第72話 波瀾
5.
高葦原さんの希望で、ファストフード店に入った。
これが僕にとっての初入店で、自動ドアが開くまでは、勝手なイメージで、注文・会計・受け渡しという三つのメインフェイズが息を吐く間も与えずに、連続的にローテーションし、目を回すほどの回転率をまざまざと見せつけてくるのだと思い込んでいたが、実際は、普通のコンビニやスーパーとさして変わらないようだった。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます〜」
潑溂な笑顔と声、そして背筋が伸びたままの会釈。これはあまりにもイメージ通りだった。
さて、何を頼むかだが、特に拘りもないというか、所知が乏しいので、適当なセットメニューを選んだ。
「期間限定!」などと銘打ったものもあったが、無難なものを選んでおけば間違いは起こらないだろう。
会計をして、それから一分も経たないうちに来た。闇に行灯曇りに笠、予め作ってあったのだろう。
「待たせた」
僕より高葦原さんの方が早くに受け取っていたので、先に席を取ってもらっていた。
見ると、まだ食べ始めていなかったので、待っていてくれたのだろう。
「いいえ。全然」
トレーを机に置いてから、高葦原さんの正面の席に着く。
「そ、それでは、食べ……あ、手、洗ってきます」
思い出したように、立ち上がって歩いていってしまった。
その間にふと彼女の注文したものを見た。品目はだいたい同じようなものだったが、僕が頼んだものよりどれも一回りサイズが小さい。メニュー表を思い出せば、僕のがすべてMサイズだったから、彼女のはSサイズなのだろう。
高葦原さんが帰ってきた後に、僕も一応、手を洗いに行って、それから、ぼちぼち食べ始めた。
まずはハンバーガーに齧り付いてみた。見た目さながら、なかなかボリューミーで、その上、いまはあまり空腹を感じてもいなかったから、ワンサイズ小さいものにすればよかったか。
そう言えば、メニューには更にもう一層重ねられたものがあったが、人によっては顎がはずれるのではないか。
次にポテトをつまむ。まだかなり熱がこもっていて、それに搭乗していた油分と塩分が口内で染み出した。
個人的にはどの商品もう少し薄味でも充分な気がしたが、なるほど、人気がある理由が少し解った気がした。
食べている間、特に会話らしい会話はなく、僕は早々に食べ終えてしまった。目の前の高葦原さんはまだハンバーガーも半分以上、ポテトも八割くらい残っているようで、これは僕の食べる速さが速かったのか、それとも彼女が遅いのか、或いはその両方なのか。
そんなことを考えているのに気づいたのか、
「先輩。食べるの、速いですね」
「そうか? 基本的に食事は一人なことが多いからな。相場が解らない。ああ、急がなくていい。普通に食べてもらって」
一人なのは食事に限らないが。
「そ、そうですか?」
高葦原さんはまた食事に集中した。食べている様子をそれとなく観察していたが、その食べ方が、小動物――兎、栗鼠といったもの――を彷彿とさせる。
それからゆっくりハンバーガーを食べ終えた高葦原さんが再び話しかけてきた。
「先輩。先輩は、そ、その、何か、スポーツをやられていたのですか?」
「いいや。特に。部活にも入ったことない」
唐突な話題だな、と思った。
「あ、そ、その。じ、実は、峰高祭の男子バスケの決勝……見ていたんです」
やはりその話か。
男子バスケの決勝戦。僕が油揚げをさらってしまった試合。
あの後、意外にも色々な人に話しかけられることがあった。まさかバスケ部から勧誘を受けるとは思わなかったが、それは鄭重に断らせてもらった。
「す、すごかったです。手に汗握って見ていました。最後のシュート。思わず、息を呑んでしまいました」
「そうでもない。あんなのは運だ。たまたまいいところに飛んでいってくれただけだ」
「そ、そうなんですか? でも……、それでも、すごいです! わ、わたしはあそこから投げても、そもそも届かないです!」
「まぁ、男女じゃ基礎体力に差があるからな」
とは言え、男女ではボールのサイズも違うから、もしかすると意味のない指摘だったのかも知れない。どちらでもいいか。
「それに、全試合で入ったシュートはあれだけなんだ。そのシュートがたまたま決勝点になっただけって話で、総括的に評価するなら、僕の貢献度は皆無にも等しい」
「……先輩。それは違いますよ」
途端、高葦原さんの口調が変わる。
「あの場、あの状況でシュートを打って、決めたことは3点以上の価値があるんですよ。普通の人だったら、あんな状況、怖くてボールも持っていたくないです。なのに、先輩は自分からボールをもらっていたじゃないですか! もっと誇るべき……、すみません。熱が入ってしまいました」
急に滔々と語り始めたかと思えば、最後に大失速した。
「褒めてくれるのは嬉しいが、別にあれは単なるまぐれなんだ。言った通り、僕は運動は得意でないし、部活にも入っていないから、その習慣もない」
「でも、先輩。すごい足速い、ですよね? この前、カメラアルバムを見返していたら、体育祭の動画があって……」
そう言って、高葦原さんはスマートフォンを取り出して、少しいじってから、手のひらに収まりきらない液晶画面を見せてきた。
「これ、結江先輩、ですよね?」
最近の科学技術は大したものだと思う。携帯電話なんて言うものは、本来、電話機能とかメールの機能さえ果たしてさえすればいいのに、いま目の前に置かれた薄い板は、克明に鮮明に二ヶ月くらい前の出来事を、たったいま目の前で起こったかのように映像として表現してみせる。
だから、その中で走っている生徒たちが誰であるのか判別することは容易なものだった。
男子三人が一位を争い、鍔競り合いをしている。カーブの途中なのに熾烈な争いをしている。バトンとバトンが当たり、カツンッという金属音も拾われていた。
が、コーナーを抜けた直後、一人、水色のたすきを掛けた男子生徒が、トップ争いに挑戦したかと思えば、そのまま引きちぎるように抜き去って行ってしまった。
スマートフォンが再現する音も映像に合わせて大きくなった。が、いまの店内の喧噪に較べればノイズの一部に過ぎない。
そして、この起こったのであろう事象も、僕の中では溢れた記憶のノイズの一部に過ぎない。
「多分、そうだね。これは僕だ」
こんなことをしでかしてしまっていたのかと思えば、挙げ句、周回差をつけていた。
記憶が欠けているということは、脳に相当な負荷を掛けてしまったことは解っていたが、これは駄目だ。全く以て駄目駄目だ。
「でも……、僕はこの日の記憶がないんだ。だから、足が速いと言われてもピンと来ないんだ」
「え? それって……」
「うん。そのままの意味だ。僕はそもそも記憶障害を患っていて、たまに記憶が抜けるんだ。だから、この体育祭の動画を見せられても、なんだか僕の見た目をした人が走っているようにしか見えない。まるで僕のことだと実感できない」
「あ、……ああ、そ、その…………」
「別に、気を遣ってくれる必要はない。日常生活に支障はないし、そもそも人間は目の前で起こった一切を憶える、憶え続けることは能わないだろう? 僕の場合はその欠落が局所的に大きく見えるから異常に思われてしまうだけだ。だから、周りの人に抱かれるよりずっと僕は普通のことだと思っているんだ」
いまになって不用意に話すことではなかったと思った。ここまで取り繕うように弁明するなら、最初から適当に流しておくべきだった。
が、同時に隠しておく必要があるものでもない。
適当にごまかすか、本当のことを言うか、僕は嘘を吐く手間が煩わしく、後者を選んだ。
それに、記憶喪失なんて、僕は当事者だから、仮に「実は記憶喪失なんだ」と告げられても、「ああ、僕もです」みたいな反応ができるけど、大抵の人はそもそも信じられるようなことでもないかもしれない。
もしかすると、イタい人に思われしまったかも知れないが、致し方ない。
高葦原さんは黙ったままだった。俯いて、音にはならないが何か呟いているようにも見える。
一体、何を思い感じているか、推察し兼ねたが、信じるも信じないも、同情するのも無関心でいるのも、全ては高葦原さんの自由だ。僕も、正直に話したというだけで、信じてもらいたいとは思ってもいない。
「先輩……あ、あの……」
言うが、すぐ口を閉ざしてしまう。これをギクシャクした空気と言うのだな、と思った。
――そんな折、
「あれ? さくらちゃんじゃん?」
声の大きさから一瞬、僕に向けて発された言葉かと勘違いしてしまったが、僕ではなく、目の前にいる高葦原さんを呼ぶ声だった。
ある意味、この空気を破壊してくれたので、間が良かったのかもしれない。
――そう思っていたのは僕だけだったのだが。
「ちょ、久しぶりぃ〜」
派手な髪色をした、所謂、ギャルみたいな風体の女子が高葦原さんに話しかけている。明らかに類が友を呼んでいない。高葦原さんは交友関係が広そうにも思えないし、一体、どういう繋がりなのだろうか。
「ちょ、何? カレシできたん? デート?」
「か、彼氏ではないです」
「ふーん。そーなん? 結構お似合いだと思ったんだけどな〜」
「ちょっと!」
「本当ですか? カレシじゃない?」
すると、急にこちらに乗り出して確認を取ってきた。
「ええ。僕は単なる学校の先輩・後輩ですよ」
「なんだ。パイセンなんだ。そしたらタメ口でいいですよ〜!」
笑って言うが、目が笑っていない。色々思うところはあるが、一旦、静観することにする。
「ま、たしかに。その格好でデートはないかー。あ、さくらちゃん。高校どこ行ったんだっけ? なんか頭良い高校だったよね?」
「…………」
高葦原さんは答えない。ギャルの人は隣の席にトレーを置いて座った。
「ねぇ、さくらちゃん。聞いてる?」
「あ、あなたには関係ないです」
「え、何その突き放す言い方ァ〜。トモダチでしょ、アタシたちぃ。またムカシみたいにお話しようよ〜。ほら、パイセンも混ざってさぁ?」
表情を窺ってくるように見てきたが、特に反応するようなことはしない。
少し、高葦原さんがどういう選択を採るのかを観察しようと思っていた。
「違います。わたしとあなたは友達ではないです。それに、先輩を巻き込まないでください」
少し意外に思えた。こう、きっぱり答えたのは。
「……なに? 高校が違うからってそういう態度取るの?」
そのせいか、語気に冷たさが宿った。
「誰も高校の話なんてしていないです。それより、用事がないのなら、もうどこかに行ってくれませんか?」
「アンタ……ずいぶんとナマイキになったわね。ちょっと頭いい高校に行けたからって。アタシたちのこと見下してんの?」
高葦原さんはずっと顔を正面にしたまま、目すら合わせようとしていない様子だった。
「ねぇ? 聞いてる? てか、さっきからなんで俯いてんの」
「……………」
「ねぇってば。シカトですかー? さくらさーん」
高葦原さんの頭を鷲掴みにして、前後に揺らす。対して、高葦原さんは一切の抵抗を見せない。
「なぁ」
言うと、自称高葦原さんの友達の人はこちらを見た。
「申し訳ないが、高葦原さんはいま調子がよくないみたいなんだ。あまりちょっかいを掛けないでくれないか」
一応、僕は先輩という立場にある。このまま目の前で揉められても困るし、頭を掴むという行為は看過できるものではない。
「チッ……はぁ、そうやって男を盾にするんだね。さくら、みみっちくなったね」
言いながら、頭を放してくれたが、その空いた手で、今度は飲んでいたドリンクの蓋を外す。
そして、すぐに――。
「あ、ごめーん! 手が滑ったぁ〜!」
緑色の、容器から脱したが、ある程度の拘束を受けつつ、氷共々宙に舞った。その群れは船首を高葦原さんに向け、降りかかろうとしている。
高葦原さんも何が起きたか察して、顔を上げた。が、その状態からでは避けられるものではない。
そして、液体は障碍物と衝突し、抛物線は途絶えた。
「濡れてないか?」
「だ、だいじょうぶです……」
「それは良かった。あなたも、かからなかったか?」
「…………ッ!」
ギャルの人の上がっていた口角がゆっくり下がっていく。
「お、オマエ……! チッ、もう、誰かさんのせいでしらけたわ〜」
そう言いながら、カバンを肩にかけ直して、席を立った。
「じゃあ、またね。さくら」
最後に僕を一度睨めつけてから、僕らの前を去っていった。
結論を言えば、宙を舞ったメロンソーダは、差し出したトレーに跳ね返って、床に派手に飛び散って終わった。とは言え、多少の飛沫はかかってしまったかもしれないが、着替える必要があるほどではないことは判断できる。
ただ、着色され泡立った飲み物が地に衝突する音は、液体だからといって侮れるようなものではなく、衆目を集めるには充分であったし、逆にそのお陰で店員さんもすぐに来てくれた。
「お客様! お召し物は大丈夫でしたか!?」
店員さんはすぐに床を拭いてくれて、拭き終わる頃には高葦原さんも全部食べ終えたので、退店することに。
彼女は、席を立つときに店員さんに一揖していた。
店を出てもやはり外はまだまだ暑かった。
「す、すみません。変な空気にしてしまって」
「いや。別に気にしてない。誰にだって苦手な人はいるだろう。それより僕もあの場にいて、うまく助け船を出せなかった」
「せ、先輩が気負う必要なんてありません。あれはすべてわたしが悪かったので」
僕はこの時、高葦原さんが穏便に済ませる方法があったのに、それを採らなかったという意味だと思っていた。
だが、それは僕の早とちりだと、高葦原さんの方から答え合わせを始める。
「あ、あの人は、中学生の時の同級生だったんです。所謂スクールカーストでも上の方の人で、でも、ヒエラルキーの頂点ではない。その取り巻きくらいの人だったんです。そして、そういう人たちの特有の行動に、カースト下位の人を虐げるって言うのがあるんです。……なんて、先輩にもそういう人がいた憶えがあるかもしれませんね」
スクールカースト。「クラス」という社会構造内に半ば必然的に生まれる概念。
クラスメートは全員等しく「生徒」という立場にあるが、しかし、クラス内で保つ実質的な権力には差があるということだ。
人望、人気、外見、容姿、交友関係、成績(学業に限らない)、それに家庭環境、そういった様々で個々のエレメントが影響して、殆ど自然発生的に階層構造が形成される。
高校ではスクールカーストがあると感じたことはないが、しかし、序列をつけようと思えば、つけられないことはないはずだ。
そして、事実上、所属していたことになっていた中学でも、スクールカーストは具現化されたように感じ取ることができた。
つまり、スクールカーストはそれ自体が表層に強い色を持って現れるか否かが大きい。
僕はスクールカースト自体を否定する立場にはいない。どのような社会でも、序列を与えたくなるのは人間の習性の一つなのだから。
だが、容認する立場でもない。行き過ぎたそれは、悪質なものへと変貌することがある。
いま、高葦原さんが言った、他人を虐げてしまうというように。
「そうすることで、カーストトップの人たちに抱いた劣等感を、コンプレックスを和らげたいのでしょうね。わからなくもないです。上ばかり見ていても、首が疲れてしまいます」
高葦原さんの言葉には段々と冷気が宿っていく。先のギャルの人とは全く違う冷たさだった。
「それで、あの人はわたしをターゲットにしたわけです。まぁ、格好の獲物ですよね。クラスの片隅で一人、ぶすっと黙っているだけなんですから……。そして、それに甘んじていたのですから、わたしにも非があります」
「それは違うんじゃないか?」
「先輩。いいんです。だって、わたしはわざといじめられっ子になったのですから」
ペルソナが割れた。いま、初めて僕は高葦原さくらという人間に直に関わった気がした。
僕たちは同期したように、歩みを止めた。
「……それは、言葉を探しているということと関係があるのか?」
明確な根拠はない。殆ど直観から出てきた質問だった。自分でもどうしてこう思ったのか、説明できない。
「すごい! すごいですね。先輩は。そうです。関係はあります。わたしはある言葉を見つけるために、いじめられっ子になってみたんです。手段だったんです。だから、わたしたちはいじめっ子いじめられっ子の関係ではなくて、利害関係だったんです」
「つまり、さっき自分がすべて悪いと言ったのは……」
「はい。わたしが彼女をいじめっ子に仕立てあげてしまったという意味です。勿論、わたしがいじめられる状況を彼女に供与しなくても、代わりに他の子をいじめていたかもしれませんが、それは考えても仕方のないことです。わたしが原因になったことに変わりありませんから」
虚勢を張っているようには見えない。それに、いま彼女は嘘を吐いていない。
「ああ、本当に良かったです。この高校に入れて。先輩のような人とまた会えて。あ、心配しないでください。いまはいじめられていませんよ。この高校は平和でいいです」
高葦原さんが笑っている。そして、一歩僕より前に出て、振り向いた。
「あ、先輩。すみません。忘れ物をしてしまったみたいです。取りに戻ります。今日は付き合ってくれてありがとうございました。また、休み明け、会いましょう」
そう言って、高葦原さんは来た道を引き返して行ってしまった。
どうしていまになって自分をさらけ出したのだろうか。
今日の僕と彼女のやり取りの中にそのきっかけがあったのか。
それとも彼女の中でそれは既に予定となっていたのか。
僕のような人とはどういうことなのか。
全く、僕には語り得ぬことで、沈黙せねばならなかった。
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