第四章 夏休み
第69話 暑くなる夏の日
1.
夏休み、というものがある。読んで字のごとく、夏にある休みのことだ。
小中高、そして大学にもこの制度はあるらしく、四季で言えば――当たり前だが――夏に、月名で言えば葉月を中心に、およそ一ヶ月近く登校日が設けられない。
これも学校によりけりだろうが、我が校では、7月21日から、8月31日までを夏休みとしている。
この夏休みを学生或いは生徒は当然のものとして享受するわけだが、どうして夏休みが存在しているのか、その意義を考えたこと、乃至、その意義を知っている生徒はいるのだろうか。
一学生である僕は前者であり、後者でなく、意義はよく知らない。
始まることを切に願われ、終わりを迎えれば、惜しまれる。これが夏休みのレーゾン・デートルなのかもしれない。
しかし、夏休みが存在している以上、僕も家でだらだらと過ごさざるを得ない。至って、真面目な生徒であるから、夏休みは全力で休むことに徹する。
――はずだった。
現在、僕の部屋は全く異状である。西部も東部も異常あり。
いつもならまっさらな、それこそメサのような机は、やや古びた参考書が堆く。
いつもなら静粛で、寂寥感も住まう、無機質な部屋には、背後で煩い姉貴が騒ぐ。
手許ではボールペンの文字が咳をする。
「あれ、ふゆ? もうお終い?」
「ボールペンのインクが切れたから買いに行こうかと。あと、ついでに学校に寄る」
「ふーん。え!? 学校に?? 珍しい……明日はあられかしら」
雹よりマシだということにしておこうか。
「運動部組が勉強会をしているそうなんだ。混ぜてもらおうと思ってる」
夏休みに入れば、僕の存在など、もはや影すら忘れ去られるだろうと高を括っていたが、予想は外れ、しかも連日誘われたので、一日くらいは顔を出しておこうと考えていた。
それに、家にいては姉貴が休みの日は(大学の夏休みは八月入ってから始まるらしい)こうして勉強をしているか監視してくるので、鬱陶しい他ない。
ささっと支度をして、扉を開き、玄関から出る。その途端、家に引き返したくなった。
そういえばいまは桐が始めて花を結ぶ頃だ。日本はこの時期、七月下旬から八月上旬、所謂、大暑と呼ばれる期間が一年で最も暑くなる。
茹だるような暑さが張り付いてくる。剥がしても剥がしても暑いかな。なるほど、長期休みが夏と冬に偏っているのは、気候的な要因があるからかもしれない。
だとしたら、これから学校に赴く行為は自然への冒瀆だ。
学校が近づいてくると、校庭の方から闊達な声が聞こえてきた。こんなに暑い中でもへばらずにスポーツにこつこつ励んでいるこの現象は、帰宅部の僕にとっては誠に信じ難いことで、敬服である。心のなかで敬礼!
自転車を停めて、鍵を抜く。
良かった。鍵は溶けてない。当たり前か。鉄の融点は1500℃近いわけだし……………そもそもこの鍵は鉄ではなくて、真鍮とかな気がする。少なくとも鉄なわけがない。
駐輪場には、学校がある日ほどではないが、疎らに自転車が見受けられる。
昇降口に入って、靴を履き替えようとしたら、下駄箱すらサウナになっていて、辟易してきた。しかし、外よりは多少だけ涼しく感じる。
へばりついた暑さを剥がしながら、教室の方へと向かう。夏休みだと言うのに、意外と生徒は多い。
教室のドアを開ける――刹那、しつこく絡み、まとわりついていた熱気がどこ吹く風である。砂漠のオアシスさながらである。それとともに、通常の思考回路を取り戻した。何だ、鍵が溶けるって。溶けるわけがないだろう。
ドアを後ろ手に閉めつつ、冷房の心地よさを堪能する。
「結江。ひさしぶり」
最初に僕に気がついたのは、
「やっと来てくれたかぁ! 誘っても全然来てくれないから、暑さにやられて死んだのかと思ってたぞ」
「え、来たんだ。意外」
今日の勉強会メンバーは、平田と
「家に居ても捗らないから」
平田が座るところを促してくれたので、そのとおりに座った。ボールペンの替芯をまだ買っていないので、趣向を変え、シャーペンを使おうかと思ったら、肝心のシャー芯が入っていなかった。仕方がないので、別のボールペンを取り出す。
おそらく、多くの生徒はシャーペンをメインウェポンとしているのだろうが、僕はボールペン派である。
理由は単純明快で、ボールペンの方が色が鮮明に出て、見やすいし、何より消さなくていい。特に、左手で文字を書く時、シャーペンだと手が汚れるが、ボールペンならそれをある程度防げるということもある。とはいえ、基本的に文字は右手で書くが。
「結江は何やるんだ?」
主催者に訊ねられた。これと言って、教科を決めてきたわけではないが、さっきの数学の続きでいいか。
「微分」
模試の数学の範囲は、数学IA、IIBで、このうち、積分法以外が範囲になっている。模試までに一周だけでも復習を済ましておこうと考えている。
「おお、数学か。微分ってことは、数学の課題は残り半分ってとこか?」
数学の課題は数IIは指数対数から積分法の序盤、数Bは数列だ。学校課題の参考書はIIとBが一冊に纏まっていて、IIから始まってBという構成。
「これは、模試対策用だ。夏休みの課題ならもう終わらせてある」
「―――――――」
一瞬、静寂が顔を出した。
「え!?」「は??」
「結江、相変わらず早いね…………」
平田が感心するように言ったが、はて、どうして相変わらずなのだろう。たしかに、長期休みの課題はもしかしたら、学年で一番早いかもしれない。殆ど全てが休みが始まる前に終わらせてある。
しかし、このことを平田に言った記憶はないが。
提出も結局夏休みが明けてから。終わらせてあるか否かは判れども、いつ終わらせたかまでは判らないはずだ。
閑話休題。
家で開いていた頁を開き直す。学校配布の夏課題用の問題集より一つだけグレードアップした参考書。前者もなかなか骨が折れるのだが、それよりも若干密度が濃いので、必要以上に演習力が付いてきた気がする。
解いていたものは、三次方程式の係数にtが絡んでいて、tの値によって解の個数がいくつになるかを求める問題。
やや計算が面倒そうであるが、方針はもう立っている。三次方程式を三次関数として見て、導関数を求める。あとはtで場合分けをして、増減表を書き、グラフの概形から、解の個数を判定する。この教材の中では簡単〜標準レベルの問題らしい。
ペンを動かし始めたところで、雄城が思い出したように言った。
「そういやさ、ハルちゃん。微分で最初にlim、リム……じゃなくてリミットだったけ? まぁ、そんなのやったじゃん? あれ結局なんだったんだろうな」
「極限のこと?」
「ああ。だって、結局さ、微分って、xⁿだったら、xⁿ⁻¹にすればいいだけじゃん?」
「あ、微分係数の定義の話?」
「そうそう、それそれ。あんなよくわからんことしてたの、なんだったんだろうなって」
「瀬菜、逆だよ。xⁿの微分がたまたまそうなるだけだよ。たとえば、xが指数の肩に来る指数関数とか三角関数とかは微分してもそうならないし」
「え……あいつらも微分するのか」
「でも、数IIの範囲は二次関数とか三次関数くらいしか微分しないから、微分するだけだったら、なんとかなると思うけど」
「あー、俺、文系でよかったー!」
会話を聞き流しながら、手許ではtの場合分けが終わった。
「ところで、みんなは文系、理系決めた?」
「アタシは文系! 平田は?」
「うーん、僕は少し迷ってるんだよね。理系に行きたい気もするんだけど、数III見たらなんかすごく難しそうで。文系にしようかなって思ってる。結江は?」
「……僕は理系にする予定だ」
一旦、手を止めて答えた。
「お、じゃあ、一人だけ理系だな!」
「結江は迷わなかったのかい?」
「特に迷わなかったかな。別に学びたい学問があったわけでもなかったし」
「勉強したくないんなら、高卒でいいじゃない」
「大学は卒業しろって言われてるから、大学は出なければならない」
それに、学生という身分は手放し難い。それといって社会に貢献しているわけでもないのに、手厚く社会に保護されていたり、経済的に特に何も生み出していないのに、学割などが効いたりする。
「でも、平田ってさ、勉強できたよね。この間の期末も順位表に載ってたの見たよ」
確かに載っていた気がする。確か、37位で822点だったか。
「その平田が理系無理って言うんだったら、みんな無理じゃん」
雁坂さんのこの理論は暴論に近い。
ちなみに、守ノ峰高校では毎年(実際、いまの三年生も)理系:文系が6:4程度で、理系の方が多くなる傾向がある。僕たちの代はまだわからないが、似たような比率になるのだろう。
「そんなことないよ。ただ……いや、僕が理系科目が不得意なだけで。期末の点数は結局総合点だし」
平田の顔は少しだけ翳ったように見えた。
文理選択。それは高校生にとっては大きな問題だ。
少なくとも日本では、多くの大学が、入る時点で文理に分かれていて、文系なら文系、理系なら理系のまま大学を卒業する。或いは中退か。
そのため、高校時点での文理選択は直接的に大学卒業後の将来に結び付けられていると看做しても過言ではない。
そもそも文理というものは、もとを辿れば、どちらも哲学に由来するわけで、学問が発達するにつれて、分化し、専門性を帯びてくるようになって、いまでは専ら文系、理系と大雑把に分けるのが主流となっている。
もともと一つであったということは、別に、二分化するのに際し、その基準はいくらでもあるわけで、例えば、たびたび槍玉に挙げられるのは、実学、非実学だろうか。
勉強嫌いな学生たちは異口同音に「数学を勉強して何の役に立つのですか?」と細やかな反駁を試みて、とある数学の先生が「少なくともお前らよりは役に立つ」と一蹴していた。
これは数学が非実学であるから、こういった反駁が出現するのだろう。非実学は他にも物理学や歴史学、そして歴史の古い、天文学、哲学もここに属する。
逆に実学は工学や、医学、経済学などが該当し、なるほど、文理の分類とはまた別の分類となっている。
とはいえ、受験を意識すれば、文理での分類は尤もらしい。歴史と古文はやはり昔のことを読み解き扱うという点において似ていて、また別の側面から見れば、時代時代の社会背景を洞察するという点で、政治経済にも似ている。数学と物理は両方とも微積が出てくる(絡んでくる)し、物理と化学なら、同じ形をした状態方程式が出てきたり、地学だったら物理でも扱う重力乃至ケプラー運動や、生物学では光合成や、ミカエリス・メンテンの式など、化学反応を扱ったりする。
生徒たちの間では、よく文系科目は勉強、暗記した分だけ解けて(=暗記科目)、理系科目は勉強したところで解けるわけでもなく、逆に勉強しなくても解けることもある、といったようにそこにかかる労力でしばしば特徴づけられている。
「だってよ、結江」
「なら、僕は理系科目が得意だってことにしておくよ」
実際、これは嘘ではない。僕は既に予習として、高校範囲の勉強は一通り、軽くだが、触れてある。例えば、先に例に出したミカエリス・メンテンの式は、我が校では生物であれ、化学であれ三年生の時に扱う。平田が言っていた指数関数や三角関数の微積分も触れたことがある。
だから、理系に進むに当たって、特に不安となる点はない。
「なにそれ」
適当に受け流したところを咎められたところで、僕は一問解き終えた。と、同時に教室の密閉が破られる。
「あ、波山さん!」
「あかね、部活終わったの? おつかれ〜」
波山さんはバスケ特有の独特なサイズの軽そうなユニフォームを身に纏っていた。
時計を見ると11時50分。午前の部活はだいたいこの時間に終わるのか。
「うん。もうかなり暑くなってきたから、早めに終わったんだ〜。それにしても教室は涼しいね。とりあえず着替えてくるね」
そう言って、波山さんは自席に置いてあったバッグを片手に再び教室から出ていった。おそらく、着替えが入っていたのだろうが、防犯的にロッカーに入れておいたほうがいいと思うのは僕だけだろうか。
たしかに、弊学は治安はいいが、かといって、盗難が起きないわけではない。去年も実際、何件か盗難が起きて、先生方がしつこいまでに、貴重品はロッカーにしまい、鍵をかけろと注意していた。その甲斐虚しく、生徒たちの危機管理意識が高くなったようには見えなかったが。
波山さんが出ていった後、また一人、または複数人と部活組が教室に戻ってくる。着替えに行く人もいれば、そのまま帰ってしまう人もいた。
僕は一応、制服を着ているが、別に制服で登下校する決まりはない。特に、夏は熱中症のほうが怖いので、暑さで倒れられるよりは、部活着で来てくれと、プリントに書いてあったような、なかったような。
もはや、我が校では制服が制服しなくなってきたので、数年後には消滅しているかもしれない。
12時を回ると、教室は賑やかになってきて、平田たちも昼ごはんを食べ始め、一旦、勉強会は中断となった。
僕は何も持ってきていなかったので、ボールペンの替芯を買いに行くついでに、昼食を買いに行くことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます