第7話

 気づけば、八月が終わろうとしていた。

 この家に引っ越してきてからおよそ一ヵ月、完成した絵はまだ一枚もなかった。


 その日は午後になっても、鉛筆一本握る気にならなかった。風が涼しくなってきたので、私は『盛夏』のドレスを着て庭に出た。

 テーブルセットに腰かけてぼーっとしていると、永井さんが訪ねてきた。少し見ない間に日に焼けて、前より快活そうな印象になっていた。

「今年最後の桃だそうなんで、おすそ分けに来ました」

「うわぁ、いい匂い。ありがとうございます」

 椅子から立ち上がり、ビニール袋を受け取ってお辞儀をする私を、永井さんは不思議そうに眺めていた。

「君島さん、よくその服着ておられますね」

 彼に指摘されて初めて、私は自分のピンクのドレス姿を思い出し、おかしな格好で外に出たことを後悔した。何せ顔に塗っているのは日焼け止めだけで、あとはノーメイクだ。髪だけは丸くまとめたが、それも適当にセットしたせいで崩れてきている。足元に至っては、動きやすい普通のサンダルを履いていた。夜会用の服に合わせるにはあまりに不釣り合いだし、第一何でもない日中に、ひとりでドレスを着ているところからしておかしい。

「すみません、変なカッコで……」

 私は赤くなって頭を下げた。そういえばこの家に初めてやってきた日も、こうして彼の前で、自分の格好を恥じたものだった。

 永井さんは空いた手を振り、「いやいや、似合いますよ」と慰めてくれた。

「でも、暑くないですか? その服」

「いえ、見た目ほどは……お恥ずかしいです。大叔母みたいな芸術家の気分をちょっと、味わってみたくて」

「なるほど。そういうのありますよね」

 永井さんはゆっくりうなずいた。

 私はなんとなく、この新しい友人に自分のことを少し打ち明けてみたい気がした。そうすれば煮詰まっていたものがなくなって、いい絵が描けるように思ったのだ。

「私、大叔母みたいになりたくて、美大に行ったんですけどね……てんでダメでした」

 私は桃の入ったビニール袋を提げ、テーブルの横につっ立ったまま、そう話し始めた。

「画家で食べていけるほど才能がないとわかったけど、絵に近い仕事がしたくて、勉強してグラフィックデザイナーになったんです。大違いでした。デザイナーは自分が描きたいものを描く仕事じゃなくて、クライアントがほしいものを形にする仕事ですから……」

 私は永井さんの顔をちらっと見た。彼は口も挟まず、私の話を笑いもせずに、ただ黙って聞いていてくれた。私は安心して続きを話した。

「おまけに私が就職したところが結構ブラックな会社で、どんどん自分の時間がなくなって、仕事以外の絵が描けなくなって……このままだと体壊すかも、ってときに大叔母が亡くなって、この家を相続したんです。この家に住んで、大叔母のように過ごしていたら、あんな絵が描けるかと思ったけど、やっぱりそれもダメでした。全然描けないんですよね。大叔母と血がつながってるはずなんですけどね、私」

 私が口をつぐむと、タイミングを図っていたのだろう、永井さんが口を開いた。

「僕は芸術はよくわかりませんが、園田先生と同じ絵を描くなんて、誰にもできないんじゃないですかね。園田先生は園田先生、君島さんは君島さんですよ」

 あ、でも身内にそういう人いると色々言われますよね。永井さんはそう言って、冗談っぽく笑った。

「たとえば僕の曽祖父は旧日本軍のパイロットで、勇敢でおまけにハンサムだったらしいんですが、僕はちっとも似てなくてね。実はゴキブリが怖くて退治できないんです。まだありますよ? 伯父は東大を卒業したけど僕は地元のしがない国立大。年の近い従弟はきれいなお嫁さんをもらって、一戸建てを建てました。でも僕はいい年して嫁さんどころか彼女もなし。家を建てるどころか、未だに実家で暮らしてますよ」

「永井さんはちゃんとしてるじゃないですか。教師なんて大変な仕事ですよ」

 私は彼のことを本心からそう思っていたので、急いで否定した。永井さんは私に「君島さんだってちゃんとしてますよ」と微笑んだ。

「僕も君島さんも、他人と比べて卑下することなんかないですよ」

 おっとりとそう言われて、私は何も言い返せなくなってしまった。叱られた子供のように立ちすくむ私を見て、永井さんは慌てたようだった。

「いや、失礼しました。お説教するのが仕事なもんだから、つい偉そうな口をきいてしまって」

 そう言って、「すいません。もう戻らないと」と踵を返そうとした。

「いえ、ありがとうございました」

 私は頭を下げた。彼は片手を挙げてちょっと会釈をし、足早に帰っていった。

 私は永井さんを見送りながら思った。

(永井さんは才能があるな。人の話を聞く才能)

 たったこれっぽっちの会話で、ひと月も悩んでいたのが嘘みたいに、心が軽くなっていた。

 私は手元に残ったビニール袋を覗き込んだ。形はよくないが、新鮮な色合いの桃がふたつ入っている。

 なんとなく嬉しい気持ちになって、私は意味もなく桃に微笑みかけた。やっぱり話を聞いてもらってよかった、と思った。

 何かが少しずつ、いい方向に進み始めたような気がした。

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