第70話 暑くなる夏の日
3.
教室に戻ったのは13時過ぎで、先程までいた朝部活組も大半が姿を消していた。一方、勉強会メンバーは波山さんが加わったこと以外、変わりない。
ただ、勉強している雰囲気はなく、まだ休み時間なのだろうか、和気藹々と談笑している。
その輪に入っていくのは気が引けた。
だがいかんせん、荷物がその輪の中に取り残されていて、それを見捨ててひっそり教室の隅に漂着したとしても、買ったばかりの替芯はポケットの中で浮遊したままで、財布と携帯だけでは、やることがない。
ともなれば、窓の外をぼんやり眺めるとか、机に突っ伏すくらいであるが、そんなことをするくらいなら、家に帰りたい。こういうとき、袖珍本などがあると便利なのだろう。
――――仕方ない。
「結江くん。来たんだね」
珍しいものでも見た――という表情だった。
「波山さん。こんにちは」
僕が戻ってきたことで、一旦、会話が中断されたが、すぐに息を吹き返し、ビニールボールのように弾んでいく。
その会話の内容を聞き流しながら、ボールペンの替芯を入れ替える。話の内容は大方、最近あった面白い話のようで、聞き取れば聞き取るほど、現代の若者の中ではこういうものが流行っているのかぁ、と感心してしまうが、その都度、僕は僕自身の年齢を疑うことになる。
尤も、中学以前の記憶が残っていないので、本当に同世代ではないという可能性は無きにしもあらずなのだが、一応、この身体に昔、巣食うていた僕であったものの遺物を見せてもらったときに、生年月日は確認している。
「じゃ、また勉強しますかー……って言っても俺とハルちゃんはもうすぐ部活だけど」
雄城が伸びをしながら言った。椅子でウィリーをしている。
僕は趣向を変えて、数学ではなく英単語をやることにした。学校指定の単語帳で、新出単語が一文に集約されている、一風変わった単語帳である。
「お、結江、なんか問題出してくれよ」
「ん……じゃあ、foster」
「フォスター?」
「スペリングはf,o,s,t,e,rだ」
「は? なんだそれ、全くわからん。ハルちゃんわかる?」
「いや……わからないな。聞いたことはありそうだけど」
「アタシも。聞いたことありそうなのに……あかねは?」
「うーん。わかんない」
この手のクイズは休み時間に出し合っているのをよく見るが、いつも決まって、周りの生徒が飛び入り参加する。
「あ、
「日本語の意味か? foster、里親だろ? 動詞だったら育てるとか助長するとか」
時刻は13時半をすぎるところだった。麴森はいままさに部活を終えてきたかのような風貌で教室に入ってきた。それでいて唐突に英単語の意味を聞かれるが、スラスラと正解を答えてみせた。さすが麴森といったところか。
「合ってる?」
「合ってる」
「やっぱすげぇな。光」
「このくらいは常識語だろ」
麴森は揶揄するように言って、教室から出ていった。
「な、なにも言い返せねぇ」
「結江ももっと簡単なの出しなさいよ」
「たまたま開いていたページにあっただけだ」
「それ貸して。あいつが帰ってきた時に、知らなそうな単語出してやる」
全部答えられてしまう未来がありありと思い浮かぶが、向かい側に座っている雁坂さんに単語帳を預けた。英語の教材は他に持ってきていなかったので、古文単語をやることにした。
それから、着替え終えた麴森が帰ってきて、嬉々として雁坂さんは問題を出すが、案の定、即答、即答、即答の、連続正解。ただ麴森の実力を再確認させられる場となった。
完敗した雁坂さんから単語帳が返ってきて、完勝した麴森が昼食を食べ始める。
しばらくして、サッカー部の二人は部活に出ていってしまい、昼食を食べ終えた麴森は椅子を横に並べて昼寝を始めていた。
波山さんと雁坂さんは他愛もない会話をしながら、ペンを動かしている。
単語帳を閉じ、それを傍目に僕はペンを握った。
それから何時間が経ったのだろうか。時計を見ればすぐに分かることで、時刻は五時を回っていた。ふと顔を上げると、雁坂さんは疲れてしまったのか、机に突っ伏していて、波山さんは黙々とノートに文字を書き連ね、麴森はいなくなっていた。
「んん…………」
軽く伸びをする。やるべきところは完遂した。教材はどれも姉貴が使ってたものだから、取り扱っている内容も高水準で、改めて姉貴の実力を思い知らされた。
しかもこれを中学の頃に使っていたというのだから、誠に恐ろしい。その証拠に姉貴は入学時は現行の指導要領なのだが、借りた教材は旧課程のものだった。
「お疲れ様。結江くん。すごい集中してたね」
「そうかもしれない。文字通り、時間を忘れていた。おかげで、終わらせたかった範囲が終わった」
「良かったね。……そしたら、帰るの?」
「うん。やることもなくなったわけだし」
「そっか。あ、その前に、一つだけ教えてほしい問題があるんだけど……いいかな?」
「教えてと言われても、波山さんにわからなかったら、僕にもわからないんじゃ」
「でも、美代が結江くんは理系科目が強いって」
あれは軽い冗句のつもりだったのだが。
「これなんだけどね……」
波山さんは一葉の紙をファイルから取り出して、机の上に僕から見やすいように置く。
『m, n を整数,k を3の倍数でない整数とする.
m³ − n³ = 3k
を満たす整数の組 (n, m, k) をすべて求めよ.』
整数問題か。しかも入試問題チックだ。
合同式で解けたら楽だなと考えてみるが、m, n の3で割った余りが等しくなる必要と、ゼロでない必要があるということくらいしかわかりそうにない。
次にやることとしたら――多くの生徒は最初にこれをやると思うのだが――左辺を因数分解することだろう。
左辺が整数の積になるから、どちらかが3の倍数と仮定すれば良さそうだ…………あれ、この問題……。
「ああ、わかったよ」
「え、ほんと?」
「たぶん、合ってると思う」
僕はペンを取り出して、解答を書きながら説明する。
「すごい。そうするんだ。わたしも因数分解まで行ったんだけど、そこから手詰まっちゃって」
波山さんは驚きを隠さず、赤ボールペンで僕の解答を自分のノートに写している。
「ほんとうに得意なんだね」
「そうでもない。これもたまたま勘が当たっただけだ」
「だとしてもすごいよ」
「それに、僕は教える側にいたから、岡目八目に過ぎないと思う」
「ねぇ、結江くん」
声音が変わった。覚悟を決めたような声だった。波山さんが向けてきた眼は、先程会った水早川先輩のそれに似ていた。
似ていたのだ。でも、似ているだけで、同じではない。「似ている」というのは「違う」ということだ。
向けてきた追求の視線。その先に解はない。
「……ううん。なんでもない」
いつも通りの表情に戻る。そう、いつも通りの変わらない――塑像の仮面。
もし、この仮面が綻べば、彼女はどうなるのだろうか。もしかしたら、そこに「解」があるのかもしれない。
「教えてくれてありがとう」
「感謝されることじゃない。それが勉強会の趣旨なんだし」
ガララと鳴ってから、傾れ込むように雄城が教室に入ってきた。
「あれ、まだいたんだ」
「部活おつかれ」
「アザス!」
「んん……なんじ、いま」
その声に起こされたのか、雁坂さんがのっそり起き上がった。
「もう5時過ぎたよ」
「……うっわ、アタシそんな寝てた!? ん、雄城、おつかれぇ〜。平田は?」
「ん? ハルちゃんなら、部長となんか話してたな」
雄城は教室の真ん中あたりまで歩いて、エアコンから送られる冷風が吹いてくる場所で、「生き返る〜」と死んでもいないのに黄泉還りを果たしていた。
僕は教材をしまって、帰る支度を始める。勉強会は思っていたより有意義な時間だった。
「結江、もう帰るの?」
「ああ。やることもなくなったし」
「そう、じゃあねぇ……」
雁坂さんはまだ眠気眼だ。
「え? 結江もう帰るの?」
頷いて答える。「もう」とは言うが、最終下校時刻は18時なのだから、早すぎるということはないはずだ。
「じゃあ、飯行かね?」
「ああ……すまん。今日は手持ちが無いんだ」
というのは嘘で、実際は、財布の中に野口英世が一枚いる。
「そうか……じゃあな」
雄城は意外にもしゅんとした。流れで誘ってくれたのだと思っていたが、本当に行きたくて誘ってくれたのかも知れない。だとしても、僕は帰るのだが。
帰路、ポケットの中で携帯が震えた。家に帰ってから確認すればいいかと思ったが、要件が外で済ませられるものかもしれないので、自転車を停めて携帯を開いた。画面の右上にある電池のマークが一つになっている。
「香流からか……」
姉貴が何かお遣いでも頼んできたかという予想だったが、別に香流からメールが来ても意外性はない。むしろそろそろ来る頃だろうとは思っていた。
香流に返信した後、界にメールを送った。それと同時に、携帯がプツンと暗幕を下ろし、ボタンを押してもうんともすんとも言わなくなった。携帯を携行するようにはなったが、充電をしておくという意識がまだ足りていない。
溜息を一つ、それから再び自転車を漕ぎ始める。
――遠く、陽炎がゆらゆらと坂を登っていく。
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