くらやみ異聞
奥山鹿鳴人
くらやみ異聞
五月の薫風に、どこかで烏の羽音が聞こえたような気がした。
「品川にて
静寂を破る翁の声が古木のような荘厳さをもって響いた。
衣擦れの音とともに、御簾の向こうの貴人が気だるげに身体を起こす気配がする。
「始まるか、今年も」
ざわざわと梢を吹き抜ける風のような音が辺りの闇に満ちる。
「お支度を」
「ああ」
結界を張れ、と玲瓏な声が命じた。
◇
「注連縄……?」
黄昏の暗がりに沈んでゆく街は、どことなく異質だった。
なぜか電柱の間や家々の垣、そこかしこに注連縄が張られているのである。
首を傾げていると、そろそろ祭りだからね、と隣を歩く
「祭り?」
「あら楓ちゃん知らないの? 府中市民なのに?」
「まだ市民歴ひと月ですよ。知ってるでしょう」
「ふふ。住民票移したの私だからね」
烏川さんは楓の所属するサークルのOGで、たまに飲み会へ顔を出してはこうして買い出しまで手伝ってくれる気の良い先輩だ。
そしてキャンパスのあるこの町の市役所職員でもある。上京してきた楓が市役所へ転入届を出しに行った時、対応してくれたのが彼女だったのは驚くべき偶然だった。
艶やかな黒髪に切れ長の瞳が印象的な烏川さんは、一目見たら忘れられない古風な美人だ。新歓コンパにOGとして来ていた彼女を見つけた時もすぐに分かった。まさか向こうまで楓のことを覚えているとは思わなかったが。
「ほんと、よく分かりましたね」
「当たり前よ」
「そうそう忘れる名前じゃないわ」
楓はややげんなりする。自分の名前を恨みに思うのも後ろ暗いが、それでも人と知り合うたびに「珍しいですね」とか「可愛いですね」とか、挙句の果てには「誕生日は違うんだ」などと悪意のない笑いを頂戴するのには閉口する。
「で、何ですか。その祭りって」
「くらやみ祭りよ」
雑踏の中で彼女の声は清水のせせらぎのように澄んで聞こえた。
「そうだ。よかったら一緒に行かない?」
ね、と烏川さんの濡羽色の目にのぞき込むように見つめられて、どきりとする。
断る理由は、まあ、無かった。
◇
「まったく、あやつは今頃どこをうろついておるのか。大切な祭儀だというに」
「放っておけ」
翁の小言に、御簾の向こうの貴人は涼やかな声に愉快そうな色をにじませる。
「何か見つけたんだろう。そういうのものを拾ってくるのが好きだからな」
「多少はお叱り下さい。お集まりの諸侯に面目が立ちませぬ。これは貴方様のお祭りなのですぞ――六所宮が主よ」
貴人はふ、と嘆息とも微笑ともつかぬ息を漏らす。薫り高い風がそよいだ。
◇
目抜き通りの欅並木は、高い梢を五月の夕風に揺らしている。
この道は参道だったのだな、と楓は今更ながら思う。国分寺駅南口を出て、この府中の町を真っ直ぐに貫く大通りの突き当りにあるのが大國魂神社であり、くらやみ祭りはその例大祭だ。四月三十日に執り行われる品川の海での汐汲み神事に始まり、七日間にわたって行われる。そして今日、五月五日は祭りのメイン、神輿渡御を見られると聞いていたが――。
「太鼓でかっ!」
「あはは」
仰天する楓の傍らで、烏川さんは屋台で買った焼き鳥を美味そうについばみながら笑う。
田舎育ちの楓にとって都市の祭りは初めてだ。何となく地元の神社の縁日をイメージしていたのだが、祭りの熱気は想像をはるかに超えた。
特に直径2メートルはあろうかという大太鼓にはたまげたものだ。
大國魂神社は武蔵国の六つの神社を合祀する総社であり、故に古くは
辺りには雷雨のような太鼓の音と、打ち付けられる錫杖の音が途切れることなく鳴り渡る。烏帽子を被り印半纏を纏った人々の群れが太鼓の周りを囲むようにして進み、その後ろから白丁を身に纏った担ぎ手たちが激しい掛け声とともに大きく神輿を揺らしながらやってくる。少し動けば肩がぶつかるような人だかりの中、時々怒声も聴こえる。
ひとつの生きもののようにうねりを上げる祭りの暴力的なまでの生命力に、楓は眩暈すら感じた。
「……そういえば、なんで『くらやみ祭り』なんですか?」
「ああ。昔は本当に深夜にやってたのよ。というか、古来の祭りはみんな暗闇の中で行われるものだったの。古い神社だからその伝統を残してるのね。神輿渡御のあとの
「へえ」
「さ、そろそろ行きましょうか」
「えっ」
ふいに烏川さんが楓の手を取る。一瞬、何が起きたのか分からなかった。
顔を赤くする暇もない。気づけば烏川さんは楓の手を引いて駆けだしていたのだ。
この人込みの中を走るなど正気の沙汰ではない。ギョッとして立ち止まろうとしたが、彼女に合わせてまろび出した足は止まらない。
楓は息を呑んだ。
誰にもぶつからないのだ。風を切る感覚があるほどの速度で雑踏を駆け抜けているのに。それどころか誰一人として楓たちを気に留めていない。
ぐんぐんと、まるで車窓から見る景色のように、半纏と烏帽子が、色とりどりの人々の群れが、無数の提灯が、二人の横を流れ去ってゆく。
今や周囲の景色は単なる光の筋の集合でしかなくなっていた。ただ目の前を走る烏川さんの棚引く黒髪だけがはっきりとしていた。……いや、振り向かない彼女が本当に烏川さんであるかさえ、確かめる術もない。
夜を切り取ったような烏川さんの髪が解けてふわりと広がり、目の前を覆った。
そして、すべての光が遮られる。
――どこかで烏の羽音が聞こえたような気がした。
◇
忽然と、楓は丹色の門の前に立ち尽くしていた。
一見神社の門のような印象を受けるが、形は日本家屋の邸宅のそれに近い。青みがかった瓦の屋根、閉ざされた丹塗りの格子戸には注連縄が巡らされている。柱の外にも同じ格子状の塀が続いているが、中の様子はうかがえない。
周囲が完全な暗闇に沈む中、門だけが鮮明に浮かび上がっていた。
辺りには人影どころか、物音一つない。人だかりも喧騒も煙のごとく消え去っていた。そして、烏川さんも。
まさか――。
「ば、化かされた……?」
「誰が化かすか、無礼者」
唐突に、男の涼しげな声が響いた。
一陣の風が吹き抜け、門の扉が開く。楓は目を瞠った。
「
現れたのは黒の狩衣に烏帽子姿の、神職のような人物だった。しかしなぜか顔は面のような白布で覆い隠されている。門と同じく、この暗闇の中でも不思議にはっきりと姿が見える。
「あなたは……ここは、一体」
「ここは御旅所だ。大祭の要。武州六明神が集いくる神域であり、境界」
「御旅所?」
確か神輿渡御の終着地のはずだ。ではここはやはり府中の町なのか。
しかし、この異様な闇と静けさはどうしたことか。
「そなたは結界を踏み越えたのだ。悪戯好きの烏めに導かれてな」
「結界?」
「間もなく賓客が揃う。そなたも招いてやりたいところではあるが、今どき神隠しも流行らぬ。帰してやるから残りの祭りを楽しんでくるがよい」
「神隠しって――」
その時、狩衣の男の背後で、ひとりでに御旅所の門扉が開きはじめた。
男は音もなく側へ寄り、楓の目を狩衣の袖で隠す。真っ暗になった視界に馥郁とした薫香が広がり、男の声が朗々と澄み渡った。
「古よりの礼式に従い、夜闇をもって神事の帳となす」
どん、と腹に響くような太鼓の音。その瞬間、強風が背後から吹きつける感覚があり、複数の何かが横を過ぎ去っていくような気配がした。なんとなく、それらは御旅所の門をくぐって「向こう側」へ入っていったのだろうと思った。
「よいか、人の子。そなたらが見てはならぬものは、未だ在るのだ」
男がそっと耳元で囁いた。
「あなたは……」
刹那、緑の薫りをはらんだ風が吹き抜け、男の顔布が翻る。
「己は六所宮が主、
わずかに垣間見たその顔に、楓は「あ」と声をあげた。
◇
雪崩れるように雑踏が耳に戻ってくる。
どうやら神輿はすべて御旅所に到着したようだ。ひとまずの役目を終え、汗だくになった印半纏の人々が辺りに溢れかえり、賑やかな笑い声が聞こえる。
袖を引かれた。見ると隣には、濡れ羽色の瞳でこちらをのぞき込んでくる烏川さんがいる。
「楽しかった? 楓ちゃん」
楓はまじまじと烏川さんを見返し、ややあって「ちょっと疲れました」とだけ答えた。
「あと、そろそろやめてもらえますか、その呼び方」
「嫌だった?」
「恥ずかしいです。女子みたいで」
◇
「やれやれ、終わったな」
衣擦れの音とともに、貴人は御簾の中へと戻っていく。
「お勤め、誠にご苦労様でござりました」
深々と頭を下げると、翁は傍らで悠々と羽を休める「烏」を軽く睨みつける。
「それにしてもおぬし、どこをほっつき飛んでおったのだ。六所宮主が眷属たるものが、例大祭の最中に主のお側を離れるなど――」
「うるさいなぁ、お爺さまは」
「ちっとは反省せぬか! こともあろうに結界の中に人間を招き入れよって」
「だって驚いたんだもの。会わせたくもなるじゃない」
烏は切れ長の瞳を和ませ、自らが仕える貴人を見やる。
市役所で会った時は目を疑った。「彼」は主の顔に瓜二つだったから。
「他人の空似だ」
そう言いつつも、六所宮主の声は心なしか楽しそうだった。
「しかし毎年のことながら、やはり疲れるな。己は少し眠る」
こうして七日間に及ぶ祭りは今年もつつがなく終わったのだ。
明日は五月七日。あの子もよくよく縁が深いようだわ、と烏は微笑む。
辺りには涼しい風がそよそよと心地よく吹き始めていた。大きな勤めを果たし終えた当地の神の、安らかな寝息であった。
烏は思う。きっとあの青年は来年も訪れ、そして触れることだろう。
この武蔵野に今も息づく古のくらやみに。
くらやみ異聞 奥山鹿鳴人 @OkuyamaKanat
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