第29話 涙

 ここまで切れ味が悪いとは思いもしなかった。


 「っ…!」


 リンリは、かつて警察の手から匿った場内造の手を一撃で切り落とすことが出来な

かった。


 「うぁっ…!!!」


 すでに右腕を切り落とされた場内は、たった一つとなった腕を、失う。


 彼はもう、物を持ったり、娘や孫の頭を撫でることすら叶わない。身体を洗うこと

も、排泄をすることも、食事をとるのも、他の誰かの力が必要になる。


 「懲りねえな~。場内さん!」


 「あの人、何回目だよ」


 「次は殺人未遂だってよ」


 「怖い」


 「でもさ、これで腕が二本とも無くなるんだから安心だろ」


 「そうそ。これが憲兵の正義ってやつだな」


 「やっちまえ~。ヤギ頭ぁ!」


 こんなに世間の信頼を失った状態で、誰かに頼らなければいけない。


 本当に良かったのだろうか。


 警察に捕まえてもらった方が良かったのかもしれない。しかし、尾野のことだ。ま


た羽田と計画して懲役刑と『処刑』を合併させるに違いない。


 それなら、リンリが切り落とす。


 個人の都合による必要以上の罰を防ぐために、リンリが、かつて笑いながら話をし

た場内造の腕を、切る。


 せめてもの救い。


 聞こえが良いだけの、ご都合主義な言葉でしか自分を慰めることが出来なかった。


 一撃で切り落とせない理由はもう一つあった。


 被っているヤギ頭からは、通常よりも視界が狭まってしまい、身体の感覚も狂って

しまう。音だけは、嫌みのように容易く拾い上げてしまうのに。


 尾野はいつも、こんな条件のもとで腕を切っていたのか。


 リンリが振り下ろす斧は、腕を捉えてはいるものの、決まった一点だけを切らない

ため、なかなか深い切り込みが作られない。


 「はぁ…はぁ…」


 日ごろから何度も素振りをしてきた腕は、音を上げ始め、息が続かない頃にはあれ

だけ青かった空はオレンジ色になり、人の数も減っていった。


 「なんで…なんでだよ…!」


 ヤギ頭の下でリンリは焦り始める。


 あれだけ痛みにもがいていた場内は、意識を失っている。


 虎の模様になった腕から、血がドクドクと流れる。


 「おいおい、今日は随分と長丁場じゃねえか」


 「こいつの罪はそんなに重たいのか~?」


 「このおっさん気絶してるし、もう帰ろうぜ」


 「派手に切り落とされるところが見たかったのに、つまんねえな」


 すっかり暗くなったころには、聴衆は完全にいなくなった。


 残っていたのは、尾野と百葉、そしてジム。


 「もう終わりか?」


 尾野が聴衆と同じく、余興を眺めるように呑気に笑いながらリンリに問うた。


 「まだ、腕を切り落としてない!」


 リンリは斧を振りかぶる。しかし尾野の一言で振り下ろせずに、だらんと斧を下げ

た。


 「こいつ、そのままにしてたら死ぬぞ?」


 まるで期待しているかのような忠告に、リンリは、この日はもう彼の腕に斧を振る

わなかった。


 「殺したら、全部お前の責任になる。また別の日にでも切れ」


 「僕は、僕は…」


 悔しかった。


 結果的に、自分がただ場内造の腕を痛めつけただけだという事実を、受け入れるこ

とが出来なかった。


 自分は役立たずだった。


 腕を切り落とせなかった彼は、また別の日に腕を切り落とされる。今から警察に出

頭し懲役刑を受けようとも、結局は尾野と同じことをしてしまう。


 力が無かった自分のせいで、場内造は必要以上の罰を受けてしまうことになった。


 責任と失意の重さに頭を上げられないリンリの胸に、暖かく柔らかい頭が触れた。

両腕をリンリの背中に回し、小刻みに震える。


 「リンリ…、リンリ…」


 百葉は泣いていた。


 リンリが腕を切り落とせなかったことを喜ぶような、同情するように悔やんでいる

ような涙だった。


 しかしそれが、どんな涙だって、リンリにとってはどうでもいいことだった。


 泣いて縋り付く百葉の背中に、リンリもまた両腕を回し、離れないように抱きしめ

た。


 「ごめん…、ありがとう…」


 リンリもまた、小刻みに震えながら、溢れ出す涙を流し続けた。






                △△△


 僕は、涙を流していた。


きっと悔いていたのだ。


尾野から言い渡されたとき、きっとこの僕は、抱えきれないほどの失意に圧倒されて

いたことだろう。


その日は、何度も同じ失敗を繰り返すほどに集中力が欠けていた。


僕に募る周囲の怒りを何とかして納める。


相変わらず手のかかる奴だと思いながら、ふと、彼らのことを思い出す。


「本当に、いいんだよね…、これで…」


後悔、という感情が生まれたのは、彼がここに来てからのこと。


彼に会ってから、彼のあの笑顔を見てから、彼の優しさに触れてから、少しずつ、復

讐の感情が萎んでいくような気がした。


北区の処刑場には、場内造が腕に何度も斧を叩きつけられていることだろう。


こんなお店に、お世話になっているせいで、僕は身動き一つとれない。仕事前の仕込

みのせいで、僕は時間に拘束されている。


 「抜け出してしまえばいいのに、今日くらいは…」


怖くて、動けないのだ。


 こんな時になっても、僕は自分のことばかり考える愚か者だった。


 自業自得だ。


 そんなことだから、僕はいつまで経っても僕なのだ。


 常連客に勧められた酒を少々飲み過ぎたせいか、眠く、息苦しい。


 見上げる窓の、夜空に浮かぶ月がぼんやりと二重に揺れ動いた。

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僕は罪人の腕を切る ヒラメキカガヤ @s18ab082

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