第25話 彼女は天使
教室の中に人はいない。放課後だった。陸は教室の中でぼんやりと外を眺めている。
例の屋上での一件から数日が経つ。ようやく気持ちの整理が付き始めた頃だった。
「な~に黄昏てるのにゃ~」
「千秋」
いつの間にかすぐそばに千秋が来ていた。無遠慮で、からかうような声の調子はいつもと全く変わりない。周囲が大きく変わってしまった中、そのことは陸にとって正直ありがたいことだった。
だが、言葉にするのは恥ずかしいのでぶっきらぼうに返す。
「いや、別に」
「にゅふふふ~お熱いですにゃ~」
陸が何のために教室に残っているのかなどお見通しな様子で、見透かされたことに若干の苛立ちを交えて返す。
「うるせ。ところで冬彦は?」
話題を変えようと友人の事を訊ねると「ん」と窓の外を指さされる。
窓の外にはグラウンドが広がっているのだが、その端の方を女子柔道部のメンバーがランニングから帰ってきて休んでいる。そこから少し離れた場所に冬彦が、そして柔道部の栄子が一緒にいるのだった。
◇
水道の蛇口からあふれ出る水に口をつける栄子に冬彦が口を開く。
「なまってんじゃねーの?」
「っさいな、別にあんたには関係ないでしょ」
冬彦の呆れたような声に、口の端から水道水をこぼしながら栄子がいらだちを一切隠さない棘のある言葉で応酬した。ここ最近、栄子は誰に対してもそうだった。自分でも抑えきれない感情が漏れている。事情を察した友人たちは一定の距離を保つようになったが、目の前の幼馴染だけは全く変わらなかった。
「関係あるっつの。もう次の試合まであんまり時間ねえんだろうが。お前が調子いい方が応援のし甲斐があるってもんだろ?」
「……何? 応援に来てくれるの?」
ぴくり、と栄子の形の良い眉が上がる。
目の前の幼馴染は子どもの頃一緒に柔道をしていた。だからその頃はよくあったことだが、中学高校と進学して柔道から遠ざかった幼馴染と試合の場で会うことはなかった。
「別に、いいだろ。昔はよく一緒に行ってたんだから」
「それは、あんたも柔道やってたから……」
「……お前がそんなんだと調子狂うんだよ。黒井の奴だって同じこと言うだろうよ」
「っ!?」
目の前の幼馴染は昔からそうだった。
頭が悪そうに見えて、栄子にとって一番必要なことをはっきりと言う。
「あいつだって、帰ってきたときお前がそんなに落ち込んでたら困るだろうが。一発バシッと大会で優勝してこいよ」
「……簡単に言うわねぇ」
いきなりとんでもないことを言う冬彦にはあきれるが、おかげで自分の口元が笑みの形を久しぶりに作っていることに気が付く。
「……んじゃ、あんたちょっと付き合いなさいよ。ちょうどサンドバックが必要だったのよ。最近誰も真面目に相手してくれなかったから」
「はぁ!? 何で俺がそんなこと――っておい! ひっぱるな!」
「ほら、さっさとついて来る!」
有無を言わせず冬彦を引っ張る栄子の顔にはさっきまでとは打って変わった晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
◇
「あらら~あちらもあっちっちだね~」
「ほっといてやれよ」
そう声を掛ければ千秋もわかってるよと手だけを振り返してくる。
ここしばらく栄子は椎の件で落ち込みがちなところがあった。友人があんな風になってしまうまで悩んでいたことに気が付けなかったこと。もう一人の友人である空に危害が及ぶ前に止められなかったこと。そして、椎の気持ちに気が付かずに空と相本の関係を煽って傷つけてしまったこと。
3人ともに対して栄子は責任を感じている様子だったのだ。
「でも、もう大丈夫そうだね~」
「冬彦がいるなら大丈夫だろ」
「おぉ、すごい信頼」
「そりゃ、友達だからな」
冬彦は馬鹿なところもあるが「ああいうところ」では間違わないタイプだと陸は思っていた。むしろ陸の方がずっと本心を隠すと言う点では遠回りして来たと思う。
「んで、相本は今日もか?」
「今日もだね~」
「……退院、いつだって?」
「ん~一週間後くらいっていってたかにゃ~」
「……そっか」
あの一件の後、椎はすぐに病院へと搬送された。
椎は陸達が落ちた後、自力で屋上に戻ったのだがあばらが折れていたらしい。屋上のフェンスごと吹き飛ばされたのだから、普通に考えればそのぐらいの怪我はあってもおかしくはないだろう。むしろその状態で屋上懸垂していたことに陸は驚いた。
結局陸と空は傷一つなかったので、屋上から落ちたにもかかわらず病院にはいっていない。一応羽がなくなったことで、後日空は精密検査を受けたのだがそれはまた別の話だ。
椎はあの後すぐ、屋上に突入して来た教師たちに助けられた。椎が木刀を持って陸達を追い回していたことは少ないながらも他の生徒たちに見られており、隠しきることは不可能だった。屋上のフェンスも派手に壊れており、何かあったことははっきりわかる。
椎は怪我と心の療養のために入院することになった。学校も退学にはならずに済んだが数日間の停学は免れなかった。
病院で会った椎はひどく憔悴していたが、陸に会うときちんと謝罪して来た。
大きな怪我もなかったから、陸としては別にそれで良かったのだが椎はずっと自分を責め続けているようだった。
抑えきれない感情があったとはいえ、やってしまったことは事実である以上それは避けられないことだった。
でも立ち直って欲しいとは思っている。いつかまた、空とも友達の関係にもどれればいい。そのためには時間が必要だった。
「まぁ相本が椎を思った以上に気にかけているのが俺としては謎なんだが」
「それは空ちゃんが相本君に頼んだからだよ。黒井さんも知ってるけどね」
「ああそういう」
「でも、そのまま通い続けてるのは相本君の意志だよ~。落ち込んでる黒井さんを元気づけてあげられるのが嬉しいみたいで、特別今のところ恋愛感情はなさそうだけど~その辺はこれからの黒井さん次第だよね~?」
「……ま、そうだな」
いつも通りににまにまと笑う千秋の顔だったが、その顔はなぜか普段よりもさわやかなものに感じた。
「……」
「ど、どうしてそんな顔するかな~?」
「いや、お前のさわやかな笑顔とか、裏があるように見える普段よりもよっぽど不気味だと思ってさ……」
「どーいう意味かにゃ~?」
こめかみのあたりをぴきぴきさせながら千秋が寄って来るが、それより先に教室のドアを開けて入って来る人の気配がした。
「あ、りっくん! 千秋ちゃんもここにいたんだ!」
声に振り向けばそこにいたのは幼馴染。
だがもうその背中に白い羽はない。
「空、もう終わったのか?」
「うん、ごめんね待たせちゃって」
「いいよ。どっちかっていうと助手みたいに扱ってくる先生が悪い」
「空ちゃんはまた先生のお手伝いだったのかにゃ~?」
「そうそう」
言いながら笑う空。
最近ではこうやって三人で話す機会も増えた。ずっと以前、幼馴染三人で遊んでいた頃はごく普通の事ではあったが、またこうして気軽に話せるのは純粋に嬉しい。
「んじゃ、そろそろ帰るか」
「うん。千秋ちゃんも一緒に帰ろ」
「あ~ごめんね。私はちょっと寄るところあるから今日はパス~」
「そっか、残念」
にゅふふ~、と手を振りながら先に教室を出て行く千秋を見送って、机から鞄を取り上げた陸も空と一緒に教室を出た。
時折すれ違う知り合いに手を振る空。相変わらず空の交友関係は広い。
その隣を歩く陸にも視線は向けられるが、以前の物とは少しだけ質が違う。
屋上での件は表向き伏せられているし、陸達も話さないようにしているが落ちたところを目撃した生徒は何人もいたのだ。そこから今では陸が落ちるのを空が助けようとした・空が落ちるのを陸が助けようとした、というほぼほぼ事実の噂が流れているのだ。同時期に、二人が付き合っていると言う話も広がって結果陸は空の隣を歩いていても「ふーん、あいつか」くらいの視線を浴びる程度になったのだった。
今もまた、空が隣をぴったりとくっついて歩いているのがその証明だ。
「暑っつ……」
校舎を出ると、もうすでに夕方だと言うのに日差しがひどく暑かった。
「もう夏だね」
そう言う空の額にも既に汗が浮かんでおり、ハンカチを取り出して拭っている。
日中ほど日差しがきついわけではないが、未だにこの気温となると今年の夏はかなり暑くなるかもしれなかった。
「まだ先だけど、空は今年の夏はどこか行くのか?」
「うーん、実はお父さんとお母さん二人ともちょっと長めにお休みが取れそうなんだって」
「は!?」
あの二人が休みを取る、ということに陸は目を剥く。
これまでほとんど家に帰って来る余裕すらなかった二人が休む、と言うことに陸は驚かずにはいられない。
漏れ出た声が大きすぎて、周囲の生徒たちから不審な眼を向けられるほどだった。
「な、何でまた」
「もう、りっくんのせい……ううん、おかげなんだよ?」
「え、俺?」
空が嬉しそうな笑顔と共に言ってくるが、陸自身は何か関係のあることをした覚えはない。
「お母さんと……喧嘩してたわけじゃないけどずっと話せもしなかったのが普通に話せるようになったのはりっくんのおかげだよ。で、お父さんもお母さんばっかりずるいって言ってて、それで今年の夏休みは家族でどこかへ行こうって」
「あー、なるほどね」
これまで家に頻繁に帰って来るのはみちるの方だけだった。それが父親的に我慢できなくなったと言うことなのだろう。
「あと、そのね……」
ちらっちらっ、と空が顔を少し染めながら視線を向けて歯切れ悪そうにする。
「どした?」
「お父さんが久しぶりにりっくんとも会いたいって。『娘を任せられる男になってるか確認する!』って言ってたよ」
「お、おう……」
空と正式にお付き合いする、ということは二人はもちろん知っている。空が言っていいか聞いて来たから任せたのは陸だからだ。
だが、実は空の父親とは子どものころ以降ほとんど顔を会わせていないため、いざその時のことを思うと少し気おくれしてしまうのも事実だった。
「おじさんかぁ、会うの久しぶりだな……」
正直顔どころか名前もよく思い出せない。
「で、ね? 旅行りっくんも行かないかって、昔みたいにね」
「そうだな、予定が決まったら教えてくれるか」
その言葉に空が嬉しそうに頷く。
出かける、となると色々お金も必要になりそうだ。バイトでもしようかと悩む陸だった。
◇
「それじゃ、私は家に荷物置いてから行くね」
空とは家のドアの前で一度別れた。
家の中に消えていく空に手を振りながら、陸も自分の家に入る。
「おかえりー、おにいちゃん。あれ? そらねえは?」
ドアを開けて真正面、妹の美里がアイスをくわえながら訊ねて来た。どうやら先に帰ってきていたらしい。
「一度家に寄ってからくるってさ。なんで空がいるってわかったんだよ」
「そりゃ、ドア越しにいちゃいちゃしてる声が聞こえてたもん」
「いちゃいちゃなんてしてないっつの」
家の前では少し話し込んだだけだ。
「どうせ話すなら家に入ってからにすればいいのに……」
口を尖らせてじと目を向けて来る妹から逃れるようにして自室へ向かう。
「あら、おかえりなさい。もう帰って来たのね」
「ただいま、母さん」
部屋に入る前、母親の水面とすれ違う。
今日は早く帰って来る日だったようだ。
「空ちゃんは?」
「いったん家」
「あらそう……あ、そうだ陸くんに渡しておくものがあったのよー」
「何だ――っておい!」
ごそごそとポケットから取り出した小さな箱を思わず確認もせずに受け取って、けれど陸は一瞬の躊躇もなく床に叩きつけた。
フローリングの床に転がったその小さな箱のパッケージには0.0何とかいう数字が書かれていて……いわゆる大人がアレするときに使うあれだった。
「息子になんてもの渡してるんだよ!?」
「あら? いらなかった? でもお母さん陸くんが子どもを持つには早すぎると思うわぁ」
「そう言うことじゃねえ!」
うふふ、とほんわか笑う母親に陸は頭を抱える。
空と付き合いだしてから、この母親の天然っぷりにより拍車がかかったような気がする。
だが千秋などとは違って、裏にからかう意図があったりなどするわけでもなく、単純に必要だと思って持ってきた様子なのが本当に始末に困る。
「もうちょっとで晩ご飯だから、空ちゃんが来たら呼んできてね」
「……わかったよ」
キッチンへと消える母親を見送ってから陸も自室へ入った。
一応床に叩きつけられた箱は拾っておいた。
◇
部屋着に着替え終わったところでベランダの窓が開いた。
ひょっこりと部屋着に着替えた空が窓から入って来る。ちなみにみちるが帰ってきたときは、こっちで晩ご飯を食べてみちるも泊まっていくことが多い。空は家に戻らないので一人でいても寂しいだけらしい。
「母さんが今日はもうすぐご飯だって」
「分かった。それにしてもやっぱり熱いね。私の部屋もサウナ状態だったよ」
「窓は開けといていいぞ」
ベランダを振り返ると、ラフな部屋着を着た空の姿が目に入る。
窓を閉めるキャミソールから覗くその背中にはもうあの羽はない。
もし寒くなるまで羽が生えたままだったら部屋着をどうしようかなどと言っていた頃がなんだか懐かしい。
陸はそっと空に近寄ると、背中の羽が生えていたあたりを触る。
「ひゃっ!? な、何?」
「ゴメン、何となく、もう羽ないんだと思ってさ……」
「ああ、うん……」
羽がなくなった後、受けた精密検査では全くの異常なし。健康です、と太鼓判を押されて帰って来た。だが、未だに何で羽が生えたのかはわからない。
「結局何だったんだろうな、あの羽……」
「うーん、でもあれがあったから屋上でも無事で済んだし、羽がきっかけでりっくんともまたこうして一緒に居られるから、私は感謝してるよ?」
「そうか……うん、そうだな」
空の言葉を咀嚼して、陸も頷きを返す。
確かにあの羽がなければ今もまだ、二人の間にこの関係は戻ってきていないかもしれない。
「考えようによってはあの羽がキューピッド的な何かだったのかも?」
「何だよそれ」
「少なくとも私はあれは何か悪いものだったとは思っていないよ」
「それは……俺も同じだけどさ」
そう言いながら空の滑らかな背中を撫でる。
どこかにその痕跡が残っていないか、新しく羽が生える兆候が出てきていないかを調べようと思って。
「ちょっと、くすぐったいってば。そんなに心配?」
「……俺は、ただ心配なだけだよ。あの羽、どこかに空を連れて行っちゃいそうだったからさ」
それは空の背に羽が生えてから時折考えていたことだ。
あの羽は空を害するような雰囲気はないくせに、陸の元から空をどこかへ連れ去って行ってしまいそうな不安があって仕方なかった。
「……大丈夫、だよ。もうずっと私はりっくんの傍にいるもん」
「あ、おい」
くるっと体を回すと空が陸の胸にぎゅっとしがみつく。
不意の体重移動に陸は思わずたたらを踏んで、倒れそうだと思って無理にベッドへ倒れ込むように体をずらす。
どすん、とスプリングをきしませながら二人でベッドへ倒れ込んだ。
腕の中にはしっかりと空の重みがある。
重ねられた体がもう夏と言うこともあって熱すぎるほどだった。
だが、今だけは放したくない。
そんな衝動に駆られて陸は空の背中に手を回して。
「……おい、何見てるんだよ」
「あ、ばれたよお母さん」
「そうね、もう一息だったのに」
扉の隙間からこちらを覗き見る二対の目が楽し気につり下がって、扉が開く。
もちろんそこにいるのは妹と母親だった。
「あ、ただいま水面さん美里ちゃん」
「お帰り、もうご飯できてるからね」
そう言ってニコニコしながら水面は部屋を出て行く。逆に美里は空に駆け寄ってきて、立ち上がった空の腕の中に飛び込んだ。
若干うらやましそうな視線になったのに気が付かれたのか、美里が得意げな顔をしてくるのがイラつく。
「もう、本当にそらねえはお兄ちゃんにはもったいないなぁ。そらねえ、私と結婚しない?」
「うーん、ごめんね美里ちゃん。私はりっくんが好きだから」
「ちぇー、残念」
「おい、彼氏の前で寝とろうとするな妹」
「んもー、絶対誰かに取られちゃだめだよ? そらねえ美人さんなんだからね?」
「分かってるよ」
そう言いながら陸もベッドから立ち上がると、空の頭を撫でて言う。
「うちの空は天使だからな」
うちのクラスの天野は天使 橘トヲル @toworu
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