第8話

 私はキッチンに桃を置くと、そのまま裏口から外に出た。

 森の中をあてもなく歩いた。

 見上げると、複雑に重なった枝葉の向こうに、少し明るさを落とした青い空が見えた。ヒグラシが鳴いている。どこか懐かしく、胸が苦しいほど美しい風景が広がっている。

 やっぱりこの景色を描きたいと思った。「園田文江のような絵」ではなく、私自身の絵を描きたい。何年かかってもいい、それができるなら。

 私は夢中で青みを増していく空を見ていた。そのうち、涼しい風がふっと頬を撫でた。

 いつの間にか日没が近づいていたことに、私はようやく気づいた。

 振り返ると、木々の向こうに屋敷の屋根が見えた。さほど遠くではない。

 急いで帰ろうと踵を返す。そのとき、


 ビィ―――ン


 音がした。

 全身に鳥肌が立った。とっさに振り返りそうになるのを必死でこらえ、私は両方のこぶしをぐっと握った。

 日はすでに沈んでいたのだ。空がまだ明るかったので、気づくのが遅れてしまった。

 不注意を後悔しながら、足を一歩踏み出す。少し遅れて背後から、どん、と重たい音がした。

 私は唾を飲み込んだ。鼻からゆっくり息を吸って、口から細く吐く。

 足を踏み出す。そのとき、後ろから声が聞こえた。

「塔子ちゃん」

 背中を冷たいものが走る。

 大叔母の声だった。

「塔子ちゃん。塔子ちゃん塔子ちゃん塔子ちゃん」

 絶対に振り向かない。

 私はまたゆっくりと一歩を踏み出した。うっかり転ばないように、一歩一歩。引き留めるように、夏草がドレスの裾をひっかける。少し荒っぽく引っ張って、私は前に進んだ。

 また後ろから、どんと音が響いた。足の下の地面が微かに震えたような気がした。

 前の「実験」のときとは状況が違う。私は心から、今ここに永井さんがいてくれたら、と思った。

 喉がカラカラだった。早く家に帰らなくては。全身に汗が噴き出し、夜風が冷たく吹き抜けた。夏だというのにやけに寒い。

 いつの間にかヒグラシの声はしなくなっていた。昨夜はうるさいほどだったスズムシの合唱も聞こえない。異様に静かな森に、大叔母の声が響く。

「塔子ちゃん」

 私は黙って歩を進めた。

 やがて目の前が拓け、私は屋敷の前の庭に立っていた。いつの間にか空の色が暗くなり、夜の気配が濃くなっている。満月になりかけの月が、木立に覆われた庭を明るく照らしていた。

 喜びのあまり走り出しそうになる足を押さえて、私はゆっくりと進んだ。まだ背後には何者かの気配がある。

 でも、家まではあとほんの少しだ。

 一、二、三、四と数えながら、家の前の階段を上った。白い柱の間を通り、私はようやく玄関にたどり着いた。

 ほーっと長く息を吐いて、ドアノブに手をかける。そのとき、


「君島さん!」


 永井さんの声がした。

「永井さん?」

 私ははっとして声の主を探した。

 月光に照らされた庭。黒々とした木立。無人のテーブルセット。誰もいない。

 そのとき私は、自分が後ろを振り返っていることにようやく気付いた。

 森と庭の境目に、明らかに人ではない大きさの何かが立っている。次の瞬間、それはおそろしい速さで私に駆け寄ってきた。


 何もかもわからなくなる直前、私はその巨大な単眼に、玄関に手をかけて半ば振り返った私自身の姿が映っているのを、まるで絵画を見るように眺めていた。

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神様の棲む森 尾八原ジュージ @zi-yon

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