ゴールテープは未だ見えず
「なにニヤニヤしてんの、深月」
「ちょっと、昔の事を思い出してて」
休日の昼下がり。私と鳴瀬は、ソファと三位一体で自堕落な時間を過ごしていた。だべーっとソファに身を預けていると、鳴瀬の匂いが鼻腔をくすぐる。
若草のような、どこか春を彷彿とさせる香りだ。
「そう。よっぽど素敵な思い出なんだ」
「そりゃあ、鳴瀬のプロポーズメモリーズだもん」
むーっと膨らむ鳴瀬の頬をこねくり回しつつ、おどけた調子でからかう。
「びみょーに語感ダサい……。そっか、あれからもう五年かぁ。私達も随分と歳をとったね。いや、まだまだ若いつもりだけどさ」
確かに、もう五年だ。それなりに濃密な日々を過ごしてきた自負はあるものの、全てが全て鮮明に思い出せるかと問われたら自信が無い。だけどそれは情が薄いとかじゃなくて、順調に歳を重ねているという事だ。
「あー……ちょっと紅茶でも淹れてくるね。鳴瀬も飲む?」
隣で、これまたぐでーっとしてる鳴瀬に紅茶の必無を問う……も、鳴瀬は私に向けて両腕を上げ、こちらを直視してくる。母親に抱っこをねだう子供みたいだ。
「なに、それ」
「深月ってさー。私に甘えたい時、紅茶を淹れて寒い寒い言いながらくっついてくるから。今回もそうなのかなと」
「うっ」
私の浅はかな策略などとっくに看過されていて、羞恥で悶えそうになる。どうも素直になれないというか、意固地なのが私の悪いところだ。
「鳴瀬ちゃんってば賢いっ!ご褒美に、お膝に座ってたもうー」
言葉遣いとか、ちょっと変かなと思いつつ、藪から棒にと鳴瀬の膝に座ってみる。……座ってみた。はて、どうしたものか。
「……そりゃ」
不意に、鳴瀬が抱きついてきた。
背中越しに感じる鳴瀬は温かく、当然といえば当然なのだけれど、ソファの匂いに酷似していた。すんすんと鼻を鳴らして意識し嗅ぐと、私の匂いも混ざっていることに気づく。
「鳴瀬の匂いは落ち着くねー。私の匂いも混ざってるから、尚更」
「……恥ずかしいんだけど」
「いやいや、それ私の台詞。いきなり抱きつかれてさ」
そう笑いかけるも、腰の締め付けは一層強くなる。最近、少し腰周りが太くなった事がバレないか、冷や汗が出てきた。このまま減量できるかも。
「鳴瀬。いま顔、真っ赤でしょ?」
私の経験則では、こういう状況の鳴瀬はだいたい顔が真っ赤だ。腰をがっつりホールドされてるから、位置的に鳴瀬の赤面を拝められないのが些か悲しい。
「ほんとだ。珍しい」
「いやいや、鳴瀬は結構赤くなるよ」
「私じゃなくて、深月が」
「えっ」
私の顔が、真っ赤?そう言われると、顔が熱い気がするし、普段通りな気もする。まぁ後ろから抱きつかれてるし、きっとそのせいだ。
「鳴瀬の熱が伝わってるんだよ。ほら私、熱伝導性高いし」
咄嗟に出たホラも、鳴瀬は「そうなんだ」と首肯する。律儀というかアホというか。多分、それだけ私のことを信用しているんだろう。……照れるし火照る。
「むぁー眠いっ。鳴瀬を敷布団にして寝てやるー」
以前オリンピックで見たプロレスの技を真似て、鳴瀬をソファに押し倒す。「ひゃっ」っと声を出して狼狽する鳴瀬に顔を見られないよう、お腹に顔をうずくめた。
私が先に寝たのだから、私が先に目覚めるのが道理だろうか。
いや、どちらが先に意識を失ったのかも不明瞭だし、もしかすると鳴瀬だって、もう起きてるのかもしれない。私という掛け布団に味をしめて、瞼を閉じているのかも。
私が鳴瀬の掛け布団で、鳴瀬が私の敷布団。……字面を見ると、一層、滑稽さが増長される。私達は一体、何を温めているのだろう?
「……愛、かな。うん」
声を出すことで、寝起き特有の霞んだ思考が霧散する。靄が日光を浴び、晴れていく様だ。
意識が順調に覚醒する中、ふと、いまは何時か気になって周囲を見回す……が、肝心のスマホがない。どこやったっけっとぼやきながらも、テレビを点ければいいやと思い立つ。
リモコンを操作し電源を入れると、液晶に映ったのは真っ白なゴールテープと、それに向かって走る一人の男性。どうやら、陸上の大会を放送しているらしい。それも、もう終盤だ。
走ってる男性は、たくさんの歓声にもみくちゃにされて息も絶え絶えな中、尚も進むのを止めない。
どこか昔の自分を見ているようで、気づけば画面を食い入るように見つめていた。自分が呆けた状態だと自覚しながらも、頑張れ、頑張れと、 後続を引き離す男性を、一心不乱に応援する。
そして、さして間を置かず、男性はゴールテープを切る。
今度は、家族や友人やらにもみくちゃにされる番だった。喜びと興奮からか、誰しも顔は朱を帯びていた。
「応援して、支えてくれる人達の想いも背負って走ってるんだな……」
これは、陸上競技以外にも当て嵌ることだと思う。スポーツ然り、人生然り。
気になって、隣を見遣る……も、鳴瀬は心地良さげに寝息を立てていた。呼吸の際、胸が軽く上下する様は見ていて安らぐ。
鳴瀬の頬に手を当て、反応がないことをしっかり確認してから、
「……あり、がとー」
そう言って、鳴瀬の額に唇をくっつける。肉付きが悪い鳴瀬のおでこは、やや骨ばっていた。
凡そ五秒くらいその状態でいたら、どうやら起きたらしい鳴瀬が「あひゃっ」と悲鳴のようなものを発する。
「な、ななな何?」
確かに私は、鳴瀬を起こさないようにという配慮が欠けていたけれど、そんなに狼狽えられると流石に傷つく。
「恋人の額にキスするのは、いけない事かな」
「寝込みを襲うのは駄目。卑怯だよ」
「そっか。ならいま言おう」
姿勢を正し、鳴瀬と正対するも、視線がかち合うとどうにも直視出来ない。
いまから相応に恥ずかしい事を言うのだと、改めて再認識し、照れ隠しで鳴瀬を抱き締める。
またもや狼狽えていた鳴瀬だったが、私の醸し出す空気に当てられてか、何も言わず抱き返してくれた。
「鳴瀬のお陰で見える景色が変わって、本当に感謝してる」
自分でも、声が震えているのがわかった。肩とかも、小刻みに震えている。
鳴瀬は、そんな私の背中を撫でて、続きを促してくれた。
「私は鳴瀬に、何か返せたかな……。追いつけて、いるのかな」
一呼吸おいて。
「大丈夫、追いつけてるよ。だっていつも、隣にいるでしょ」
私は鳴瀬の言葉を、ゆっくりゆっくり吟味し、嚥下する。
鳴瀬の匂い、鳴瀬の温度。それだけで、今年の冬は越せそうだった。
並走 萩村めくり @hemihemi09
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