先輩の彼女

中村ハル

第1話 裏門の彼女

 カラスの鳴き声が聞こえて窓の外を見ると、裏門の木の下に、すらりとした姿が見えた。

「セーンパイ、満晴先輩!」

 亨は窓から身を乗り出して大声で呼ぶと、大袈裟なまでに大きく手を振った。振り返った坂本満晴は亨の姿を認めると、目を細めて軽く手を振り返す。

「危ないですよ!」

「大丈夫だよ」

 声を張り上げた亨とは対照的に、普段よりやや大きいくらいのボリュームで坂本が応える。見た目のみならず、仕草もスマートな坂本は、悔しいことに声もよく通る。加えて生徒会に所属しているとあれば、非の打ちどころもない。夏の日差しがあまりにも似合う坂本につい苦笑して、亨は裏門に葉陰を落としている木に目を移した。

 何という木なのかは、生物の教師から聞いたような気もするが、忘れてしまった。覚えているのは、そこに毎年巣をかけるカラスが、裏門に立つ生徒をやたらに威嚇する、という情報だけだ。

 カラスが襲ってくるのは雛が巣立つまでの6月くらいまでだったはずなのだが、夏も盛りの日差しの下で、カラスはあからさまな警戒の鳴き声を立てて、先輩が立つ方角に身体を向けている。

「怒ってますよ」

「襲ってはこないよ。ここに人がいるのが厭なだけだ」

「知ってるなら別の場所にしてくださいよ」

 まったく、と鼻から息を吐き出して、亨は腕組みをして窓に寄り掛かった。何かがあれば、駆けつけるなり、丸めた紙を投げつけるなりするつもりだ。

「亨君、満晴先輩?」

 同じクラスの成田結衣が、飛び跳ねるように近づいてきた。

「知ってるくせに何で聞くんだよ」

「あー、亨君、いじわるだよね」

 成田は亨を押しのけるようにして窓辺に並び、手で庇を作って裏門の方を眺めた。

「ちょっと、亨君、聞いてないんだけど」

「何が。ていうか、俺なんにも言ってませんけど」

「どういうことよ、あれ!」

 成田がびしりと突き付けた指の先を辿るまでもなく、亨は面倒くさそうに後頭部を掻く。

「あれ、先輩の彼女……?」

 不穏な空気を声にまとわりつかせて、成田が窓枠を掴んだ。ちらりと視線を向けると、丈の低い裏門を挟んで、見慣れぬ制服の女子生徒が立っている。

「あの子、昨日も来てたし、先輩は先週もあの子と何か話してた! 誰よ?」

「知らないよ。何で俺が知ってるんだよ」

「だって、亨君、先輩の事大好きでしょ?」

「だからって、あの子の名前までは知らないよ」

「私だって、満晴先輩のこと、好きなのよ、知ってるでしょ!」

「はいはい、それはじゅーぶん存じてますー」

「だったら!」

 折しも、裏門では坂本に向かって女子生徒が手を差し伸べているところだ。

 それを見た成田が圧をかけて亨の胸倉を掴んだ時、カラスが大声で啼いた。それに呼応するかのように、亨たちの頭上で、東校舎の屋上で、次々とカラスが喚きたてる。

 驚いた成田は、きょとんとした顔で亨を見上げ、半ば亨に縋りつく形のまま、窓の向こうを覗いた。そして、ぎょっと身を竦めて悲鳴を上げた。

「先輩!」

 裏門の傍のカラスが、木から飛び立ち、坂本の肩を掠めていく。それも、一度ではなく、滑空しては身を翻し、大きな翼をはためかせる。

 門柱の向こう側に立つ女子生徒の眼前で、カラスは足を突き出し、ばさりと翼を振るった。

「亨君、何とかしてよ!」

 いくら恋敵と雖もやはり心配なのか、成田が掴んだままだった亨の腕を揺さぶる。

「わかってるよ」

 何事かとこちらに注目しているクラスメイトに、何でもないと手を振ってから、亨はポケットから取り出した紙を無造作に丸めると重さを確かめるように幾度か軽く放り投げる。

「かっこつけてないで、早く!」

 焦れた声の成田を自分から引き剥がして遠ざけると、亨は手にしていた紙の礫を大きく振りかぶってから投げつける。

 ひゅ、っと風を切る音が思いの外大きく響き、礫は真っ直ぐに裏門に向かって軌道を描く。

 坂本と女子生徒の丁度真ん中、裏門の真上で翼を広げていたカラスが身を翻し、紙礫は坂本に腕を伸ばしていた女子生徒の左頬に当たる。ばちり、と音まで聞こえた気がするほど、強く。

 女子生徒は咄嗟に坂本から手を放して頬を押さえ、こちらを強く睨みつける。カラスが勝ち誇ったように大きく鳴いた。

「ちょっと、亨君、なにしてんの!」

 慌てた成田が背中をばしりと叩いて叱りつけた。

「やー、俺、ちょっと、見てくる」

「見てくるー、じゃなくて! 謝って来なさいよ」

「……成田さ」

「なによ」

「意外といい奴なのな」

「ちょっと、どういうことよ」

 聞き捨てならぬと眉を逆立てた成田から小走りで逃げ出して、亨は階段を駆け下りた。懐に手を突っ込み、先ほど丸めて投げつけたのと同じ紙きれを何枚か引っ張り出す。

 校舎を回りこみ、自転車置き場を抜けて、裏門に向かう間、カラスたちはまだ警戒の声で鳴きかわしていた。

「セーンパイ、満晴先輩」

「やあ、亨。助かったよ」

「だから言ったじゃないですか、危ないって」

「襲ってはこないと思ったんだけど」

 面目なさそうに頬を掻く坂本の目の前、裏門の門柱には、先ほどのカラスが止まっている。未だ警戒していているのか、口を半開きにして門の向こうを見ているが、そこには誰もいない。

「あの子は?」

「君が投げたのがぶつかって……」

「消えました?」

 坂本が肩を竦める。

「でかしたぞ、お前ら」

 亨が声を掛けると、漸くカラスは警戒を解いてぶるりと羽根を震わせた。

「まったく、先輩も。『裏門に立つ生徒』はカラスが威嚇してくれるから、放っておいたって良かったんですよ」

「いやあ、でも、何かがあってからじゃ遅いし」

「自分で『襲ってこない』って言ってたじゃないですか」

「でも、怒ってたし。ここにうちの生徒が近寄るのが厭なんだよ」

「厭って言われても、こっちの敷地ですよ。あっちがここに立ってる方が厭だっての。大体、裏門使う生徒に憑りついて帰り道で事故起こさせるなんて、無害なわけないでしょ」

「だから裏門は完全に使用禁止にした方がいいかなあ、って。今までは傍に寄らなきゃよかったけど、今日、僕、腕掴まれたし。君がそれ投げてくれなかったらどうなってたか」

 にこにこと、坂本は地面から拾い上げた丸めた紙を伸ばして、亨に向けた。亨は自分が手にしていた、それと同じ紙を見下ろす。その表には墨で何やらまじないの文字が書きつけてあった。

「その護符、すごくよく効くね」

 ありがとう、と完璧な笑顔で言われると、何も言い返せなくなった。

「……じゃあ、次の生徒会の議題にかけましょうよ。裏門は事故が多発するので、封鎖」

「もう戻ってこないかもよ」

「んなわけないでしょ。俺のこと睨みつけたあの眼、見てないんですか。まあ、入って来られないように、結界は貼りますけど」

「君がやってくれるなら一安心だ。頼むよ」

「……承知しました」

 渋々、頷いた亨の肩を軽く叩いて、坂本は夏の日差しの中で微笑む。その眩しさに目を反らして見上げた窓から、成田が何とも言えない顔でこちらを見ているのに気が付いて、亨はさらに困惑を深めた。

 そんな亨をあざ笑うかのように、カラスが翼を広げて飛び立つ。啼き交わす声は、その色に似合わず明るく楽し気だった。

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先輩の彼女 中村ハル @halnakamura

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