第5話

「もしもし、母さん? 俺だけんど、今日遅くなりそうだから、君島さんに泊めてもらうから……違う違う、変なこんなんかしないよ。客間に泊めてもらうから大丈夫。え? ……うん、神様のね。ちっと怖いからって。うん、じゃあまた」

 どうやら永井さんは、家族と話すと訛りが出るらしい。スマートフォンでの通話を終えると、

「すみません。君島さんが、神様の話を聞いて怖がってるから泊まるってことに、勝手にしちゃいました」

 と言って頭をかいた。

「いいですよ、そんなこと」と私は笑った。

 六時半を過ぎた頃、私たちは家中のカーテンを閉めてから庭に出た。永井さんは「念のため」と言って、窓の鎧戸を閉めて回った。

 太陽はもう森の木々の彼方に沈んで、空が青の濃さを増していた。

「この辺りにこうやって立ってみましょうか」

 永井さんは庭の中央に、家の方を向いて立った。私も彼の隣で、同じ姿勢をとった。

「これから何をするんですか?」

「何もしないんです。待つだけです。懐かしいなぁ」

 永井さんは口ではそう言ったものの、顔はまったく笑っていない。

「僕が十代の頃、これが子供らの間で、度胸試しとして流行ったことがあったんです。いいですか、絶対に振り向かないでください。どんな音がしても、誰に話しかけられてもです」

 私は唾を飲み込んだ。「わかりました」

 私たちはしばらく、黙ってその場に立っていた。屋敷の屋根越しに、森の木々が風に揺れるのが見えた。鬱蒼と繁った夏の草木の匂いが、ザワザワという葉擦れの音と共に私たちの周りをとりまく。半袖の腕に夜の空気が少し冷たい。この辺りの夏は、都会の夏とはまったく肌触りが違う。

 空の色がどんどん濃くなっていく。このままの色をキャンバスに残せたらいいのに、と考えていたとき、背後で音がした。


 ビィ―――ン


 太い弦を弾くような音だ。

「振り返らないで」

 永井さんが言った。

「そのまま玄関まで、ゆっくり行きます」

 私たちは足を踏み出した。草を踏む音が、私のスニーカーの下で小さく鳴った。同時に私たちの背後、おそらく森の中から、どん、と重たい音が聞こえた。

 私たちの後ろに、何かがいる。

「振り向かないで」

 永井さんがもう一度言った。

 限りなく長い数歩だった。私たちはゆっくりと玄関に向かった。どん、という音は、私たちの歩く速さに合わせて鳴っているようだ。私のこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。

 ようやく玄関に手が届いた。ドアを開けると、私たちは中に転がり込んだ。後ろ手でドアを閉める。

 私たちはふたりそろって、ふーっと大きなため息をついた。

「もう振り返っていいですか?」

「ドアを閉めましたからね。大丈夫ですよ」

 永井さんは私にぎこちなく笑いかけた。

「でも、窓の外は見ないでくださいね」

「びっくりしました。まさか本当に……」

 その時、すぐ外から年配の女性の声がした。

「孝輔? いだけ?」

 それはさっき会ったばかりの、永井さんのお母さんの声だった。私の心臓がドクンと跳ねた。

「こうすけぇー」

 永井さんが私の腕をつかんだ。いつの間にか私の右手が、玄関のドアノブにかかっていたのだ。

「母じゃありません」

 彼は強い口調で言った。

「絶対に母じゃありません。母も父も、日が暮れたら何があっても外には出ません」

 私たちは食堂の隣の小さな部屋に隠れた。そこは一時期、住み込みのお手伝いさんが使っていたという質素な部屋だったが、とにかく玄関から離れて落ち着く場所がほしかったのだ。

 閉め切ったカーテンと鎧戸の向こうでまた、「いんだけぇ」と呼ぶのが聞こえた。

「肝試しが流行った頃ね」

 ベッドに腰かけた永井さんが、呟くように言った。

「信じてもらえないかもしれませんが、本当におかしくなっちゃった奴がいたんです。そいつの部屋、一ヵ所だけ障子が開いてました。きっと窓の外を見たんです」

 それから皆やめました、と話すのを、私は古いアームチェアに座って聞いていた。


 永井さんのお母さんの声は、その後もしばらく、家の周りをぐるぐると回っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る