今日は君に逢う日

きつね月

今日は君に逢う日


 

 「姿見の池」と呼ばれる池が東京都国分寺市西恋ヶ窪にある。

 鎌倉時代の遊女たちが自分の姿をその池に映して確かめていたという伝承からその名がついたんだとか。私は遊女ではないんだけれども、彼女に逢いに行く前にはここを訪れるようにしている。

 池に映った自分の姿を見てみる。茶色がかった髪、疲れた表情、白いTシャツ。

 彼女とここを訪れたときのことを思い出す。当時の私は高校生で、彼女もそうだった。

 あの時から変わったのか、それとも変わらないのか。よくわからない自分の姿が池には映っていた。

 そこから十分ほど歩いたJR西国分寺駅。夕陽を横目に武蔵野線に乗って府中本町駅で降りる。

 府中本町駅のいいところは、夏でも紙コップ式の自販機が置いてあるところ。これがあれば待つに困らない。そのまま2番線のホームのベンチに座る。周りにはたくさんの人がいて、みんな思い思いにケータイをいじっている。首が45度下を向いている。私も同じようにスマホを取り出して、彼女からのメッセージを確認する。

 後ろの3番線ホームに電車が到着した気配がする。

 府中本町駅にはホームが4つあって、案内によると1番線と4番線が南武線の上下、それぞれ川崎方面、立川方面行。3番線が武蔵野線の下りで、西船橋方面行の列車が来るホームとなっている。

 そして2番線のホームの行先は…真っ白。ここは降車専用のホームなのだ。

 周りの人たちはみんな3番線に到着した列車に乗り込み、その列車から降りた人たちがみんな階段を登って行ってしまうと、ホームには誰もいなくなった。

 私は空になった紙コップをごみ箱に捨ててベンチに座りなおした。

 別に間違えてはいない。私はこの2番線発のホームで、来るはずのない空白の列車を待っている。

 そしてそれは実際に来る。

 私のスマートフォンには彼女からのメッセージが表示されていて、それが切符の代わりになる。

 「やっほー」という短いメッセージ。一年ぶりの彼女の言葉。

 空白の列車に乗る条件は、向こうから招かれること。だから間違えていないのだ。


 気が付くと辺りは暗くなっていて、私の周りにも思い思いの影たちが集まってきた。

 首を90度下げて、微動だにしない影。

 ずっと周りをゆらゆら揺れている影。

 ベンチに座ってくつろいでいる様子の影。

 私と同じ列車に乗る影たちだ。人の形をしているように見えるし、服装も人間のそれっぽいんだけど、どうしても顔だけが見えない。もう慣れたけど、初めて見たときは怖かったものだ。

 彼ら(彼女ら)が見えたということは、列車の到着が近いという合図だ。ここまでくると私の姿も変わってくる。

 白いTシャツに黒いデニム姿だったはずの私は、いつの間にか半袖のセーラー服を着ていた。

 彼女と最期に別れたときの服装。背も若干縮んでいるようだけど、それは気のせいかもしれない。肩のあたりまで伸びている黒髪。あの時から変わったのか、変わらないのか。

 やがて白い光が2番線のホームを照らし始めた。

 音もない列車が目の前に滑り込んでくる。黒くて無機質な見た目。昔の白黒写真に乗っているような見た目の電車だ。ゆっくりとドアが開き、深く帽子をかぶった車掌さんが出てくる。やはり顔は見えない。私は車掌さんに彼女のメッセージを見せると、車掌さんは手にした検札鋏(切符をパチンとするやつ)でスマートフォンを挟み、パチンとした。するとスマホは無事なまま、メッセージだけが消えてしまう。不思議な話なんだけれども、まあ今更だろう。

 車内は静かだった。影たちは思い思いの場所で過ごしている。私は一番左端の席に座った。

 扉が閉じて、電車が走り出す。しばらくは真っ暗なトンネルの中を走っていたが、それを抜けると外の風景が見えてくる。

 それは色のない白黒の姿をした、武蔵野台地の風景だった。


 私は府中本町駅から2つ先の「多摩川裏」という駅で電車を降りた。単線のホームの小さい無人駅。そこで彼女はいつも待っている。今日もそう。影たちの顔は見えなくても、彼女の顔ははっきり見える。あの時から少しも変わっていない様子で、一人でベンチに座っているのがはっきりと見えた。

 私は声をかけた。向こうもそれに応えた。「やっほー」という彼女の口癖が、まるで昨日も同じやりとりをしたかのように頭に響いた。

 彼女の死因は水死だったと聞く。多摩川に身を投げたんだとか。

 なんで?とは聞けない。そんな様子は今も昔もまるで感じられないから。

 こうして逢うたびに、彼女は楽しそうにこっちの世界のことを話してくる。多摩川の流れが逆なんだとか、つまり玉川上水も逆に流れるんだとか。国分寺のあたりは大きな谷になっていて、最初はどこだか分らなかったとか。姿見の池はここだともっと広くて、たまにそっち側が見えるような気がするとか。相変わらずの散歩好きは変わっていないようだ。

 だけどごめん、どれだけ話されても私にはこの世界は白黒にしか見えないし、正直に言うとね、生前も、話す内容にはそんなに興味がなかったよ。だって自然とかの話ばかりするんだもん。女子高生がする話じゃないと思うんだけど。

 だけどそんな話を楽しそうに語る君の姿は、昔も今も生き生きとしていて楽しそうで、だから一緒にいたんだよなあ。相変わらず、変わっていない。

 もう変われない。


 やたらと大きな丸い月が、低い位置に爛々と浮かんでいる。

 熱の感じない太陽が上がって下がるだけの世界。私には寂しく感じてしまう。

 それでも救いがあるとするならば、君が楽しそうにしていること。それと年に一回だけ、梅雨が明けたあたりで君が私を呼んでくれること。

 変わらない思い出にすがって生きているのは、たぶん私の方なんだ。

 私たちは今日も取り留めのない話をたくさんした。なんで?とか、肝心な話はしないでいい。そんなことを聞いてもう逢えなくなるのは嫌だから。

 もしかしたらこんなことはもう止めて、彼女のことを解放してあげるべきなのかもしれない。やり方は簡単だ。私がもう来なければいい。そうすれば彼女はまたどこかの新しい場所へ向かえるようになるのかも。ここよりもっと明るくて、寂しくない場所へ。

 だけどきっと来年の私も、君に呼ばれればここへ来るだろう。

 君の笑顔を見にここへ来るだろう。

 それにすがって生きているのは私の方なんだ。


 やがて辺りはすっかり暗くなり、古ぼけた灯が点滅し始めたころ、帰りの電車が反対方向からやって来て私たちは別れた。帰りは車掌さんのパチンはない。彼女の切符は往復切符なのだ。

 私はいつまでも手を振っている彼女の姿を見ていた。そしてそれが見えなくなると、席に座った。電車は夜のレールを滑り、トンネルをくぐり、あっけなく府中本町駅に帰ってきた。階段を登り、改札へ。周りは生きている人間で溢れている。もう影たちの姿は見えない。私の服も元に戻っている。

 私は再び姿見の池へ向かった。彼女も向こうからこの池を見ているのならば、ここが一番近い場所だと思うのだ。

 明かりも少ない夜の池。だけどその表面にはっきりと私の姿が映っている。

 半袖のセーラー服を着た黒髪の私が、こちらをじっと見ている。そして口を開いた。

 もし、もし私があの時、彼女に最後に話しかけられた時にその話をちゃんと聞いていれば、どうなっていたと思う?あの時の彼女の様子は、確かにいつもと違っていた。些細な違いだったけど、だからこそ私にしか分からなかったんじゃないの?私にしか、救えなかったんじゃないの?

 それを、私は何て答えた?忙しいからって、また明日会えるからって、ろくに聞きもしないで。答えられないじゃないか、最期に彼女に話した言葉を。それくらい些細に、あっけなく、その手を離したんだ。すがっているのは私の方だって、そうじゃないでしょう、私は、本当は、

 ―――謝らないといけないんじゃないの?

 彼女に、ごめんねって。気付いてあげられなくてごめんねって。彼女の方をまっすぐ見て、言わないといけないんじゃないの?

 その結果、もう二度と逢えなくなったとしても。


 ねえ、聞いてる?

 

 うるさいな、聞いてるし、分かってるよ。

 こんなこと、普通じゃないし、終わりにしないといけないんだって。

 だけどしょうがないじゃん。たとえもう、生きている人間じゃなくて、逢えるのがおかしいことだったとしても。それでも、言葉が届いたんだ。「やっほー」って。それってさ、私のことを恨んでるとか、謝ってほしいとかじゃなくてさ、ただ向こうも別れたくないだけなんじゃないかなって、思ってしまうのは、しょうがないじゃん。

 私だってもう失いたくないんだから。

 ごめんねなんて言ったら、それは、本当のお別れみたいじゃん。


 いつまでこんな夢を見られているだろうか。

 たぶんその時が来たらあっけなく終わってしまう。2番線に電車は来ず、私はバカみたいにホームで待ち続ける。いくらスマホを眺めても彼女からのメッセージは来ない。そんな日が来年にも訪れるかもしれない。

 それでも私はお別れは言わない。

 あの日掴めなかった手を、もう離したくない。

 今でも私たちが寂しさで繋がっているなら、この地がそれを繋いでいてくれるのなら、私はいつまでもそれを持ち続ける。

 そしていつの日か、往復の切符が片道に変わったその時には、もう離れられないぐらい一緒になれたその時には、メッセージを送ろう。


 今度は私の方から。









 

 

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