。とくに浅く早い人狼の呼吸がクリスタの鼓動に同期するように続く。

 彼のことを思い出して、クリスタはクリームヒルトにとりすがった。

「ね、ねえ、異能で手当てできないの? 傷が治って人間にもどれたら、もしかしたら話が……」

 ユスラはかたくななほどに守護者をもとうとしなかった。この人狼がターゲスアンブルフかグレンツェンか、どちらかであることは確実だ。きっと事情を知っている。そう訴える言葉を途中で止めたのは、甘露の神女の垂れ目が険しさを放っていたからだった。

「なんで……」

 助けてくれないの? 目で訴えると、クリームヒルトは眉間に苦悩を刻んで「いいえ」と否定した。

「そうではないわ。でも考えて。守護者は、あるじではない神女の体液を摂取すると死に至るのよ。もしもその法則が異能までおよぶとしたら……?」

 以前のクリームヒルトなら、こんなことは考えもしなかった。だが薔薇の神女が離宮から出奔し、異能について深く考えるようになって思考が変わっていた。

 異能の法則性、ちからが及ぶ範囲、そしてどれだけの効力があるのか。

 異能と体液は神女の身の内から生まれる。ならば異能も体液と同じ条件をふくんでいるのではないか。だとしたら、あるじを持つ人狼は、他の神女の異能に触れただけで死ぬのだ。

 この場合、クリームヒルトが傷を癒せば守護者は死ぬことになる。

 いくらかの人間が、はっと顔をこわばらせた。クリスタもその一人だった。

 クリームヒルトはなおも続けた。

「……仮に傷を癒せたとしても、きっと先は長くないでしょう」

 傷を帯びて舞い戻ってきた理由が軽いはずがない。ターゲスアンブルフの封蝋に、片端の伝言を託された理由は、最悪の事態を連想させた。

 もしもユスラがすでにこの世にいないのだとしたら──この人狼は延命の甘露を得られない。ひと月ももたず死ぬ。

「……っ」

 なんで、こんなことに。

 震える唇を無理やり押さえつけて、目尻からこぼれようとする涙をとどまらせる。

「いずれ死ぬ身だというのなら、試しても構わないだろう」

 室内の重苦しい空気を引き裂いたのは皇子だった。「どうせ、」

 悲しみが激昂にすり替わった。クリスタはすばやく身をひるがえし、遠慮なく皇子に平手を見舞った。広間に小気味良いほど乾いた音が響いた。

「アンタってマジでサイテー!!」

 下町出身の人狼から仕入れた言葉で最大限に罵った。殴り足りない。もう一発どころか二発でも三発でも、両手がだめになるまで殴りたかったのに、守護者であるライナーに止められた。

「放してよ!!」

 彼は無言のまま、暴れるクリスタを羽交い絞めにした。金切り声を上げて全力を振り絞るが、人狼の力にかなうはずがない。

 騒々しさに目を覚ました赤ん坊が泣き声を上げる。クリームヒルトが腕を上下させてあやそうとするが、睡眠を邪魔された子どもは生命力のかぎり叫んだ。

 その大音声に隠れて、床に伏した人狼が長い長い息を吐いた。力を使い果たした狼はそれきり呼吸を止め、間もなく灰となった。

 クリスタの脳裏に、かつて彼女の目の前で、同じように灰になった人狼のことがよぎっていった。

 言葉にならない罪悪感でいっぱいになる。全身から力が抜け、守護者もまた拘束を解いた。

 そのまま覚束ない足取りでクリームヒルトに近づき、彼女ごと赤ん坊を包みこんだ。

「ごめん……ごめんなさい……ごめん……」

 灰になった人狼たちに。

 あらたな生命に。

 なによりも、力になれなかった友人に、謝罪をくり返した。


   *


「サクラ!」

 薔薇の茂みに身を隠していた少女は、鋭い一喝を受けてびくりと体を震わせた。

 まずい、逃げなければと新たな潜伏先へ向かおうとしたが、努力虚しく捕まってしまう。

 クリスタの守護者ライナーに「すまない」と、あっけなく抱きかかえられた。

「サークーラーぁ! あんたって子はぁ!」

 鬼の形相で迫って来る母に悲鳴を呑みこむ。こんな時は泣き喚くより、あやまるのが先決である。サクラは六歳にして母のあつかいを心得ていた。

「ごめんなさい、ママ」

「ごめんで済むなら警邏はいらないのよ! このいたずら娘が! どうしてくれるのこれ!」

 クリスタが目の前につき出したのは、盛大な落書きが入った勉強用の聖書だった。

「一冊しかないのよ!? 取り寄せるのにまたあのクソ皇子に頭下げなきゃなんないなんて! ああもうサイアク!」

「じゃあ頼まなきゃいいと思う!」

 意見があるときは手を上げて、という教えを守り、利き手を上げたサクラはぎろりと鋭い眼光に睨まれた。

「へえ? じゃあもう一段上の難しい本を使いましょうか? 良い子で頭のいいサクラちゃん?」

「ご……ごめんなさい……」

 迫力に気圧されて今度こそ本気で謝罪した。

 普段から怒りっぽいクリスタにも、絶対に怒らせてはいけない境界線がある。たいていは皇子──この離宮を管理しているオジサンに関わることで、サクラは調子にのって線を踏み越えようとしていた。危ない危ない。

「まったく……!」

 怒りがおさまらないらしい母も、きちんと反省をにじませる娘を見、とりあえず怒鳴ることはやめた。腹の虫をおさめるのに、一帯に咲き誇る薔薇でも刈り取ってやろうか、などと実行しないだろう腹いせを妄想していると、掃き出し窓からかすかな笑い声が響く。甘露の神女クリームヒルトだ。叫び声を聞きつけて様子を見にきたらしい。

「おかあさま!」

 サクラが救世主を得たとばかりにライナーから飛び降り、彼女に駆け寄った。

 クリスタはそれがおもしろくない。

「ちょっと、あんまり甘やかさないでよ」

「あらあら、ママは今日もご機嫌が悪いみたいね」

「ねー」

「あったりまえでしょう! 見なさいよ、この落書き!」

「犬も猫も描き分けできているなんてすごいわ。絵画の授業をしてみたらどうかしら?」

「アンタのそーゆーとこよ!」

 意見が伝わっていない! クリスタの嘆きをひと通りからかったクリームヒルトは、おやつの存在を明かし、サクラをお茶の席へうながした。

「ライナーと先に行っていなさい」

「はあい」

 二人が充分に遠のいたことを目視し、残された神女たちは薔薇の園の端で顔を突き合わせる。

「……犬と猫でよかったわね」

 クリスタは苦虫を噛み潰した顔になった。

「いっそ私のこと描いてくれたらって、ときどき思うわ」

「幼い子どもは身近なものを描くのが普通なのでしょうけれど、あの子が私たちを描かないのは、なにか本能的なものがあるのかもしれないわ」

「本能、ね」

 特にその勘が強かった友人を思い浮かべ、クリスタの表情に影が射した。

「私とちがって自分で制御できるだけマシかもしれないけど……」

「どうかしら。離宮にいる以上、いつだれに異能を利用されるとも限らないわ。制御ができるということは、特定の誰かに異能を向けられるということでもあるのだから」

 どちらともなく視線を合わせる。

 守りたい、いつまでも。けれど永遠にとはいかない。とくにクリームヒルトは容色の衰えが少しずつ明らかになるほどの年齢になった。時の流れは残酷だ。けして願いをきいてくらない。

「あの子自身に、自分の身を守れるほどの強さを。……それがわたくしたちにできることよ」

「……そうね」

 同意し、みぞおちの前でぎゅっとこぶしをにぎる。

 それが三人・・の母たちの願い。

 未来へ託す、唯一の願いだから。

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神女と人狼* ひつじ綿子 @watako

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