第69.5話 暑くなる夏の日

2.


 太陽は南中にあるわけだが、晴れの日の最高気温は遅れてやってくる。それは、地面が温められるまでに時間を要するためである。

 つまり、今日はこれよりさらに暑くなるというのだから、この中で運動しようとする輩は頭のネジがタングステンでできているのだろうと推察される。


 業務用クーラーの効いた冷凍庫のようなスーパーでボールペンの替芯とシャー芯、そして、おにぎりを二つ、あと冷たい緑茶を買って、学校の木陰となる半人工的な茂みに来た。

 教室の方が文明の利器によって、圧倒的に快適であるのは自明なのだが、敢えて外で食べようと思った。

 細胞内液が沸騰しそうな外気温と裏腹に、木のつくる爽やかな影によってもたらされる涼しさは、むしろ教室より涼しいのでは、という思い返せば全く意味のわからぬ理由だった。


「暑い…………」


 僕はワイシャツの第1ボタンを外した。

 ある種の焦燥感から、買ったばかりの緑茶を呷る。この緑茶のさっぱりとした風味は、身に清涼感と清爽感を与えてくれる。


 ついで、おにぎりを取り出した。


 ところで、この、おにぎりを開くシステムは一体、誰が考え出したのだろうか。この行程は必須なのだろうか。

 そんなことを思いながら、順番通りにフィルムを外して中身に齧り付く。パリパリと、海苔が軽やかな音を立てた。


 これは焼海苔であるが、生海苔を消化できるのはなんでも日本人だけという話を去年の生物の授業で聞いたことがある。どうやら、海苔を生のまま食べる日本固有の習慣があったため、いつしか、海苔を分解できる消化酵素を手に入れたらしいということだった。


 なんて言うことを思い出していたら、ぱさついた塩味が舌に乗った。

 鮭だったか。

 そういえば、適当に取ったから、中身を確認していなかった。とはいえ、おにぎりの内容物に特別な拘泥はないから、問題はない。


 そんなことより、食べてみて解った。このおにぎりをプロテクトする機構は、海苔の歯切れ良さを維持するために、直接、白米と触れないようにしてあるのだろう。だから、①、②、③とかいう謎の3STEPがあるのだ。


 二口目を食べようかと思ったところで、視界の隅に知っている生徒の姿が入ってきた。生徒会長の水早川先輩だ。


「なんだ。ぼっち飯をしている寂しい生徒がいるなと思ってきてみれば、結江だったか」

「こんにちは。水早川先輩。生徒会ですか?」

「ああ、いや。今日は生徒会ではない」


 僕の隣に腰を下ろす。


「そういえば言っていなかったな。おめでとう」

「何がですか」


 ぼっち飯じゃなくなったことだろうか。


「男子バスケ優勝のことだよ。君の技巧的なブザービーターは私も見ていた」

「そうでしたか」

「でも、君らしくもなかった」

「僕らしい、とは何でしょう」

「何か、君の中で変革でもあったのかい?」


 質問を質問で返された……いや、僕の質問はそもそも届いていなさそうだ。むしろ、水早川先輩の話にずかずかと割って入っただけ。そう感じられる。


「どうでしょう。あったような気もしますし、なかったような気もします」

「そういう回答になるということは、何かあったんだろうな」

「そうかも知れませんね。自分でも気がつけないような、微小変化を変革の中に含めるのなら、『変わった』と言えるかも知れません。悪魔の証明のようなものです」


 などと、適当なことを言っておく。たしかに、僕は変わった。

 身体のずっと奥底の、得体の知れない蟠った何かが。

 それが何であるのか突き止められるまで、水早川先輩に、他人に言うわけにはいかなかった。

 その僕の思いと裏腹に、水早川先輩の目は僕を見透かそうとしてくる。どこか一つでも綻べば、その欠缺をピックで穿ち、露わにしようとしてくるような。


 視線を切ろうかと思った瞬間、水早川先輩の声は耳の外からではなく、耳の奥で発せられたかのように聞こえた。


「結江。お前とはいつか……」


 言うが早いか、水早川先輩が僕のワイシャツを掴んで、下から覗くように顔を近づけてくる。こうやって掴まれているから、退けることもかなわない。水早川先輩が次にアクションを取らない限り、ただ見つめ合うばかり。

 そして、目を妖艶に細め、ふっと不敵に笑み、ぱっと手を放した。


「……お前とはいつか、二人きりで……一対一サシで話をしてみたいな」

「いままさに、話していたじゃないですか」


 聞くと、親指と人差指で輪を作って、上下に動かす。どうしてこれで触ったことすらない猪口だと解ってしまうのか。


「先輩。僕はおろか、先輩も未成年ですよ」

「私は『いつか』と言ったではないか」


 僕にはそもそもこの人が卒業してから、再び関わり合いになるビジョンが浮かばないのだが。


「まぁ、冗談だよ。冗談。さて、私は行くよ。そういえば今度、模試があるのだろう? 鋭意、励み給えよ」


 どちらかというと、勉強は受験生と思しき水早川先輩の方が励むべきな気がする。


 水早川先輩は立ち上がると、制服のスカートを軽く叩いて、茂みから出ていく。そのまま同級生らしき女子生徒と合流して、二人共、一度こちらを見てきたが、ただ振り返るだけで、そのまま校舎の方へ歩いて行ってしまった。


 僕も早くクーラーの効いた教室に戻りたかったが、昼をここで食べると決めた以上、初志貫徹、おにぎりを二つ食べきるまではここを動かない。

 おかげで、無駄に汗をかいてしまった。


 どうも、暑いと判断力が鈍ってしまうようだ。

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