これが『一(にのまえ)』と言う人物 ③

 今朝の事件の後、宮内は教室に姿を表さなかった。俺は休み時間に覚束ない思いを腹に抱えながら宮内を探していた。しかし、心当たりのある場所を探しても宮内は見つからず、やがて放課後を迎える。彼女はと言うと、いつも通りに学業をこなし、当たり前の如く休憩時間も多数の人と交流を深めていた。


 探している時も考えていたことがある、それは進級当初から毎日関わりがあったのは宮内だけだったという事。逆を言えば宮内と関わっていた事で、周りから浮いたのだろう。しかし、少なからず宮内は俺に毎日話しかけてきて、下らない話題を振ってきた。久しぶりにハッキリと感じる独りの時間は、雑な宮内との会話を少しばかり連想させた。


 それを紛らわそうと思ったとしても、クラス替えからしばらく経った教室は、大きなグループや小さなグループが完成されつつある。そんな中で、今更何処かのグループに入る気にも、入るような勇気もない。それこそ、グループに所属せずに1人で過ごす方が余計な気を使わずに済むし、俺自身は楽だ。


 気が付けばもう殆どの人が消えた放課後。家に帰るべきだが、宮内につく嘘よりも、彼女についた嘘の重さが心を圧迫する。静かに教室を出て、もう秘密でも何でもないあの場所へ向かうため、教室の後ろ扉から鈍間な歩みを始めたその時であった。


「感想を教えて下さい」


 聞き覚えしかない声が鼓膜を振動させた。それもかなり近い場所で。しかし、これが俺に声掛けしているとは限らない。他の人と話をしているだけかもしれない。俺は止めた足を視界に映らない思い込みの勘違いを糧に再開させる。


「志磨君、無視は酷いですよ」


 彼女の上履きが見える。そして、そこの前を通り過ぎようとした時、名前を呼ばれた。これは、俺に話しかけていたんだと、それではっきりと認識する。


「え、ごめん」

「感想を聞かせて下さい」

「何の?」


 再び足を止めて彼女の方を見る。悟られない様に表情を整えて。そして、考えを巡らせる為に彼女にわざと惚けた返事をする。いちごミルクは本当のこと言えばとても苦手な物であった。甘いものを苦手とするのは珍しいのだろうか。一般的な感覚が欠落している俺は正直に感想を言うべきか悩む。


 誤魔化した方が良いのではないか。昨日に引き続き彼女に嘘をつくのに抵抗はあるが、今更何も変わりはしないだろう。ましてや、彼女の好きな物を否定するのも心が痛む。ならば昨日の嘘に倣って演技を続けるのが筋である。


「いちごミルクの感想です。聞きそびれたので」

「あー、あれね。美味しかったよ」


 側から見れば一般的な雑談。何も臆することはない。一言目の『あー』で、左斜め上に少しだけ顔を上げ思い出す様子。『あれね』で、若干眉間にしわを寄せて味を思い出す様子を出す。そして、思い出した味を違和感のない笑顔に表し、『美味しかったよ』と言う感想に重みをつける。


「ジー…」


 彼女は言葉で睨みを表していた。その薄ら目に含まれる意味は理解ができない。やがて耐えかねた俺は、此方から合う目を逸らした。


「も、もういい?って、なになになに!?」


 我慢の限界でその場から離れようとした時、襟を掴まれる。急に彼女の顔は目の前に現れ、そのあまりの驚きに体は動かなかった。


「まぁーた、嘘つきましたね」


 彼女はそう言った。俺は何も言えなかった。ただ、彼女が襟から手を離し、また彼女が口を開くその間、一つの言葉も声帯を震わせなかった。


「まぁ、いいですよ。あ、志磨君。この後、時間あります?」

「え、まぁ。うん」

「それじゃあ、ちょっと付き合って下さい」

「あ、え?」

「まあ、まあ、いいから。ついてきて下さい」

「う、ん。分かった」


 彼女は俺に考える暇をくれない。正解だと思う返事をリアルタイムで捻り出す事が苦手である俺はあまり上手く返事を返せなかった。それにしても、彼女は何を企んでいるんだろう。まあ、俺は黙って彼女の後をついて行くだけしかでにない。どうやら彼女は階段を登りに登り、屋上に向かっているようだった。


「え、屋上?」

「はい、行ったことあります?」

「い、いや。てか」

「生徒立ち入り禁止エリアですからね、志磨君は優等生なのでそんなことしないですよね」

「ま、まあ」


 本来屋上は閉ざされ、必要な時以外開かない。つまりは行く意味なんて無いのだ。勿論彼女もこの事を知らないはずは無い。ならば何故、そう思った矢先だ。彼女は鞄の中から時代錯誤な大きな鍵を出す。出された鍵で解かれた施錠。その音は踊り場を通り過ぎて響いた事だろう。複数の疑問が生まれるが、上手く言葉にできず、ただ、彼女について行った。


 大きく広がるコンクリート。そこへ嫌に差し込む日が眩しく感じた。彼女は反対側の扉と丁度中央に位置する場所まで歩き座る。俺は、ただついて行って座った彼女を追う様にして腰を下ろす。


「それで、本当は?」


 座った直後、彼女は何度目かの質問を投げてきた。本当は、その台詞に応じる事、それが俺にとって本当に難しい事柄だ。そんなことはきっと彼女は分かっているのだろう。


「…」


 黙秘、手段として最悪だ。返せない答えでは無い筈なのに、何故だろう。その様子を見た彼女は一体どう思うのだろう。昨日に引き続き、彼女は救いの手を差し伸べてくれるのだろうか。それとも呆れて、俺を見放すのだろうか。脳の中を、心の中を満ちてくる暗闇に俺は支配されそうになる。


 当の彼女の顔を一度だけ、一瞬だけ覗いた。彼女、彼女は、此方を見ている。目が合う。その表情を読み取れず俺は目を逸らす。


「ねぇ、志磨君。眼を見て話しましょうよ」

「あ、ごめん」

「別に気にしてませんよ。私はただ人と話す時、眼を見て話すので、志磨君とお話しする時も例外なくそのスタイルで行こうと思ってます」

「そうなの」

「はい、それで、志磨君は私の眼を見て話してくれますか?それとも眼を逸らし、私の表情を見て話しますか?」

「え」


 動揺が口に漏れた。表情を伺いそれに対して話をする事を推測では無く本当に分かっていた。嫌な汗が、全身に鳥肌が、脳内で思考が、出て、走って、巡った。定まらない照準は何処に合わせるべきか。驚きと同時にあげた顔は、俺の眼が捉えるべき場所を探す。そして、やがて落ち着いた、その場所は彼女の誘導、出してくれた答えの場所。彼女の眼であった。


「やっと眼が合いました」

「え、うん」

「志磨君。もう一度聴きますね?」

「う、うん」

「どうでした?味の方は」

「あまり、す」

「す?」

「す、好きじゃなかったで、す…」


 自然と出た言葉。自然と出た答え。本心から話せる答え。嫌と言うことを嫌と言えた。言えた。言えたが、その先を、聞きたくない。何があるか予想のできない、答えが出てくる。耳を塞ぐ、走り去る、声で掻き消す。どうすればいいのだろうか、分からない。いつぶりに素直な気持ちを吐いたのか。どう身構えて話したのか。悩み、その見つからない答えを探していると彼女は応えた。


「あははは!そっかぁ、好きじゃなかったんですね。私の人を見る眼も衰えましたかねぇ」


 彼女はただ、俺の答えを受け止めた。


「御免なさい、俺の口に合わないだけだから。本当は美味しいんだと思う」


 いつもより遅く、迅速に彼女の好きな物を自分の主観で否定してしまったことに対して訂正を入れる。


「いやいや、私は志磨君の答えを聞きたかったんですよー」

「そ、そうなの?」

「うん!と言うより、謝るのは私の方です」

「え?」

「昨日は本当に御免なさい。志磨君の事情も知らず、分かった様なふりをして、決め付けて。人には、人に話したくない事情があることは昔の経験で知ってた筈なんですけどね。言い訳になりますけど、気が付いたらあと追っかけてしまっていまして」


 彼女からされた謝罪。一つ一つの言葉を飲み込むたび、こみ上げてくる感情があった。それは、とても複雑で言葉に表すのには語彙や経験が足りない。だけど、それを体現する現象は、俺の意思を無視して反射的に起こる。顎から滴る塩水が、嗚咽の様な息遣いが、隠せない溢れ出る全ての感情が。情けないその顔。一度は逃げたはずの彼女の前で、再び見せた表情。


にのまえさ、ん。あ、あの、俺、昨日。ほんと、は」


 上手く喋れない。言葉はあるのに。本当の事を話せるタイミングなのに。まだ全部、昨日の謝罪をしなければならないのに。


「志磨君。いいんですよ。志磨君は、今から志磨君を取り戻すんです」


 それは二度目の手、救いの手。それは、また差し伸べられ、俺は黙って取るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

知る由もないその心に 一(にのまえ) @dezi_write

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ