第45話

 エレーヌはドレッサーの鏡に映る自分に向かって、うっとりとした眼差しを送った。美しいエレーヌ、あなたに相応しい方はあの方よ? そう言って、微笑んでみせる。ええ、ようやく見つけたの。このわたくしに相応しい相手をね。

――エレーヌ王女殿下、どうかこの僕と結婚して下さい。

 オスカーが自分に対して跪く光景を思い浮かべ、エレーヌは恍惚となる。

 ああ、待ち遠しいわ。エメット、ごめんなさいね? 婚約は解消よ。わたくしは世界で一番美しい相手でないと駄目なの。あなたでは到底オスカーにはかなわないわ。

 くすくすと笑う。

 わたくしの金色に輝く髪は、蜂蜜色だと皆が賞賛するけれど、なら、あの方の髪は流星の輝きを銀糸にでもしたかのようね。本当に美しいわ。

 ぼんやりと回想にふける。オスカーの深い藍色の瞳は海の底から拾い上げた宝石のよう。肌は白く滑らかで、美の象徴のようなあの眼差しも、魅惑的な口元も……ああ、か、ん、ぺ、きだわ。エレーヌの妄想は止まらない。

 彼に愛を囁かれる瞬間を夢見て、自分も愛を囁く。

――愛しているわ、オスカー。わたくしの全てをあ、げ、る。

 鏡の中の自分に向かって口づけ、恥じらうようにくねくねと体を動かす。

 エレーヌは上機嫌で侍女を呼びつけた。

「髪を結い直して頂戴。最高に美しくね」

「かしこまりました」

 慣れた手つきで侍女がエレーヌの身支度を調え始める。

「でも、たくさんのハエはいなくなって、本当によろしゅうございましたわ」

「……嫌なこと思い出させないで頂戴」

 侍女の言葉にエレーヌは顔をしかめた。

 そう、昨夜は本当に大変だったのだ。

 何故か一晩中大量のハエにつきまとわれ、一睡も出来なかったのだから。しかもその前は、強烈な悪臭に見舞われるという悪夢である。

 侍女と侍従を呼びつけ、風呂の用意をさせ、体を何度も何度も洗い、香水を山ほど振りかけたが全く効果なし。何が原因かさっぱり分からず、まるで自分が汚物にでもなったかのようで、エレーヌは何度癇癪を起こしたか分からない。

 その後、一晩中ハエと格闘し続け、ふらふらになった朝方、ようやく大量のハエがいなくなったという次第である。

 エレーヌは気を取り直すように、鏡の中の自分に向かって微笑みかけた。

 侍女の慣れた手つきを眺めながら、当初の予定とは違ってしまったけれど、上手くいって良かったわ、エレーヌはそう考える。

 結婚していることをオスカーが忘れさえすればいい。そして、二人の邪魔をする人間さえ周囲にいなければ、彼は絶対自分に墜ちる。

 そう考えたエレーヌは、オスカーの中から王太子妃の記憶を消し、彼を自国へ連れて行こうとしたのだ。そして、そこで甘い蜜月のような日々を、二人っきりで過ごす予定だった。うんと彼に甘えて、本当の愛がどんなものかを教えて上げるつもりだったのだ。

 それが、ウィスティリアにいる間にオスカーが目を覚ましてしまい、大いに焦った。このままでは周囲の者達に、自分達の仲を邪魔されかねない。そう考えたエレーヌは、薬を都合してくれたあの魔術師を心の中で散々罵った。そう、三日は目を覚まさないはずだったのだ。

 けれど、結果良ければ全てよしと、エレーヌは結論づける。

 だって彼はもう、わたくしに夢中なんだもの。

 エレーヌはくすくすと笑う。

――うん、ありがとう。そうしてみるよ。

 彼は確かにそう言った。そうよ、義理で結婚した女なんか捨てるに決まってる。こうして愛する女性が目の前に現れたのだから当然よね。

 ベアトリスが泣き崩れる様子を思い浮かべ、エレーヌはにんまりと笑う。

 そうよ、いつだって男達は、このわたくしを選ぶのよ。恋人だった女を、母親だった女を、このわたくしの為に捨てる。ふふ、当たり前よ。このわたくしを愛さない男なんていないもの。そうだ!

 エレーヌはぱっと顔を輝かせた。

 あの女が打ちひしがれている様子を小妖精フェアリー達に確認に行かせよう、きっと見物だわ。エレーヌはそう考えるも、そこでふと気が付く。

「ねぇ、小妖精フェアリー達を見かけなかった?」

「いえ、昨夜からずっとお見かけしておりませんが……」

「そう、変ね……」

 小妖精フェアリー達は常に自分の周りにいた。どんな時でもエレーヌ、エレーヌとまとわりつき、ご機嫌伺いをする。そして自分の頼みなら何でも聞いてくれた。こんなに静かだったことはいまだかつてない。一体どこへ行ったのだろう?

 エレーヌは不思議に思ったが、彼女はふと気を変え、その事実を脇へ押しやった。小妖精フェアリー達は気まぐれだ。きっと、その内に帰ってくるだろう、そう思ったのだ。それがまったくの見当違いであったことに彼女が気が付くのは、まだずっと先である。

「オスカー殿下、お話とは何でしょう?」

 今一度呼び出されたエレーヌは、オスカーの姿を認め、頬を染め上げた。

 急ぎ傍へと近寄るも、周囲は何やら物々しい雰囲気だ。呼び出された謁見の間には、陛下はもとより重臣達までもが姿を見せている。てっきり愛の告白をされるものと思っていただけに、これは意外な光景で、戸惑いを隠せなかった。

 しかも……。

「王太子妃殿下が何故ここにいらっしゃいますの?」

 ベアトリスがオスカーの隣に寄り添っている光景を目にして、つい、むくれてしまう。既に袖にされていたと思っていたのに、何故、彼の伴侶面して、彼にぴったりと寄り添っているのか分からない。

「何故って、彼女は僕の妻だもの。一緒にいてどこが可笑しいの?」

 オスカーのその台詞に、エレーヌはぽかんと突っ立った。


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