第73話

6.


 高葦原さんと別れて、図書館に戻ってきた。

 座っていた机の方に向かうと、さっきまで待っていた二人がいた。いや、もう待たされていた二人になるか。


「おう、楓雪ふゆき。誘っておいて一番遅いとは何事だ」

「すまない。急な用事ができてしまったんだ」


 界と香流は向かい合うようにして席に座っていた。僕は界の左隣に座ることにする。

 香流の方を見ると、なんだかしどろもどろしていたので、もしかすると、まだ二人はぎくしゃくしたままなのかもしれない。

 とは言え、それを感じているのは香流のみな気がする。この男は聡いが敏いわけではない。


「それで、二人は宿題どれくらい進んだんだ?」

「俺は今日までノータッチだったから、まだ進捗10%と言ったところだな」


 界は自身ありと答えた。どうして、胸を張っているのかは全く不明である。


「香流は?」

「……全然。楓雪はどうなんだよ!」


 香流はなんだかイライラしているように見えた。


「僕は全部終わっている」

「はぁ!?」


 針で突いたら割れてしまった風船のように声が大きくなって、書棚整理をしていた館員が怪訝な顔をする。


「じゃ、じゃあ、代わりにオレのもやってくれよぅ」

「駄目だ。宿題は自分でやらなければ身につかないだろう」

「もう身についているから良いんだって!」


 隣の界が大きく頷いていた。


「復習も大切だろう? それに、僕が代理で宿題を遂行する意味がない」

「復習だよ、復習! ほら、数学とかどうだ? そんなできないだろ?」

「別に苦手ではない。平均点くらい取れている」

「平均点って算術平均だろ? 最頻値はもっと高いかもしれないじゃん」

「テストなんだから、大体正規分布に従っているだろう。ほら、つべこべ言ってないで、ペンを動かせ」


 香流はちぇーと言いながら、ノートにペンを走らせて、


「こんな解ける問題ばっか解いても意味ないのになぁ……」


 とぶつぶつ述懐しながら宿題を再開していた。


「……だが、楓雪よ。そうすると、お前さんのやることがなくなるだろう?」


 今度は隣からやけに芝居掛かった言い方で、界が話しかけてきた。あえて無視をしていたのだが。


「ほら、暇つぶしにこれなんてどうだ」


 差し出してきたのは、やはり、宿題だった。


「やらないぞ」


 僕はすっと界の手元に戻すと、再び差し出されてくる。


「学年トップの俺がおすすめするんだぜ? これで学力アップ間違いなしだ。良かったなぁ!」

「もうそれ一度やっているんだが」

「またやったら新たな側面が見えてくるとは思わないか?」

「まずは、一度、自分で側面の一つを見てみたらどうだ?」


 すると、急に虚空を見つめて、呟いた。


「一度、誰かが解いたことのある問題を解くことって意味がないと思わないか?」

「思わないが……」

「ならやってくれ。俺は意味がないと思うんだ」

「そうか。僕は誰かが解いたことのある問題を解くことに意味があると思っている。だから、界も解くべきだ」


 界は深く溜息をついた。


「楓雪は強情だなぁ……。暇そうだったから、気を遣っただけだったんだがなぁ」

「それに、僕も僕で勉強するものは持ってきているんだ。今度模試を受けるからな」

「へぇ、それは珍しいな」


 界は意外そうにしながら諦め、宿題を手許に戻した。


「僕も受けたかったわけではない」


 なんだろう。香流がちらっと視線を送ってくる。

 特に意味はないと思っていたが、数度向けられると、何かを訴えているような気がして、思い当たることがあった。

 前に協力すると言った手前、そうだな、香流が僕に望んでいるであろうことは、遂行すべきか。


「ところで界、文理選択は決めているか?」

「そんなのずっと前から決まってるぜ? そうだな……、十年以上前から」


 十年も前? まだ小学生とかではないか。文理の意識がそんなに昔からあったのだろうか?


「随分早いな。それで、文系、理系どっちに進むんだ?」

「……理系だな。それ以外にない。そういう楓雪はどっちなんだ?」


 「それ以外にない」という言い方が気にかかったが、界は僕に水を向けてきた。


「僕も理系だ。特に何かやりたいことがあるわけではないが……、理系の方が潰しが効きそうだしな」

「同じか。ま、楓雪は性格が理系っぽいしな」


 理系っぽい性格とはどういうことだろう。細かいとかだろうか。

 思いながら、界に覚られない程度に香流の表情を読んでみた。なるほど、少し嬉しそうなので、聞いた甲斐があったな。


「とすると、来年は全員同じクラスになる可能性もあるな」

「楓雪と同じクラスか……。それもそれでいいな」


 屈託のない笑顔を向けてきた。

 香流のことも触れてやれと思った矢先、右斜め前から脛の横にキックが入った。

 蹴られるべきは僕ではなくて、界ではないか? 理不尽な。



「ああ、もう飽きたぁ」


 香流がまたペンを放り出した。


「まだ十分も経ってないぞ……」

「こんな、ただ計算するだけの問題なんて解かせて何の意味があるんだ?」

「なんだ、香流。奇遇だな。俺もちょうどそんなことを思っていた」

「……でも、お前はいいじゃないか。計算も速いんだから」

「純粋な暗算なら、然程変わらないと思うぜ? 俺はただ、ステップからステップに移動するのが速いだけだ」

「ふーん。なら、暗算勝負してみようぜ。楓雪、なんか出せ」

「暗算というのは、四則演算でいいのか?」

「そりゃ、そうだろ。……逆に何を出すつもりだったんだ?」


 素因数分解とか、方程式とか、僕が思う暗算という範疇はもしかすると、人より広く取られているのかもしれなかった。


「じゃあ、133−56」


 ふと、時計が目に入ったので、現時刻を拝借させてもらう。


「なぁ、楓雪。そんな簡単なの出されてもただの早押し問題になっちゃうじゃん」


 香流に呆れられるが、そもそも暗算勝負は早押し問題ではないのか?


「楓雪はこういうの下手だなァ、ハハハ」


 界には笑われる始末である。


「じゃあ、35×67」

「2345」


 界が即答した。僕が7を言い切ってから、界が答えるまでに一秒も要していない。


「せ、正解」

「……おい! 何が暗算は速くないだよ! めちゃくちゃ速いじゃねぇかぁ」


 香流がそうぼやく。僕も香流には同意だ。


「二桁×二桁の掛け算に速いも遅いもないだろ」


 しかし、界は「何いってんの?」という様子だ。


「いや、一般的に二桁×二桁は筆算か電卓だ」

「筆算使う方が却って時間かかりそうだけどな」


 そういうことではないのだが……。


「割り算。割り算で出してくれ」


 しかし、香流も負けず嫌いだった。これも勝負は火を見るよりも明らかな気がするが……、いや、これは勝負が目的ではないのかもしれないな。


「じゃあ、2541÷33」

「77だな」


 これも殆どノータイムで界が答えた。


「正解」

「ああもうぅ!」


 勢い余って香流は机にあったペンを落とした。


「……逆に、何桁だったら時間かかるんだよ」

「まぁ、五桁同士とかだったら、まあ、さすがの俺も紙とペンが欲しくなるかもな……」


 計算が速い自覚はあったようだ。


「じゃあ、楓雪。五桁同士の掛け算で出してくれ」

「別に構わないが、それ、香流は解けるのか?」

「いいから! 今度こそ絶対勝つ!」

「そうだな……じゃあ、10821×11409」


 これは流石に界もノータイムとは行かず、少し考えているようだった。

 香流の方は最初から暗算を諦めていて、ペンを動かしている。暗算勝負はどこに行ったのか。


「ええと、一億、二千……、三百四十五ま……」


 これを十秒もかからず答えをそらに言おうとする界の暗算力はやはり常軌を逸しているが、香流の計算スピードも決して遅くなかったようだった。


「123456789!」


 界が答えを言い切る前に、先に香流が勢いよく立ち上がりながら答えた。


「正解」

「やるじゃねぇか」

「は! どうだ見たか!」

「あの、もう少し声のボリュームを抑えてください」


 と、注意が入った。

 この図書館は私語を禁止されてはいないが、だからといって騒いでいいということでもない。

 すみませんと素直に謝って、香流は席に着く。


「しかし楓雪。お前が一番計算が速かったんじゃないか?」

「そうだよ。だいたいなんでいまの答えがわかるんだ」

「単純なことだよ。123456789の約数をたまたま覚えていただけだ」

「なんだそれ……。変なやつ」


 香流に心底気持ち悪いものを見たというような目をされる。


「というか、どうしてオレたちは計算勝負をしていたんだっけ?」

「さあ、どうだったかな。そんなことより宿題を進めなよ」


 二人共ぶーたれるが、結局は手を動かす。僕も僕で模試の勉強をした。

 並行して、僕は、高葦原さんのことも考えていた。


 なんだか、彼女は僕と似ている気がするのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青春ニートは息をする。 菟月 衒輝 @Togetsu_Genki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ