第28話 姉の心、弟知らず
弟の続は、すぐに母親の後ろに隠れるような子だった。もしくは、私の後ろに隠れる。
手を繋いでいないと人が多いところへいけないし、私が間に立たないと欲しいものを赤の他人に伝えられない。
弟が六歳下ということもあり、単純にかわいかったのもあるけれど、必要とされているのが嬉しかった。
怖そうな人が近づいて来たり、知らないおばちゃんが話しかけてきた時に、ギュッと握り返してくる小さな手が好きだった。
私が高校生になり、続が小学校高学年になる頃には、もう以前のようには必要とされないようになったのだけれども。
『やさしい話を書く姉さんのような作家になりたい。
読んであたたかくなる話を書ける人になりたい。人を明るくさせる話を書きたい。
だけど、本当は姉さんの話の続きを読みたい。あと、コタツで寝ていると母さんにけっとばされるので、やさしく起こしてくれる姉さんがいてほしい』
汚い字。
漢字だけが変に大きい。小学校の卒業文集に書く内容として、ふさわしいかといえば疑問が残る。
けど、必要とされていた。
口と手足が同時に出る養母の様子も思い浮かぶ。足を蹴っ飛ばされて、文句を言いながらしぶしぶ立ち上がる弟が見える。
どうして見えてなかったのだろう。家族はそこにいて、普通に居れたというのに。
最初から、本間家に生まれたように生きていれば良かったのに。
何もかも忘れたふりして生きていけばよかったのに。
帰ろうと思った。
こんな罪深い自分でも、まだちょっと現実で生きていていいんだって。
真実を知られればそうじゃないだろうけど。
もし迷惑をかけることになってしまったら、恐いけれど、と。
現実に帰って来てから、弟はとても優しい。ほとんどのことは聞いてくれるし、いつもにこやかそうにしている。
弟は自分の前では借りてきた猫のように大人しい。
前はそうでなかった。
前は喧嘩もしたし、悪口も言った。ひどい時には何日だって口をきかなかったことだってあった。
「お腹すいたー。なんかない」と手持ぶさたにマグカップを回すようなことをしないのはわかっている。
けど、図体だけ大きくなって、小さかった時と同じ弟なのによそよそしく感じる。
ベールに包まれて、素が覆い隠された人のように思える。
実は、見てしまった。
「いつから文部省は未成年者保護までやるようになったんだ!? おい、コラ、みかん! お前の所為だぞ」
本間 続がみかんに対して怒鳴るのに、横から遠藤が挟む。
「関係者と思われたからでしょうね」
「思われたくないわあ!」
「そこで、ですよ。わたくしめが関係者として呼ばれればいいってことで」
「お前一人の方が不安だろうが。青少年保護育成条例違反で部下が逮捕されたくないぞ俺は」
すぅっと息を吸い、本間は矛先を再度みかんに向ける。
「いいか、いいか、みかん。作家の家のまで行って、窓から見える位置で電話をかけて、『進捗ダメですね』のプラカード見せんな! 作家らの話題になって、楽しみにされて、微妙に影響出てるんだぞ」
「やった!」
みかんは万歳して喜ぶ。
「やったじゃない! あと、『新刊落ちました』のプラカードもやめろ。別のやつがショック受けてたじゃねえか! 知らんけど!」
「わっしょい!」
みかんはぐーの手を高々と上げる。
「わっしょいじゃねぇ! こんなことやってないで、勉強しろおおおお!」
ふぅ、と本間は片手を頭にやり、間を置いて真剣な顔でみかんと相対する。
「あのな。いいか。お前は年若い女性で可愛い部類に入ることは自覚しろ。他人の家近くにいって電話かけるようなことは危ないからやめろ」
「かわいいって褒められた。きゃっほい!」
「ちげぇ―わぁぁ――!!」
本間は頭を抱えた。
「なに口説いているんですか。ずるいですよポンカン係長」
「お前もアホかぁぁ! だれがポンカンだぁ!」
本間は遠藤の肩をバシッと叩く。
「パワハラですよ。訴えますよ」
「精神的苦痛で訴え返してやらぁぁ!」
そういうやり取りを見た時に浮かんだのは、『楽しそう』と『羨ましい』という思いだった。
弟は自分の前では、あんな豊かな表情をしない。
怒鳴ったりしない。
ああいった掛け合いがしてみたい。
―私も怒鳴られたい。
少しズレてはいたが、本間 夏美の純粋な気持ちはそうであった。
****
まずは悪口からいってみる。
弟は夕飯、お風呂や家事全般を終わらせた後は、決まってお気に入りの椅子に座りサメのぬいぐるみを肘で潰して、海外ドラマを見るか本を読んでいる。
テレビの前のソファはほとんど使わない。それが少し寂しい。
ソファに座ったところで、弟は隣に座らないのだ。
弟の後ろから呼びかけてみる。
「ねえ、ポンカン」
頭が少し揺れたが、それだけ。
「ポンカン係長」
ゆるりと弟が振り向く。予想に反して、不思議そうな顔をしていた。
「姉さん。姉さんも本間だから、ポンカンになるよ」
「そう、そうね」
(私、本間だった)
失敗した。
顔が赤くなるのを自覚して、咄嗟に手で覆う。
「あ、姉さん。気にしないで。姉さんにならポンカンと言われてもいいから」
(違うのっ)
弟の優しさが憎い。
数学のテストでわざと赤点とっても、勉強しろとは弟は言わない。むしろ「微分積分は苦手だけど、階差数列と確率は覚えているから教えられると思う」と言ってくれる。
七味の穴のある中フタを取ってみたけれど、なぜか弟は引っかからず普通に少量をかけてみせる。(夏美は知らなかったが、続はこういう悪戯は都道によく受けている)
仕事用の鞄にゴキブリやらカエルのおもちゃをこっそり入れてみたが、何食わぬ顔で帰って来て話題にもしない。(夏美は知らなかったが、続はこういう悪戯は日常茶飯事に都道に受けている)
ビックリ箱をプレゼントしても、驚かずただ嬉しがるだけ。(夏美は知らなかったが、以下略。あと、続は姉に何かをもらうのが単純に嬉しい)
物語未完部に入ってみたものの、反応があったのは最初だけで、弟の怒りは常にみかんの方に向かっている。
羨ましい。
どうしたらいいだろう。
遂に方策が尽きてしまった。
そういえば、日常的に理想的な掛け合いをしているのが都道という人だ。さすが親友というだけある。
「都道? あれは鎌をもたげたカマキリを棒でつついたり、アリの行列を邪魔するように石を置いたり、平和な木にクワガタやらカブトムシやら大量に投入して闘わせて観察して楽しむ。そういうのを平気で人でやらかす人物だよ。関わってはいけない人ナンバーワン」
と、弟は語るものの仲は良さそうにみえる。
弟がちょうどいい高さだからと潰しているサメのぬいぐるみは、都道が二人暮らしの引っ越し祝いに送ってきたものだ。
部屋中、段ボールだらけの引っ越し当日に、ひと際大きな段ボールで送ってきた。
IKEAのサメ、ニトリのサメ、ヴィレッジヴァンガードのサメ、海遊館のサメ。
最初に荷解きする羽目になったのは、服でも食器でもなくサメ。
サメ。
どう見ても嫌がらせなサメたちを、弟は捨てることも売るとこなく置いている。
ニトリのサメは常に笑っている表情が都道に似ていて不愉快、と弟は肘で潰す対象によくする。けど、サメを潰している弟はかわいいと思う。
そうだ。嫌がらせの方法を彼に訊けばいい。
弟がお風呂に入っている間に、携帯を探り、都道の電話番号をこっそりと控えた。
****
「やあ、君からお呼び出しがかかるとは思っていなかった。久しぶり」
真向いに笑みを浮かべた都道が座る。弟が万が一でも来ることがないよう、高校生ばかりがくるカフェを選んだけど、童顔だけあって浮いてはいない。
「あの……」
どう言えばいいんだろう。
―あなたみたいに、弟に怒鳴られるにはどうすればいいでしょうか。
一言目から、ちょっと失礼な気がする。
まずは世間話から。
弟の話題から。
「弟がかわいくて、天使すぎて、悪い誰かに連れ去られるかもしれないと思うと心配」
「天変地異が何度起ころうが、そういうことは絶対に起きないから安心しなさい」
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