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 馬車を降りたカールは視線を左から右へと流し、これから己のものとなる屋敷を思うままに眺めた。


 両手いっぱいの敷地。長く伸びる柵。行く者を阻む門。


 よく手入れされた庭には季節の薔薇が少しだけ残り、かすかに甘い匂いを漂わせている。


 田舎の領館と比べると、建物は小さい。


 だがこの帝都でこれだけの屋敷を持てるのは、一部の伝統貴族のみだ。


「カール様、どうぞこちらへ」


「お、おう……」


 出迎えてくれた執事の案内で庭を横切りながら、カールの心は萎えかけていた。


(いまの帝都は人間がひしめきあって地価がハンパねぇ。そもそも手に入れようと思っても、手放す人間が少ねぇんだ。しかもこんな一等地)


 金貨に換算すれば、どれほどになるのか。


 おまけに帝都は物価も高い。物価が高い地域は労働賃金も高い。


 格式の高い名家には、教養を身につけた使用人が必要だが、そういった人種は特に値が張るものだ。これだけの屋敷を維持するには頭数も必要なので、人件費の総額など考えるだけで恐ろしい。


 カールは執事の背中を見た。


(この執事の賃金だって、俺の元の給料の二倍、三倍はかかるはずだ)


 胃が痛い。


 都会はなんて恐ろしいところなんだろう。


 カネがかかりすぎる。


(俺ひとりなら、なんとでも生きていけるんだがな)


 子どものころには分からなかった、屋敷の正しい価値。従う使用人たちに対する責任。ターゲスアンブルフの家名の重さ。


 正面玄関に達すると、知らずため息がこぼれた。


 名家の分家に生まれながら地方で叩き上げられた経歴がなかったら──あの気楽な日々を知らなかったら──今日という日に、もっと心地よく酔っていられたかもしれない。


「思いのほか早くお越しいただきありがたいことです。領地のお仕事は宜しかったのですか?」


「ん、ああ。あっちは体制が整ってるからな。俺がやることなんて、せいぜい数字確認して判子をぽんだ。ほとんどお飾りだよ」


 正面玄関をぬけてホールへ入る。


 使用人が全員そろって出迎え……なんてことはなかった。


「使用人はどうしてる?」


「つつがなく職務を全うしております。ここ一年ほどは先代様の足も遠のきがちだったため、少々平和ぼけ気味ですが」


「はは。まあ、そっちは任せるわ」


「ご挨拶は──」


「勘弁してくれ。長旅で疲れてる」


「良うございました。明日には全員そろいますので、その折にでも」


「手加減頼むぜ」


 子どものころのカールを知る執事の配慮は完璧だった。


 おかげで心が少しほぐれる。今晩だけでもゆっくり休めるのだ。


「……使用人は確か、あんたが最年長だったよな。メイド長はどうしてる?」


「三年ほど前に退職しました。コックも代わっております」


「そうか」


「詳細は明日にお話ししましょう。まずはどうぞ、こちらでございます」


 階段を上って二階へ。さらにもう少し進んだところの扉が開け放たれた。


 室内は丁寧に清められて埃ひとつない。


 大きな執務机。革張りの椅子。書棚。


 全体を俯瞰しながらゆっくり中へ進み、務机の端を指先でそっと撫でた。


「……親父も馬鹿だよな。下手なことしなけりゃ、ここに座っていたのは親父だったのに」


 かつてこの屋敷には、カールとカールの父、父の兄家族が住んでいた。カールには七歳年上の従兄がひとりいて、子どものころはよく遊んでもらった記憶がある。


 だがカールが十一歳のとき従兄の両親が事故で亡くなり、幸せは形を変えた。


 長子相続の慣習に従って従兄があとを継ぐと、カールの父が後見人となって一門を維持するための領地経営の基礎を教えた。


 が、あれは必要なかったのでは、とカールは思っている。それというのも、従兄はひどく優秀だったからだ。


 教えられることを、乾いた土が雨を吸い込む勢いで吸収し、機転をきかせて応用する。口では簡単だが実行するとなると難しい。従兄はそれをあっさりとやってのけた。


 たいして年齢が離れているわけでもないのに、カールには従兄が見ている世界が理解できなかった。彼は十年、二十年という年月を飛び越えて物事を見る目を持っていた。


 そのくせ、能力を鼻にかけることなく、むしろ後見人という役目を背負ったカールの父を、ことあるごとに立ててくれていた。言い方を変えれば、カールの父に一歩譲ってやってくれていたのだ。一族の長としての威厳や、報酬や、権力を。


 それらは年長者としての自尊心を満足させ──


 残念なことに、増長させてしまった。


 従兄の功績を自分のものだと勘ちがいした父は、こっそりと家財に手を出すようになった。高価な品々を売り払い、代金を懐に忍ばせた。


 従兄は、どうやら最初のいくらかは気づかないふりをしていたようだ。


 だがやり口がどんどん露骨になってきたため、粛清せざるを得なくなってしまい、従弟は実の叔父とカールを地方に封じた。


 屋敷を離れる日のことは、いまでもよく覚えている。カールの父は不当な処分だと喚きたてて、使用人たちに馬車に押し込められていた。従兄は無表情で、感情なんてなさそうに見えた。


 幼いカールは状況を見極めることに務めていた。正しいのは父なのか、従兄なのか。使用人たちの態度は従兄をかばう方へと向いていたが、そもそも彼らはあるじに──つまり従兄に雇われているので判断材料にはなり得ない。


 おそらく従兄の顔を見るのは最後になるであろう機会を逃さず、カールはまっすぐ彼を見上げた。


「すまない」


 低くよく響く声を聞いて、心は定まった。


 従弟の声は、あまりにも深い悲しみに沈んでいたから。



 物思いから回帰し、カールは顔を上げて再度、執務室を見やった。歴代のターゲスアンブルフ卿が温めてきた椅子、仕事を補佐したであろう書物、来客を迎えていた応接セット。年月をかけて積み上げられてきた責任がいま、カールの背中に移っていく。宮廷の重鎮、伝統貴族の筆頭と呼ばれるほどの地位が軽いはずがない。


 しかも先代のターゲスアンブルフは、自らが探し当てた神女シンニョとともに現在行方知れず。隙のない立派な人物だったにもかかわらず、最後の最後に残った汚点があとを引いて、ちまたの評判は落ちてしまった。


 よって、後継者となったカールに向けられる世間の目は、かつてないほど厳しいだろう。父親が父親なだけに、なおさらに。


 それでも──


「カール様」


 呼ばれて振り返ると、執事が折り目正しく低頭していた。


「あなた様をこの屋敷に迎えられたことを、心より嬉しく思っております。本当にありがとうございます」


「おいおい、なんだなんだ? 俺は言われたまんま跡を継いだだけだぞ」


「……使用人ごときが申し上げることではありますまいが、ターゲスアンブルフ卿の跡を継ぎたがる者はご親族に山積しているでしょう。しかし、あなた様は地に落ちたターゲスアンブルフの名を回復する努力を重ねようとさなっておいでです」


 シュヴァルツが行方不明となり、遺言状が公開され、カールが跡継ぎに決まって以来、カールは実父のように過去の栄光にしがみついて権力をふりかざすのではなく、雑言に耐え紳士にふるまって名のある貴族の継承者として背筋を正してきた。その中で笑顔が引きつったり、帰宅して激昂したりしたことは、両手の数ではあまるほどあった。ただカールは父親のあの性格によって忍耐だけは鍛えられていたから、耐えることができた。乗り越え、また明日も頑張ろうと思えたのは、従兄の存在があったからだ。


『すまない』


 あのとき従兄はどんな気持ちでこの一言を絞り出したのだろう。


 きっといまも──生きているのだとしたら──遠い空の下で同じ言葉を呟いているはずだ。


 彼はそういう人間だった。抑圧された環境で誰よりも誇り高い人間だった。ターゲスアンブルフという家が、名前が、生まれて三十年以上、彼から自由を奪い続けたのだ。


 その彼がいま自由を手に入れたというのなら、ぜひとも謳歌して欲しいと思っている。


 そのために後継者が必要というから、カールは喜んで彼の身代わりになったのだ。


「礼を言われるようなことじゃないだろ」


 当たり前のことだろう? そう問いかけたが、執事は緩やかに頭を横に振った。


「あなた様はシュヴァルツ様を除籍するどころか擁護なさられていると聞き及んでおります」


「そりゃそうさ」


 カールは力強くうなづいた。


「ターゲスアンブルフがここまで太く立派になったのは、あの従兄殿のおかげだろ。ただ歴史だけ古けりゃ誰もが尊敬するわけない。あいつがターゲスアンブルフの看板しょって、堂々と宮廷にいたからそうなったんだ」


 それを、たった一つの我がままのために、過去の努力すべてが水泡に帰してしまうのは惜しいと思う。


 尊敬する従兄のために。


 未来に記されるであろう従兄の名を少しでも良いままにしておくために。


「……あいつは俺の目標なんだ」


 ぽつりともらして、カールは差し込む日差しに目を向けた。


 執事はそんなカールを、目を細めて見た。


「そんなあなた様が我々使用人のあるじとなって下さったことが、本当に嬉しいのです。シュヴァルツ様と同様に、心から仕えさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」


 再び深々と頭を下げた執事の肩に手を置いて、カールはもう片方の手を差し出した。


「ああ、よろしく頼む」

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