キタキタ
石井鶫子
キタキタ
キタキタ
あれは私が大学四年生の夏のことでした。私は当時写真サークルに在籍していました。
写真といっても賞を狙ったり将来生計を立てていこうとする人間が集まるような真摯なものではなく、好きな対象を好きなように撮って褒め合い、時々は撮影旅行と称して皆で温泉や海へ行ったりする程度の甘いもので、例えば写真の出来が明らかにおかしくても誰も指摘もせず、強い意見や批評は歓迎されませんでした。
仲良しグループだったかと聞かれるとそれも違います。
四年間在籍すればそれなりに仲良くなる相手もいますが、秘密を打ち明け合ったりお互いを助けたりというような濃いつきあいはごく一部でしたし、あのサークルは私と同じような肌距離感の遠慮がちな人間の集まりでした。
私たちは単純に、群れにも孤独にも慣れていない若者同士なのだったと思います。
秘密とは等価交換です。相手が投げた重さと同じものしか返してはいけない。だから私の「モテたい」とか「バイト先の店長が嫌味でムカつく」とか、そんなありふれた愚痴には同じ程度にありふれた秘密しか戻ってきませんでした。
けれど本当に大切で重大なことは、酔った席でこぼすようなものではありません。私にはそんなものはなく日常には満足していたし、時折一人の夜が寂しいと思うことがあってもそのために恋人や親友を作ろうなどと思いもせず、ただ漫然と過ごしていたのでした。
旅行に行こうよと言い出したのは当時一番仲の良かったエリカでした。彼女とはどことなく馬が合いました。当時の経済概況はリーマンショックの残響がくすぶり続けている状態でした。就活は厳しかったのですが私も彼女も内定が出ていて、少しばかり気がゆるんで大きくなっていたのだと思います。
旅行ついでに廃墟を撮りに行きたいと彼女が言い、私も賛同しました。
その前年にエリカが撮ってきた廃校の暮色の写真が好きでしたし、廃墟とは寂しげな誰かの思い出の匂いがするものです。
私の内実は空虚ですので、だからこそ何か意味のありそうなものが好きなのでした。
彼女が探してきたのはぎりぎり埼玉県に含まれている地域の棄村でした。彼女が借りてきたレンタカーで山道の入り口へ寄せつけ、そこから一時間ほど獣道のようなところを上がっていった先に僅か十数軒の集落跡があるとエリカは言いました。
山道へ入ったのは朝八時です。これははっきりしています。私たちは途中寄ったコンビニで朝食と昼食分のパンを買い、朝は車の中でラジオを聞きながら食べました。ラジオの時報が八時を鳴らし、じゃあそろそろ行こうかと私たちは山道へ入ったのですから。
廃村へ到着したのは九時過ぎで、夏の朝の蒸し上がる熱気の予感をはらんだ草いきれが、集落全体を静かに覆っていました。晴天でした。
私たちは何となく連れだって廃墟の写真を丁寧にとりました。私たち以外は誰もいないとはいえ、人の生活跡はやはり遠慮がちになりますし、真夏の昼間ではありますが藪がゆれるとやはりぎくりとします。大抵は野鳥や虫ですが、後ろめたい気持ちはありました。
民家に入るときは、すみませんと声をかけてからでした。人の気配はありませんでしたが、それが礼儀であると思ったのです。
今は捨てられた集落でしたが朽ちた民家の玄関先に落ちていたカレンダーは意外にも平成で、私たちは何となく笑ってそれを撮ったことは覚えています。
廃村は民家が十数軒と公民館らしい建物、それと小さな神社だけの極小の構成で、一周するだけなら十五分もあれば十分でした。
午前中でフィルムを三本使い切り、公民館の軒先のコンクリ階段に腰掛けて、私たちは昼食のパンをお茶で流し込みました。民家のトタンのひさしはボロボロで、公民館のそこだけが日陰だったのです。
この日私たちは午後に撮影を切り上げて群馬へ入り、温泉で一泊する予定にしていました。午前中は山登りだからゆっくり温泉でほぐそうね、なんて話をしていたはずです。
天候が変わったのは昼食が済んですぐでした。熱気が急に濃くなり、暗くなったと思ったら突然雨が降り始めたのです。
私たちは公民館の壁際ぎりぎりまで寄りました。中に入ろうとは何故か思いませんでした。
雨は大粒でひどく強く、たちまち辺りは草と埃の臭いが充満しました。
私とエリカは顔を見合わせ、溜息になりました。
下山にもおそらく一時間くらいはかかるだろうし、温泉宿の夕食に間に合わせることを思うと雨は忌々しいとしか思いませんでしたが、なかなかやむ気配がありません。汗と湿気で肌がべたべたとして空は濃鼠色に低く垂れ込め、もともと写真に情熱をかけているというわけでもなかった私たちの気力はたちまち萎えてゆきました。
雨脚が強くなり、私たちは殆ど同時に公民館の中をちらりと見やりました。壁際に寄ったところで軒先では湿気からとうてい逃れられないような気がしたのです。
……けれど、そこにあった薄暗い闇は、どことなくおぞましかった。微かに魚の腐ったような臭いもしました。
けれどこの廃村には水辺がなかったはずです。私たちは眉をひそめ、また溜息になりました。中に入る気はしませんでしたが、雨は肌にはりつくようで不愉快としか言いようがありませんでした。
――た、と誰かが言った気がして私はとっさに公民館の中を見やり、次の瞬間ぞっと背を尖らせました。
それはエリカの声ではありませんでした。それは断言出来ます。男性なのか女性なのか、子供なのか大人なのか、それすらよく思い出せませんが、ともかくエリカではなかった。
誰もいない廃墟の村で、何かが、微かに、呟いていた。
私たちは、確かに聞いたのです。
た、タ、……タ、……タ、……タ……
何かいる。人みたいな、何か。でも、人とは、違う──……
私が喉をつまらせて震えたとき、エリカも同じような表情で唇をぱくぱくと動かしました。彼女の言いたいことは何故か分かりました。きっと私も同じような顔をしていたはずだからです。
私たちはもう、公民館の中を見ようとは思わなかった。カメラをケースの上からコンビニのビニールでぐるぐるにくるみ、来た山道へ飛び込むようにして走りだしました。
山道を転がり落ちるように駆け下りながら私もエリカも大声で歌いました。間奏の部分は適当にスキャットし、二人で交互に声を張り上げたのです。
自分たちの声が途切れた瞬間にまた、何かが聞こえる気がしていました。怖かった。追われている気がしてなりませんでした。
朝登ってきた山道の入り口にレンタカーが見えたとき、私たちは殆ど安堵のために歓声をあげてキーリモコンを夢中で連打し、車に飛び乗りました。
エンジンキーを回したエリカがはっと息を呑み、私は咄嗟に振り返りました。何かいるのかと思ったのです。
けれどエリカは首を振ってフロントガラスを指さしました。
何かがそこにいる、わけではありませんでした。
けれど私にも次の瞬間彼女が何を言いたいのか分かりました。フロントガラスはからりと乾いていて、雨の形跡など一切なかったのです。
廃村は、廃村は雨、だったのに。
エリカが耐えきれなくなったようにわっと泣きだし、私は大丈夫と彼女の肩をゆすって運転をかわりました。
彼女のTシャツはべっとりと濡れ、どこか生臭くて獣臭い、異質な臭いがしました……私のTシャツも。
私は必死でアクセルを蹴りつけるように踏みこんで、そこから全力で逃げ去りました。朝つけっぱなしにしていたラジオが突然陽気なポップスを流し始めたのは県道の標識が見えた頃で、ようやく私たちはほっと息をついたのです。
宿の夕食は殆ど覚えていません。楽しみにしていた温泉もそこそこに、私たちは手を繋いで眠りました。とにかく人の温度にすがりついていたかったのだと思います。
……その晩、私は夢を見ました。
私は山道を歩いていました。嫌だ、そちらには行きたくないと思っても足が勝手にどんどん動いてしまうのです。やがて木立の向こう側にコンクリの四角い箱のような建物が見えてきました。公民館でした。
嫌だと私は足を必死でとめようとしますが、思い通りになりません。
そこには行キタくない。戻っていキタたくない。せっかく逃げてきたのに嫌、駄目、そこは嫌、いや、イヤイヤイヤ……
けれど私の手はためらいなく公民館のサッシをカラリと開けます。おばちゃーんと呼びながら私は軽い足音を立てて公民館の中へ入っていくのです。
公民館の中で何かが動きます。ズ、ザ、ザッザッザザザ――畳を這う音。
私の足はそこでようやく止まります。
生臭い。何か腐ったような臭い。
雨の臭い? 水の臭い?
ズザ、ザッザザザザ――何かいる。
私はおばちゃん? とほの暗い闇になっている公民館の奥の部屋へ声をかけます。けれどいつもそこにいたはずのおばちゃんの声はせず、ただ別の何かがいて、こちらへ這い寄ってきている、ことだけは分かりました。
タ、タ、……キ、タ、キタ、キタ、キタキタ……
それは蛙が無理に人語を話しているような、不愉快で不自然な音でした。
キタ、キタ、キタキタキタキタキタキタキ……!
何かが突然公民館の襖を破って飛び出してきて、私は咄嗟にしゃがみ込みました。何がいるのか見ることが怖くて正面からは見られなかったのですが、泥を固めて粘液をぬりたくった、ぬらぬらと光る何かでした。
私は悲鳴を上げて飛び起きました。
一瞬置いてエリカが隣で跳ね起きて、私たちはすがりつくように抱き合いました。キタ、とエリカが呟きましたが、それはぞっとするほど夢の中で聞いた声と似ていました。
私たちはその晩、結局眠れませんでした。エリカも同じ夢をみたらしく、おばちゃんが、と泣いていました。
翌日レンタカーを返却して私はエリカと別れ、帰宅しました。
角を曲がってマンションが見えた時、部屋の灯りがついていて私はぎくりと足を止めました。
何かいる。影がカーテンの向こうでゆらゆらと動いています。心臓の音だけがしました。
私はフロアへあがり、そっとドアに耳を押し当てました。鉄のドアの向こうから聞こえてくるのはナイターとバラエティを交互にザッピングする気配でした。私はほっとドアを開けました。
中にいたのは兄でした。出張でこちらへキタから寄ってみたのだと言われ、キタ、と言われた瞬間に私は弾かれたように泣き出してしまいました。エリカが先に泣き出してしまったので、私はずっと宥め役だったのです。
兄につっかえながらも話をすると、兄は意外と真面目に頷いて私をすぐに実家へ連れて帰ってくれました。
いつもお世話になっているお寺の住職から連絡して貰い、何かのお祓いのようなことをしていただいて、あの夢もそれきりでした。
私は安心して夏休みが終わる頃マンションに戻りました。エリカはどうしてるだろうと電話をしてみましたが、電源が入っていないというアナウンスが流れて結局つながりませんでした。
エリカの自殺を聞いたのは夏休みが明けてすぐでした。
彼女もどうやらすぐに実家に戻っていたらしいのですが、あれから半月ほどした頃、部屋でガソリンをまいて火をつけたのだそうです。幸いというべきか発見が早く家は半焼だったようですが、彼女は全身焼けただれていたと聞きました。
彼女のご両親からは何か悩んでいたことがあったのかと聞かれましたが、私は知りませんと首を振りました。
……秘密とは等価交換です。私の抱え込んだこの秘密と憔悴しきった彼女のご両親が何かを交換できるとはとても思えませんでした。
エリカの家から戻って少しした頃、実家から電話がありました。兄が自殺したのです。慌てて戻った私を待っていたのはげっそりとやつれた両親と、兄の柩でした。
せめて最後に兄の顔を見ようと思って柩の中を覗こうとすると、母がやめなさいッ、と鋭い声で制止しました。それは普段おっとりした母の必死の声音でした。
……兄は焼身自殺でした。ひどい有様の姿をお前には見せたくない、ごめんね、としぼりだしたきり泣き崩れる母を、私は呆然と抱きしめるしかありませんでした。
兄の葬儀が終わってマンションに戻った時、私はあの日のフィルムが残っていることに不意に気付きました。
現像をしてはならない気はしていました。
けれどそれ以上に、しなくてはならない、というどこかからの声が私を揺すぶり続け、私は結局屈服し、フィルムは町の写真屋へ出しました。自分で現像したり、サークルの後輩に頼む勇気はどうしても、どうしても、持てませんでした。
出来上がった写真を取りに行き、店員から間違いないですかと見せてもらったとき、私は頷いてその場で嘔吐しました。
そこに写っていたのはあの公民館でした。
民家のカレンダーも、小さな神社も、撮ったはずなのに全て、全て公民館でした。
そしてどれもが炎の中にありました。露光を間違えたような赤とオレンジのめらつきがL判の中で常に揺らいでいる……いいえ、確かにそれは揺らめいていました。炎の中にちらちらと黒いものが這いつくばっているのも何故かわかりました。
ああ、いる。
いるのだ。
あれが。
そして炎の中で、のたうち回っている。
――死ね。
私は呟きました。
焼くのだ。焼けばいいのだ。
死ね。
死ね。
床を汚してしまったことを写真屋でひたすら詫び、掃除代として一万円を押しつけて私はマンションのガスコンロで写真を燃やしました。フィルムも全て引き出し、ネガごと全部。
燃やしてしまえ。死ね。そう、ずっと呟いていたと思います。
けれどあれは死にませんでした。……いいえ、きっと既に死んでいるから死なないのでしょう。
私は再び夢を見るようになりました。
私の足はいつも公民館へ向かい、おばちゃーんと呼びながら入っていきます。おばちゃんはいつも優しくて、その日はとても暑かったから、私はアイスをねだりに行ったのです。けれど生臭いあれがずるりずるりとこちらへ這い寄ってきます。
キタキタキタキタキタキタキタ……
だから私は火をつけます。あれは火が苦手なのです。火をつけると公民館は炎につつまれ、あれは苦しげに呻いて転げ回ります。
死ね。
私はいつも呟きます。
死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね――
いつもそこで夢から起きてくると、どこか生臭い。それに次第にあれが近くなってくる気がして私は怖くなり、自殺防止の匿名ダイヤルへ電話しました。
秘密とは等価交換です。誰にも言えない秘密は出口のない場所へ捨てるほかありませんでした。
エリカ、兄、キタキタ、そして炎。それらを一息に喋ってどっと疲れたその日から、泥のような深い眠りが来るようになりました。
私の生活は安穏へ戻りました。
そういえば一昨日、夕方のニュースで下町の火事のニュースがあったのをご存じですか? 死亡した女性は自殺防止の為のボランティアを熱心にしていたらしいのですが、どうやら焼身自殺のようですね。ニュースでは相談員の心のケアを、と結んでいました。
……秘密とは、等価交換です。
私はこの秘密をあなたにお話ししました。だからこれに見合う分はあなたが支払うのです。
よく聞いて下さい。
公民館の奥の部屋にはあれがいます。あれは火に弱いのです。ガスでは駄目です。必ずガソリンをまいて、火をつけないと。
一体あなたがいつから夢を見るのか、私には分かりません。でも、夢を見はじめる前日くらいには、風の音がこう唸っているのをあなたは聞くはずです。
それが合図です。
キタキタ。
忘れないで下さいね?
ガソリンをまいて、火をつけるのです。
キタ、キタ、キタ、キタキタキタキタキタキタキタ……
キタキタ 石井鶫子 @toriko_syobonnovels
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