第68話
該当する本棚は一通り目を通してみたが、彼女が探している本は見つけられなかった。
「うーん。ありませんね………」
「そ、そうですか……」
肩を落としてシュンとする。先まで掛けていなかった黒のフレームの眼鏡に、長い前髪が、腰掛けている。
「他の場所に間違えて入っちゃってたり……」
「ここらの背の高い本棚だったら可能性はありますね。一応、見てみますか」
単行本サイズなら入れられる本棚が限られてくる。B6判であれ、四六判であれ、文庫本コーナーの本棚には入らない。
さりとて望み薄である。我が校の本棚は利用者が少ないことあって、本の場所が乱されることもない。本棚整理はたまにするが、位置を直したことは数えるほどしかない。
「その本は誰かが図書室で読んでいるのを見て知ったのですよね」
「……え、あ、はい。ちょうど、そこの席で、えっと、男子が読んでました……し、知らない人だった……でしたけど」
「それって、本当に図書室の本でしたか? もしかしたら私物を持ち込んで読んでいたのを勘違いしたのかなって思いまして」
「……あ! たしかにそんな可能性が…………。す、すみません。もしかしたらその可能性もあります…………」
静かに背を向けてずらりと並ぶ本を嘗めるように探していた両の眼の視線がパツンと切れる。そしてレンズ越しに申し訳無さそうに向けられた。
「ご、ごめんなさい。こんなことに時間を……」
「ああ、そんな謝らなくても大丈夫ですよ。あくまで『可能性』ですから。一旦、全部探してみましょう」
「す、すみません」
右から左、下に下がってまた右から左、また下に下がる。こうして見ると、世の中には爆発しそうなほど作品があることに気付かされる。
「その本は、読んだことがあるのですか?」
「……え、わたしですか?」
「はい」
再び双眸がこちらを見上げた。僕は探しながら話すつもりだったが、彼女は手……ではなくて目を止めて振り返ってきた。
「ないです」
「ということは、内容とかも全く知らないということですか?」
「はい……?」
困惑気味な返答だ。ちょこんと頭頂部ではねている髪が疑問符を体現しているようにも見えた。読んだことがないのに、どうして内容を知っているだろか。尤もである。
「僕は読書家とかではないから、勝手な偏見になるんですけど、本を読むとしたら、少しだけあらすじを知ってて気になって、読んでみようかなとか、昔読んだけど、また読み返してみようかなとか、なにか取っ掛かりがあるだろうから、その……どんな理由でその本を探しているのか気になったんですよ。図書委員としてなにか参考にできたらいいなと思いまして、よければ教えてくれるとありがたいです」
このような殊勝なこと、露ほども思っていなかった。そもそも利用者を増やすにあたって、読書好きな人をターゲットにするのは、間違っている。
その違和感に気づいてか、彼女は俯くと、前髪が眼鏡を蔽い、翳る。
しかし、返答は予想していたものの中にはなかった。
「…………探しているんです―――――言葉を……………。『言葉』を探しているんです」
皮を剥がれた果実のような言葉は、なめらかに紡がれた。先までの辿々しさなど、魔法の箒で掃いてしまったかのように。
「先輩……先輩の名前ってなんですか?」
「
「それじゃあ、結江先輩……あ、わたしは
もちろん名前は知っていた。カードのやり取りをしているのだから。「あし」と読むのか「よし」と読むのかは解っていなかったが。
その高葦原さんは人が変わったかのように、言葉を堰き止めていた門が決壊したかのように話し始めた。
「結江先輩は、誰かから言われた言葉で、いまでも心に強く残っている言葉ってありますか?」
前髪の向こう、レンズの向こうで弓が引かれている。鏃はたしかに僕の方を向いていた。その先端から背くように目を宙に泳がして考えてみる。
心に残った言葉。今朝の終業式のことを思い返してみる……が、尽く聞き流していたのだった。
「…………少し考えて何も思い浮かばないので、ない……ないのだと思う」
「……わたしもです」
てっきりあるのかと思いこんでいた。引かれた弓はゆっくり下ろされた。
「でも、世の中にはあるんです。そんな言葉が」
身体に刺さった杭を抜くように、小刻みに震える声がゆらめいた。
「わたしはそれを探しています。心に残って、いっそ人生を変えてしまえるような言葉……を」
幼き少年は海の向こうに、まだ見ぬ無限の綺羅びやかな宝が眠る島を探しに行った。プラスチックのティアラを冠した少女は聳え立つ山の向こうに、白馬に乗った王子を探しに行った。
目の前にいる、高葦原さくらという女子生徒は言葉を探している。その様子は少年少女が各々胸に抱いていた希望とは大きくかけ離れているように思えた。
「……だから、変わったタイトルの本を読んで、変わったタイトルの本は変わった言葉もあるだろうから、そしたら、出逢えると思って……………す、すみません。しゃ、喋りすぎました」
急に調子がもとに戻った。まるで穴の空いた風船みたいに勢いを失っていった。
「いえ、僕から聞いたことですから」
「ほ、ほんと、すみません。ごめんなさい」
顔を手で蔽ってしまったので、これ以上は何も話さなかった。
人は多かれ少なかれ何か得体のしれないものを抱いているものだ。これ以上詮索するのはよろしくない。詮索するとしても、それは僕の役目ではない。
それから黙々と探したが、結局、本は見つけられなかった。
高葦原さんはもう一度探してみるということで、深くお辞儀をしてまた最初の本棚の方に戻っていった。
――言葉を探しているんです。
もしかしたらこれは心に残った言葉かもしれないな。
それから十分くらい経ったあと、出張図書組が一組、ラック台を転がして帰ってきた。
「おつかれぃ」
「おつかれさまです」
僕は軽く会釈をしておく。視界の隅でこちらに向かってくる高葦原を確認して。
「見つかりましたか?」
「は、はい。最初のところにあったんですけど、見落としていました。これ……『死んだだろうか泡沫』でした。タイトル間違ってました……。ごめんなさい」
四冊目の本。装幀はたしかに暗色を基調としていて、これは背景は夜の校舎だろうか。白い文字で『死んだだろうか泡沫』と刻まれている。
なるほど。探している本は実在していたのか。
「見つかったのなら良かったです」
貸出業務をささっと終わらせ、高葦原さんは四冊の本を携え図書室の外へ、僕は出張図書で返却があった本の確認を始める。
「お、これで督促状の分は全部回収できたな」
「そうですね。良かったです」
「さっきの子は督促状?」
「いえ、新規の常連ですよ」
「へぇ、珍しいね。でも、雰囲気はそんな感じだわ」
「あとやっときます」
「お、悪いね」
「先輩は受験勉強があるでしょうから」
「お、おい。せっかく夏休みが始まるっていうのに……そんなこと言うなよ」
やめてくれよまったく、というが、これでいいのか、受験生。
その後、他の出張図書も返ってきて、僕は作業しながら、高葦原さんについて考えていた。
それは一利用者を依怙贔屓、差別しているのではない。彼女が言う言葉は嘘ばかりだったからだ。
違和感があったのは貸し出し冊数を聞いてきたあたりからだ。守ノ峰高校の図書は通常時であれば五冊まで、長期休暇中であれば八冊まで貸し出しできる。つまり、あの質問をするということは、六冊以上借りようとしている可能性が高いということだ。だが、高葦原さんが持ってきた本は三冊で、あと一冊がもしみつかったとしても四冊。彼女はいま一冊も本を借りている状態にないので、通常時の上限五冊にも満たない。だのに、どうして「夏休みは何冊まで借りれますか」と聞いてきたのだろうか。
また、他の人が席で読んでいるところを見たというが、本のサイズ、カバーの色などは判っても、読書中の本のタイトルを見るには覗き込まなければいけない。それに男子生徒が座っていたという席には机がある。本を読んでいたとしたら、表紙は影になるか、それか机上で開いてあって全く見えない場合が多い。例えば本を閉じたときに盗み見たとか、たまたま本を垂直に立てたとか、いろいろ可能性は残るが、懐疑的である。そもそも彼女が「男子生徒が読んでいるところを見た」と言ったのは嘘である。
おそらく、高葦原さんは本を借りて以来、ここに来るのは今日が二回目だ。海崎が言っていたように、薄い本ならわざわざ借りずにその場で読んでしまえばいい。それなのに、しなかったということは、持ち帰る必要があったということだ。言い換えればこの図書室で本を読みたくなかったということ。実際、今日も借りてすぐに退室してしまった。
それに『死んでしまえ泡影』と『死んだだろうか泡沫』。どちらも字面は似ているが、最後の熟語の読み方が全く似通っていない。前者は「ほうよう」で、後者は「うたかた」。タイトルを盗み見て、もしかしたら泡までしか見えなかったかもしれないが、高葦原はタイトルで選ぶ本を決めたと言っていた。言葉を探している彼女がタイトルを間違えるだろうか。
もしかしたら僕の「タイトルはわかりますか?」という聞き方に問題があったかもしれない。ここで「タイトルはなんですか?」と聞いておけば、高葦原さんは嘘を言わなかったかもしれない。
最後に、高葦原さんは最初の本棚にあったといったが、僕が探していたときにはあの本はなかった。もしあれば、似ているタイトルとして、高葦原さんに確認しただろう。それなのに、高葦原さんが最初に見た本棚から見つけたと言った。つまり、これも嘘だ。
僕が見落とした可能性もあるが、仮に見落としていても、高葦原さんの言ったことは嘘である。おそらく、僕に声を掛ける前に、別のどこかにあの本を移していたのだろう。
だが、彼女の目的は不明だ。本を予め隠しておく、題名を少し間違えておくという工作、計画があった割に、吐いた嘘はわかり易すぎる。僕がそれに気づけるか試していた可能性もあるが、意図が読めない上に、指摘する必要も特にない。
これが僕以外の図書委員だったら、高葦原さんへのこの分析は疑り深すぎる考えとして却下したかもしれない。違和感はあれど、意図的に嘘を吐いていないと判断したかもしれない。なぜならこれは単なる十分条件に収まっていて、つまり、憶測の域を出ていない、証拠がないからだ。
だが、僕の場合は少し見えてくるものが異なる。
たとえば仮に高葦原さんがもっと巧妙に嘘を吐いて、分析的に嘘に気づけなくても、僕は高葦原さんの嘘を見抜ける。嘘の裏に凭れ掛かる真実までは辿り着けなくとも、嘘が嘘であることはわかるのだ。
――――僕は、相手が嘘を吐いているかがわかる。
僕に嘘は通じない。どれだけ口車がうまくとも、騙詐の技術が高くとも、僕には通用しない。僕の思考が完全に騙されていたとしても、嘘であるかないかは全く別の次元で判断できる。
もちろん、これは僕の嘘ではない。
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