“ノスタルジア牛丼”を召し上がれ
和泉ほずみ/Waizumi Hozumi
それに魅せられた人たち
「腹が、減ったな……」
フラフラになりながらも、俺は無意識下で歩を進めていたようだ。そして、気がついたらここに到着していた。
この、牛丼チェーン店の『ウマウシ』に。
普段だったらドライブスルーを利用し、店内に入ることなく牛丼を調達するのだが、生憎、本当に運の悪いことに、俺はついさっき車をパクられた。まあ特に思い入れのない安物の中古車ではあるが、車を盗まれて平常でいられる奴というのもなかなかいないだろう。……いないだろうが、まあなんだ、俺は今そこそこ平気だ。
店内に入る。この自動ドアの緩慢さにも、特に苛立ちを覚えることはなかった。
「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですね。何になさいますか?」
「そうだな、折角なら今日から始まった期間限定の……」
「はい。“ノスタルジア牛丼”ですね。少々お待ちください。あちらのカウンターへどうぞ。……だ、大丈夫ですか?」
「んっ、ああ。別に俺はこれといって……。……?」
『うぅ……あぁ……う、うぅぅ……』
……反射的な反応こそ示してしまったものの、この店内の異質な空気に、俺はわざわざ特筆するほどの違和感を感じなかった。ああ、たしかに、まあ……。
促されるままに俺は、若い女の店員が掌を向けた先にあるカウンター席に腰掛けた。
でもまぁ、よく働くよなぁ……。
特に何って訳でもないが、周りを見渡す。どの客もこぞって、“ノスタルジア牛丼”を注文していたようだ。
ふと、地元の高校の制服を纏った女子高生が目に止まった。彼女は、もう既に冷めてしまったであろうノスタルジア牛丼を目前にただ涙を流すばかりで、一向に箸が進まない。ああ、ひとくちは食べたんだろうな。器の中身がほんの少し減っているのが分かる。要は泣くほど美味しいってことか、その期間限定牛丼は。
さて、その他の客はというと。
とっくに完食しているというのに、目の前の丼を横にどかして、カウンターに突っ伏したまま微動だにしないジイさん。
阿呆みたいに食べ散らかして、店のテーブルを汚すことを厭わない行儀の悪いバアさん。
これでもかというくらい丼に紅生姜を盛って満たされた表情を浮かべる、俺より少し歳下くらいの中年の男。
放心状態になりながら、器に残った2つの米粒を見つめ続けるボウズ。
風変わりなオカルト番組に受動的に釘付けになるように、俺はその奇怪な視界に意識を奪われていた。
「お待たせしました~」
俺を現実に引き戻してくれたのは、さっきの店員のネエちゃんだった。表の見えるところに出てきている店員は、どうやら彼女だけのようだ。
「はい。ノスタルジア牛丼、只今お持ちしました。ごゆっくりどうぞ」
「あ、ああ……」
……ん?
なんだこれ。
お盆には勿論、頼んだ牛丼と、箸が置いてあった。
そしてそれら以外にももう1つ、キャラクターものの絆創膏が添えられていた。
「ああ、なんか気を遣わせちゃったか?まあなんつーか、ありがとうな」
「あっ、いえいえ!それより冷めないうちに召し上がって下さい。こちらの牛丼は“哀愁たっぷり”ですよ」
「哀愁、か……じゃっ、いただきます」
割り箸の真ん中辺りを口に咥え、それに両手を添えて勢いをつけて2つに切り離す。
見た目は何の変哲もない、ただの牛丼のように見える。
俺はひとくち、ノスタルジア牛丼を口へと運んだ。
そんな単純な行為を契機として、俺の脳味噌は唐突に、
*
「まこと!まことー!今晩は、何が食べたいかしら?」
「牛丼!ぎゅーどん!ギュードンがくいたいよ、母ちゃん!」
幼い頃の俺は、決して裕福とは言えない家庭で育った。俺にとってのご馳走というのは、徒歩6分の場所にある牛丼チェーン店の牛丼だった。丁度俺が4歳くらいの時、牛丼チェーン店が続々と勃興し始めて、世間はちょっとした牛丼ブームだった。リーズナブルで、そこそこ美味い。どの世代の人々も、今晩の夕食の候補の一つに牛丼を追加したことだろう。そのおかげで、俺の家におけるご馳走は、廃れる寸前のようなスーパーのカルビ弁当から、その上位互換とも言える大人気チェーン店の牛丼に代わった。
「『コクウシ』もおいしーけど、ぼくはやっぱりたっくさんメニューがある『ウマウシ』が好き!母ちゃんはー?」
軽く30年以上は経った今になってあの初期のウマウシの牛丼を食ったところで、お世辞にも美味いとは感じないかもしれないが(どちらかというと、オリジナルの味はコクウシが勝るが、味の質に対抗すべく、ウマウシはメニューのバリエーションで勝負していた)、当時の俺にとってはウマウシの牛丼が、なによりも一番美味に感じたのだ。
日本の景気が潤ってきたからなのか、当時の俺にそれは分からなかったが、俺の家は少しずつ経済面がマシになってきた。衣食住に関して、そこまで極端な我慢を強いられることも少なくなったのだ。
……それでも俺は、牛丼が大好きのままだった。
ごめんな、母ちゃん。女手一つでわがままな俺を育てて、必死に働いて、少しずつ給料も上がってきて、母ちゃんがあのクソ親父と暮らしてた時くらいにはマトモな生活に戻ってきたっていうのによお……。
いくら夕食の献立の候補が増えようと、それでも俺は牛丼にしか興味が無かったから、母ちゃんも俺と一緒に牛丼を食べるしかなかった。
贅沢、したかったよな。だってクソ親父がまだマトモだった頃は、そこそこ美味いもんとか食わせてもらってたんだろ。俺が狂ったようにあそこの牛丼に取り憑かれていたから、母ちゃんもそれに付き合わされて、来る日も来る日も牛丼三昧。母ちゃんはそんな俺に「まったく、安上がりなガキで助かるわねぇ」なんて微笑みながら言っていたけれど。
母ちゃんはもう逝っちまった。母ちゃんはもういない。もうこの世の何処を探してもいないから、伝えたいことも伝えられない。いつまでも俺のわがままに付き合わせていたことについて、ごめんね、も、ありがとう、も、言えなかった。本当に急なことだったから、何も伝えられなかった。
母ちゃん、貧しい家庭だったけど、俺のことちゃんと伸び伸びと育ててくれてありがとう。今度はちゃんと、ちゃんと母ちゃんに伝えるよ。沢山、感謝の気持ちとか、後悔の気持ちとか、しっかり伝えるよ。……もう少しだから待っていてくれよ。
今の俺の仕事柄、多種多様で多国籍な料理を食うことが多いけれど、でもやっぱり母ちゃんと一緒に食う牛丼がなによりも一番美味かったよ……。
*
……箸を持つ右手は震えていた。
ノスタルジア牛丼なんて洒落た名前をうたっているが、要は単に、初期のウマウシの牛丼のレシピ通りに作っただけなんだろう。
はっ!なんて安っぽくて、時代遅れで、粗末な味なんだ。
心の中でそんな悪態を吐きながらも、それでもなお、俺は少しの間箸を丁寧に掴むのが難しくなっていた。
……………。
でも、うめぇ。これ、うめぇよ、美味すぎる。
あのせまっちいあばら家みたいな所で、きったねぇテーブル囲んで、仕事帰りで通勤服のままの母ちゃんと食べた牛丼の味、そのものだよ……。
そりゃそうか。そりゃあ、そうだよな。大切な人と一緒に食卓を囲んで食った飯が、不味いものなわけないよな。あの日々の中、母ちゃんと俺が穏やかな笑顔で談笑しながら食ってたあの牛丼が、不味いわけないよな。
「うっ……えっぐ、あっ……うぅっ……」
俺は牛丼をゆっくりと口に運んだ。運び続けた。その動作は実に緩慢で、それでいて、えも言われぬ決意に満ちたような凄みを感じさせるものだった。
「はっむ、んぐっ……んっんっ、はぐっ、あぐっ、んっ、ふっ。ハァ、はぁぁ……」
美味い。涙と鼻水で顔がくちゃくちゃになろうとも、俺はそんなことは気にしなかった。この舌がしかと感じ取ったノスタルジーの余韻に浸ることで、いっぱいいっぱいなのだ。
……………。
「ごちそうさま」
俺のその言葉を今か今かと待ちくたびれていたかのように、女店員は口を開いた。
「お粗末さまでした!って、私は作ってないけど……またお越しくださいま……せ……」
彼女は唐突に言葉に詰まってしまった。その表情は陰りを帯びている。
「……ああ、勿論また来るさ。哀愁キャンペーンの期間が過ぎないうちに、な」
彼女は表情にその陰を残したまま、何処か哀しげに首肯した。
「あ、あの!ありがとうございました!」
「あっははは、こちらこそありがとう。この絆創膏、有難く使わせてもらうよ。俺みたいなオヤジが付けるのはちと、恥ずかしい気もするが……」
「ふふっ……では、お元気で……」
俺は彼女に見せた微笑の一切を崩すことなく、その、ノスタルジックないつかの牛丼屋を後にした。
俺にとっての大事な足である車を”強奪“された時に顔面に負った打撲傷による痛みは未だに引くことは無い。それは決して軽くはなかったし、絆創膏一つで和らぐものでもないはずだが、いやはや、人情というものはときに、万能薬にも成り得るのだな。と、俺はしみじみ思った。
でもなにより俺は、“最期に”大好きな牛丼が食えて心底満足だと思った。
……さて、今日は世界の終わりの日。紛れもなく、これは覆ることのない終末。今日、この日が、今在る全人類の命日となる。
───超巨大隕石の衝突まで、あと1時間と7分。
「おいそこのお前。お前だって。なあ、人生最期の日、お前は一体何を食べたんだ?」
“ノスタルジア牛丼”を召し上がれ 和泉ほずみ/Waizumi Hozumi @Sapelotte08
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます