第71話 ロンリーガール

4.

 午前10時半。外が暑くなる前に、僕は家を出た。約束の時間まではまだ2時間くらいあるのだが、別に家にいてもやることはないし、早めに出て、まだ涼しい時間帯に移動した方がQOLが高いような気がした。

 しかし、そんな僕の思惑とは裏腹に、夏の気温はわんぱくに昂ぶって、もう辟易してきた。


 歩いていると、日傘を差している人をちらちらと見かける。傘を差し続けるだけで腕の筋肉を行使し続けるので、却って疲れそうだなと思っていたが、こうも日差しカンカンピーカンカンだと、日傘を持っている方がまだ涼しそうだ。こうなると日傘は理に適っているのかも知れない。


 ないものねだりをしながら歩み進める。ただ歩いているのではない。極力日陰となる場所を選んで歩いている。


 ふと、思った。


 仮に、頭部を人間の唯一の熱受容器とすれば、背が高いと、直射日光をより太陽の近くで受けてしまうので暑く、背が低いと、温められた地面からの放熱によって暑くなる。このことから、夏の日に外を歩く最適な身長を求められそうな気がする。


 そうやって非常に些末なことを考え、気を紛らせつつ僕は目的地の前にたどり着いた。


 駅前……というには背伸びしてあたりを見回しても駅らしきものは見えそうにないが、一応、駅前の図書館と呼ばれている市立図書館。大きくもなく小さくもない、なんとも言えない規模の図書館だと思う。もちろん、我が校の図書室と比べれば比較にもならない大きさだが。

 蔵書数は目算三十万冊くらいだろう。フェルミ推定などではない、一番身近な図書室の何倍くらいかという非常に雑な概算だ。


 図書館は無料で資料を参考できるだけでなく、夏は無料で冷房を浴びられる逆サウナみたいなものである。僕は吸い込まれるように図書館に入った。スーパーほどガンガンに効いているわけではないが、長時間過ごすには適温だし、スーパーはむしろ寒すぎるので、図書館くらいが僕にとってちょうどよかった。


 二重の自動ドアを突破するとすぐカウンターが見え、奥に背の高い本棚が物静かに隊列を成すかのように、並立している。ところどころに椅子が設置されていたり、机が設置されていたりして、受験生らしき高校生や中学生たちの姿も見える。朝から勉強なんて学生の鑑だ。心のなかでそっと敬礼しておく。


 適当なところで本でも読んで時間を潰そうかと思い、文庫コーナーにやってきた。なぜ文庫かと言うと、文庫本は軽くて持っていて疲れないからだ。

 小説を一冊、あと気になったのでウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を取った。図書館では沈黙せねばならない。


 近くにあった箱型の椅子に座る。机がないため、小説は膝の上に置いておこう。


 ルードヴィヒ=ウィトゲンシュタイン。この日本でも名前を知らない人のほうが少ないのではないか、というほど有名なオーストリア生まれのイギリスの哲学者。ウィトゲンシュタインの綴りはWittgensteinで、発音はカタカナで表せば「ィトゲンシュタイン」になるはずだが、日本では彼に至ってウィトゲンシュタインとも呼ばれているらしい。

 もしかして、英語読みなのだろうかと思ったが、それならば「ウィトゲンステイン」になるはずだし、そもそも英語圏の人々も「ウィ」ではなく「ヴィ」と読むらしいので、見当違いであった。

 こういう表記ゆれはリカードとリカードウみたいに処々で起こるものだからいまさらか。いや、ウィトゲンシュタインの場合、別に表記ゆれではないのか……。どちらにせよ、僕は学者ではないので、細かくは気にはしない。


 この『論理哲学論考』は前期に書かれたもので、哲学の諸問題のすべての解答が与えられているらしい。だからか、これを上梓したあとは、彼は哲学者を一旦やめている。その後、紆余曲折を経て再び哲学者に復職しているらしいが、詳細まではよく知らない。

 と、彼の側面、表面については水面に張った界面活性剤ほどの薄っぺらい知識はあるのだが、実際に『論理哲学論考』は読んだことがなかった。

 荷物を脇において、序文を飛ばそうか考えていたところ、見覚えのある人物が視界の隅に映った。


 約束の時間は13時のはずである。つまり、僕が待っている人ではない。

 夏だと言うのに、ニット帽みたいに膨らんでしまっている黒髪は暑くはないのだろうか。あっちへこっちへ寝癖がはねているのが遠目でもわかる。

 その人はカウンターで本を返却してから、こちらの方に歩いてきた。僕に気づいている風はない。いや、僕のことを覚えているかすら怪しい。個人的に印象が強かった人でしかない。それに会話というより、あれは事務的な対話だ。

 僕は再び持っていた本に目を落とす。序文は飛ばすことにした。


「あ、あの……」


 前を見上げるとその人が立っていた。高葦原さくら。守ノ峰高校一年生。図書室の新規利用者。


「結江先輩……? ですよね」


 どうして話しかけてきたのかがわからないので、さっと観察する。ボサボサヘアがある程度、マシになっていた。あれだけ酷かった寝癖は何処へ行ったのかと思ったが、残存兵力もちょこちょこ見受けられる。

 服装は白地に「BOOKWORM」と書かれた(意:本の虫)Tシャツ、下は……学校ジャージか。黄色のスニーカーを履いている。


 おそらく、服装から考えるに、図書館に返却だけしてすぐ帰るつもりだったのだろう。


「そうですけど、あなたは高葦原さん?」


 僕は部活に入っていないから、縦のつながりが希薄である。そんな僕のことを「先輩」呼びしてくるのは、彼女くらいしかいない。他に可能性があるとしたら、図書委員くらいだが、僕はいまの一年生と直接関わったことがないし、そのような御託は置いておいて、高葦原さんは見た目で判断できる。


「は、はい」


 しかし、どうして話かけてきたのだろう。彼女はあまりおしゃべりは得意なようには思えない。前に図書館で一瞬だけ滔々と話してくれたこともあったが、いまはその雰囲気もない。いつも通りちょっとおどおどした雰囲気で、はたから見れば、陰険な先輩が後輩を呼び止めているとも取られかねないような気がしてきた。


「――――」

「――――」


 沈黙が続いた。

 返事こそ速かったものの、高葦原さんは、それ以上話そうとはしないし、目の前にいたまま離れようともしない。

 別に図書館内でどこにいようと立入禁止エリアなどを除けば利用者の自由だ。

 だから、彼女が僕の前に居座り続けるのも自由で、僕も気にするものでもないが、こうして立ち続けているということは、なにか用件があると考えるのが普通だ。それか、僕がなにか言わないから、立ち去れないとかだろか。「下がっていいぞ」とでも言うべきか?


「あ、あの……何を読んでいるのですか……?」


 顔を俯けたまま訊ねてきた。なるほど、僕が手に持っていた本に注目していたのか。長い前髪で、視線の向きが判然としないのだ。


「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』」


 なんか半可通みたいになってしまったな。


「む、むずかしそうですね」

「僕も偶然目に入って気になって手に取ってみただけだから、難しすぎたらそっと戻す予定だ」

「わ、わたしは小説しか、読まないので……て、手に取ろうとも、思ったことがないです……別に小説が好き……というわけでもない、のですけどね……」


 引っかかる言い方だった。


「じゃあ、どうして小説を? ああ、言葉を探しているって言っていたか。ということは言葉が好きだということか?」

「それも……『いいえ』です。す、すみません、変なこと言って」


 小説は読むが、「小説」は好きではない。読むのは言葉を探すためだが、「言葉」は好きではない。では、探す行為そのものが好きなのだろうか。

 それならば、言葉を探すだけならば、小説より辞書を読むほうが手っ取り早いし、辞書でなくともそれに準ずるような、言葉に関する本を読んだほうが目的に合っているように思える。


「あ、あの……そ、それで、結江先輩…………。こ、これから、時間、ありますか?」


 僕は図書館の時計を見る。短針の高さがあと一時間で極大値を取ろうとしている。


「1時くらいまでなら、一応空いているが」


 そう正直に答えると、高葦原さんは見るからにホッとする。

 ここで、時間が無いと虚偽を働いたとて、結局僕は約束の時間まで図書館に拘束されるのだ。これではただ後輩に嘘を吐いた先輩ということになり、図書室に来なくなってしまう要因になりかねないし、それにわざわざ嘘を吐く必要性もない。


「お、お昼、い、行きませんか??」


 前にもあった、声に強烈なクレッシェンドかかる。しかもここは公共の図書館だったから、僕は少し面食らった。それだけではない。まさかご飯に誘われるとは全く予想だにしていなかった。


「あ、え、あ、えっと……そのわたしと、結江先輩で…………」

「それは解っているが……いいのか? どこでクラスメートが見ているか判らないが」


 年頃の高校生はそういう話に飢えている。さながらピラニアかハイエナか。

 男女がただ二人でいるだけで、森羅万象を無視しながら、ありとあらゆることを遍く勘ぐり邪推し、飛躍に飛躍を重ねた結論をバチーンと弾き出す。


「べ、別に大丈夫です。クラスに仲いい人、いませんし、わたし、こ、こんなんだから……気づかれもしないです」


 えへへと笑う。たしかに、友達が多そうには見えない。もちろん、僕が言えたことではない。


「あ、お、お金は、ちゃんと払いますし、結江先輩の分も払います」


 慌てて補足するが、そこまでされる筋合いはない。


「いや、それは」

「わ、わたしから、誘ったので。そ、それにこの間、手伝ってもらったお礼も兼ねて……」

「あんなことでお礼はもらえない。あれは図書委員としての業務だから。それに、どうせ僕もどこか食べに行こうと思ってたし。というか、僕が先輩なんだから、僕が奢るべきで……」

「そ、それは、良いです! 少なくとも、自分の分は……自分で払います」


 少し拒絶のニュアンスが入っていたような気がした。おそらく、よく知らない先輩に借りを作りたくないのだろう。理由は何であれ、自分で払うなら、僕がわざわざ奢る必要もないか。


「そう。じゃあ、もう行こうか」

「は、はい」


 高葦原さんの口角が上がった。一体、どうして僕を誘おうと思ったのだろうか。

 後輩とご飯に行く。「事態」だったものが「肯定的事実」に変わりつつあった――――果たしてこれは使い方として正しいのだろうか。


 僕は本を棚に戻して、逆サウナからこしきに坐するが如き天然サウナに入っていった。

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