第6話

 永井さんとの「実験」は、ここでの生活に暗い影を落とした。私は真夜中に、何かに追われる夢を見て目覚めることが増えた。

 それでも私は、大叔母の家に住むのをやめなかった。

 確かにあの得体の知れない「神様」は恐ろしい。もしも永井さんの話が本当なら――少なくとも、森の中に得体の知れないものがいることは体験した――、見ただけで「おかしくなってしまう」ような何かが、この森には棲んでいるということになる。特にこの家は、その森に包まれるように建てられているのだから、私など半ば森の中で暮らしているようなものだ。

 それでもここに住み続けることにしたのは結局、日没までに家に入って外を見なければ、何の問題もないということがわかったからだった。

 神様の件を除けば、私は会社員時代に煩わされたあらゆる問題から解放されていた。朝、無意識のうちに玄関から動かなくなる足を無理に引きずり、泣きそうになりながら出社することも、泥のように疲れて帰宅した夜に、壁越しに聞こえる隣人のバカ笑いに悩まされることもない。切り詰めれば、少なくとも三、四年は働かず、好きなことだけをして暮らしていくことができるのだ。

 私は、かつて大叔母がそうやっていたように、一日のほとんどを絵を描いて過ごした。

 最初のうち、それは私にとってかけがえのない喜びだった。描きたいものはたくさんあった。森ではミズナラやカエデなどの広葉樹が伸び伸びと枝を伸ばしていたし、木漏れ日の下のテーブルセットは、何も載せなくてもそれだけで美しかった。木々の間から見える夏空も、真新しい綿を重ねたような入道雲も、キャンバスの上に表したいものはいくらでもあった。

 まだ涼しい早朝、私はあのピンクのドレスを着て、長い裾を持ち上げながら森を散歩した。それは私にとって、大叔母のような絵を描くための儀式だった。大叔母のやりそうな行動をとることで、彼女が持っていた「天才」の一部が、私に流れ込んでくるような気がした。

 散歩を終えると、私はイーゼルに向かった。いつの間にか私は食堂の横の小部屋ではなく、アトリエのベッドで眠るようになっていた。家事は最低限しかやらず、廊下の板張りの床は、この家に到着した日のようにきれいではなくなった。いつも何となく埃っぽく、歩くと細かい砂粒が微かな音を立てた。買い物はほとんどオンラインで済ませるようになり、ここに住むにあたって購入した中古車は、庭の隅で葉っぱに埋もれていた。

 最初の十日ほどで、20号のキャンバスいっぱいに、葉をたくさん繁らせたミズナラの木とその間に見える空を、夏らしくコントラストの強い色合いで描き上げることができた。

 私はその絵をアトリエの真ん中に置いて眺め、なかなかいい出来だと思った。乾くまでに五日くらいはかかりそうだったので、絵はそのままにしてベッドに転がり、凝った手足を精一杯伸ばした。

 まだ日は高く、体には油絵の匂いが染み付いていた。しかし泥のように疲れていた私は、ついそのまま寝入ってしまった。


 次に目覚めると、もう夜になっていた。

 電気を点けていない室内は暗かった。梁についた白っぽい痕が、月明かりに照らされてぼんやりと見えた。

 あれは大叔母の死の痕跡だ。梁にロープをかけ、脚立に乗って首を吊った痕なのだ。

 窓の外で、ビィ―――ンという音が鳴った気がした。カーテンを開けっ放しだったことに気づいた私は、タオルケットを頭からかぶって目を閉じた。

 大叔母は向上心があって、絵を描くことを愛していた。皆が「大芸術家の奇矯な行動の一部」のように大叔母の自殺を取り扱ったけれど、私は彼女が、自死を選ぶような人には思えなかった。

 でも大叔母は死んだ。自ら首をくくって、まっさらなスケッチブックを遺して。そこには何か原因があるはずだ。

(知的好奇心の旺盛な方でした)

 永井さんは大叔母のことをそう評した。私もそう思う。見るなと言われて我慢できたはずがない。きっと大叔母は神様を見たのだ。

 そして自殺した。


 ビィ―――ン


 また音がした。さっきとは別の方向からだ。今外を見れば、私にも神様の姿が見えるかもしれない。

 でも、私はそうしようとはしなかった。大叔母のやったように行動したい気持ちと、得体の知れないものを恐れる気持ちとでは、後者の方がずっと強かった。

 またいつの間にか眠っていた。気がつくと朝の六時近くだった。もう外は明るくなっている。

 私は起き上がると、描き上げた20号の絵の前に立った。改めて見ると、『盛夏』とは比べ物にならない、くだらない出来に思えた。

 私はパレットを手に取り、あるだけのチタニウムホワイトの絵の具を捻り出すと、一番太い筆で、まだ乾いていない絵を白く塗りつぶし始めた。

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