後編
どうやら運転手さんにきちんと伝わっていたようで、バスは僕らを目的地に連れてきてくれた。
良かった良かったと言いながら降り、武蔵野の森へと向かう。
汗ばんだ手を繋ぎ、自信満々に歩くじっちゃん。
バスのこともあり、少し不安になりながら歩く僕。
脇道に曲がり進んでいくと、濃い緑の葉を付けた、いくつもの木々が前方に見えた。じっちゃんの歩く速度が上がり、転びそうになりながら後に続く。
「さぁ、ケン! 着いたぞ!」
ここが武蔵野だと、じっちゃんが言った所で、
「……っ!」
僕は耳を塞いだ。
一歩、森に足を踏み入れた瞬間、蝉が一斉に鳴き出した。蝉の声ってこんなにうるさかったっけと思うほどに、それ以外何も考えられないくらいに、すごくうるさい。
そんな僕を笑いながら、こっちだとゆっくり手を引いてくれるじっちゃん。俯きがちに歩いていくと、音は和らいでいき、顔を上げてみろと言われたからそうしてみた。
「わっ!」
目の前にはいつの間にか、大きな池があった。
陽の光に照らされた水面は澄んでおり、周りの薄緑の草木は風によって静かに揺れる。
暖かな光景に思わず目を奪われてしまいそうだが、当時の僕は幼く、目の前の池よりも、
「ポンプだっ!」
手前にあるポンプに意識を奪われた。
「じっちゃん、ポンプ! ポンプあるよ!」
「え、あぁ」
「手! 手、洗おうよ!」
「……そうだな」
アニメでしか見たことがない物に興奮した僕は、それに駆け寄り、ハンドルを掴む。確か、上に上げて、下に下ろすはず、と思いながらやってみたけど、下に下ろすのは少し力が要り、じっちゃんに助けてもらった。
どばっと出た水に声を上げながら、手を入れる。冷たい水が気持ち良い。後ろでじっちゃんの笑い声と、シャッター音が聴こえた。
「ずるい! 僕も!」
じっちゃんと場所を代わり、ハンカチで手を拭いてる間にさっさと手を洗い出したから、急いでスマホのカメラを構えて、僕も撮る。結局血は争えないもんで、下手の横好きだけど、スマホだけど、僕も写真を撮るのが好きだ。
「おっ、上手く撮れてるかっ!」
顔をしわくちゃにして僕に訊くじっちゃん。うんっ、と大きく頷く僕を、そうかと言いながら目を細める。もちろんその顔も撮った。
濡れた手を拭くとまた手を繋ぎ、広場の方に向かう。そこでは犬と遊ぶ人や、駆けっこをする子供、シートを敷いてお弁当を食べる親子など、たくさんの笑顔が溢れていた。
「……」
じっちゃんは何故か、足を止めた。じっと、広場の人達を眺めている。
「じっちゃん、行かないの?」
「……なぁ、ケン」
僕を見ないまま、じっちゃんが訊く。
「淋しくないか?」
「え?」
それ以上は何も言わなかったもんだから、じっちゃんが何を言いたいのか分からなかった。
僕は、子供だったから。
「じっちゃんがいてくれるのになんで?」
「……!」
じっちゃんは驚いた顔をして、だけどすぐに顔をくしゃくしゃにした。
「そうかそうか! いや、変なこと言ったな!」
おにぎり食おう、その後写真撮ろうって、また僕の手を引いてくれた。
適当な所に青と白の縦縞のシートを敷き、靴を脱いで座ると、じっちゃんはエコバックからおにぎりを出した。僕の顔くらい大きい、不格好なおにぎり。具は僕の好きな鯖。渡されてすぐにかぶり付く僕を、じっちゃんは笑いながら撮った。じっちゃんのおにぎりは最高だ。
いくらか僕を撮ると、じっちゃんはカメラから手を離し、おにぎりを食べ始める。おかわりもあるからと言われ、夕ご飯が食べられなくなる、なんて返事をした時、
「あっ」
じっちゃんの靴に、白くて小さな蝶が止まる。
ゆったりと羽を揺らす様は、くつろいでいるようで。
「くさいのに」
「臭くないわ、消臭剤掛けてるわ」
「くさいもん、ムダだもん」
「ケン……」
靴から払い除けようと手を伸ばして、だけど途中でやめる。
「ケン?」
「その前に」
食べかけのおにぎりをじっちゃんに渡して、スマホのカメラを起動させる。
「ほらっ、撮るよ!」
なんて声を掛けたら、蝶は飛び去った。
「あぁ……行ったな」
「大丈夫、撮れてるよ」
スマホの画面には、飛び立つ蝶が写っていた。
それを見せながら、じっちゃんに言った。
「今日はいっぱい撮ろうね、じっちゃん」
「そうだな!」
おにぎりを食べ終わったら、日が暮れるまで写真を撮ったり、駆けっこやかくれんぼ、だるまさんが転んだとかして遊んだりもして、楽しかった。
家に帰ると、お母さんもちょうど帰ってきた所で、じっちゃんと一緒に撮ったやつを見せた。
僕のスマホを見ると、お母さんは変な顔をしてた。じっちゃんも同じ顔をしてて、どうしたのって訊けば、お母さんはこう訊き返した。
「何でポンプばっかり撮ってるの?」
「え? だってポンプ、すごいじゃん!」
「……ずっと、こんな調子でな」
とある夏の日の、じっちゃんとの楽しい遠出。
あの日のじっちゃんの、何とも言えない微妙な顔が、僕は今でも、いくつになっても、忘れられそうになかった。
じっちゃんとの遠出 黒本聖南 @black_book
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