第24話 灼け落ちる羽
転びそうになる空の手を引きながら走る。
下校時刻も間近なこの時間、校舎の中に人通りは少ない。廊下を走る足音だけが無駄に響いていた。
「なんでっ……どうして……」
息を切らせながら空が同じ言葉ばかりを繰り返している。
目尻に浮かぶ涙は悔恨か。空にとって友人は多いが、その中でも栄子と椎の二人とは特に仲が良かった。だと言うのに彼女の異変に全く気が付けなかったことが空の胸を締め付けていた。
そんな様子を見て、陸がぽつりと言葉をこぼす。
「……この前の勉強会」
「え?」
階段前まで走ってきたところで、息を整えながら話す。突然の事態に心臓が大きく鼓動して少し休まないと走れそうになかったのだ。もちろん視線は廊下の先から椎がやってこないか見張っている。
「あの時の黒井は普段と少し雰囲気が違った気がした。代田も、そうだったけど……」
隣に座っている相本に声を掛けられて、すごくうれしそうに勉強をしていた、いや勉強よりも相本と話が出来るのが嬉しそうだったと今なら思う。
「あいつ、相本のこと好きだったんじゃないか?」
「それは……」
空に尋ねると、思い当たる節があるのか視線を伏せる。
「相手を思いやるあまりに、ってことか……」
「それの何が悪いの、かな?」
思考に没頭したのは一瞬だった、だがはっと背後を振り向けばすぐ目の前には木刀を振り上げた姿の椎がいる。
「っ!?」
「椎!?」
「死ねぇっ!」
振り下ろされた木刀が、階段の手すりに当たって大きな音を立てる。低い音を立てながら手すりは振動していた。
もう少し早く避けなければ、木刀の切先は陸に当たっていた。
椎は本気だ。
陸の背中を冷たい汗が流れ落ちる。
「逃げろ、上だ!」
そう言いながら空を階段の上へと押し上げる。
後ろ髪を引かれるような様子の空だが、今は碌に話が通じるとは思えない。こらえてもらうしかなかった。
「逃がさない、よ……」
階段の下から聞こえた声はぞっとするほど冷たかった。
「りっくん! どうするの!?」
「ひとまず屋上だ」
あの状態では他の生徒を巻き込みかねない。正気をなくしているようにしか見えないが、それでもクラスメイトだ。出来るなら誰も傷つけて欲しくない。
「……ありがとう」
感謝を口にする空に頷きだけを返しながら、陸はひたすらに足を動かし続けた。
この校舎は4階建てで、屋上は常に解放されている。
屋上へ続く扉から転がり出るかのように二人が飛び出す。
パッと見渡した限りでは、高いフェンスに囲まれた屋上内に人影はなかった。傾きかけたオレンジの太陽が照らしているのみである。
「見つけた、よ」
今しがた出て来たばかりの扉から椎が姿を現す。
だらりと力を抜いた右腕には未だ木刀が握られており、先端が地面に擦ってからからと音を立てていた。
「なんで……なんでこんなことっ……!」
「そんなことも、わからないの? あなたが相本君を裏切ったから、でしょう」
「そんなことしてないよ!」
「じゃあどうして彼の想いを受け取らなかったのッッ!!」
屋上に、椎の悲痛にも聞こえる叫びがこだまする。
「黒井、お前……」
「相本君は、本気であなたの事が好き、だったんだ、よ。私はそれが、よくわかってた。なのに、そらっちは彼の、何が気に入らなかったの!」
今まで聞いたことのない椎の本気の叫びに陸は息を呑んだ。
ここまでまっすぐな、本気の言葉を言える。そこまでの相本への想い故かと思うと何も口に出すことが出来なくて。
だが隣に立つ、その想いを真正面から受け止めたであろう空はそのままではいなかった。
「……それは私が、りっくんの事が好きだからだよ」
「空……」
「相本君の気持ちは、ちゃんと聞いたよ。でも、私は……私が好きなのはりっくんなの!」
まっすぐで飾らない空の想い。
だがはっきりとした決定的な理由は誰にも覆されることはないだろうと思われた。
「そらっち、だめだ、よ」
「椎……」
「それじゃ相本君が幸せに、なれないよ」
見開かれた目に、一切の理性を感じない。
ゆるゆると持ち上げられた木刀が、両手で上段に構えられた。
「そいつを殺せば、元に、戻る、かな?」
「ダメっ椎!」
空が叫ぶが椎の目に変化はない。支離滅裂な言動と相まって狂気を感じる。
「逃げろ空、こいつは本気だ!」
空に椎が向かうのは避けたい一心で、空を後ろに押しやった陸が視線を戻すと、そこには一瞬で間合いを詰めた椎の姿があった。
椎の身長は陸よりも小さい。にもかかわらず木刀を上段に振りかざして迫るその姿はとてつもなく大きなものに見えて、陸の足は固まってしまった。
まず、やば!
避けられない、と言う確信に諦めが続く。
だが、
「だめっっっ!」
背後で大きな声が上がると同時に目の前が真っ白なベールで覆い隠された。その向こう側で、振り下ろした木刀が弾かれて、椎が困惑している雰囲気も伝わって来る。
何だこれは、と疑問に駆られて目の前にある物を凝視してようやく理解した。
「そ、空?」
それは空の背中に生えていた羽だった。
これまで羽は空の背中で多少動くことはあっても、激しく動かすこともこんなに大きく形状を膨らませることもできないはずだった。明らかに今陸をかばっている羽のサイズは普段の倍以上の大きさになっている。
後ろを振り返ればぺたんと床に座り込んだ空が、信じられないと言った面持ちで固まっている。
空の意志でこうなったわけではないのか。
その確信と同時に、羽を挟んだ向こう側から低い声が聞こえる。
「面倒、だ、ね」
「もうあきらめろ黒井! こんなことして何になるってんだよ!」
空の気持ちも、相本の気持ちだってこんなことしたって何も変わりはしない。もちろん椎が抱えている気持ちだってそうだ。
「うるさいうるさい! もう、どうだっていい、から、死ネッ!」
羽の下から滑り込むようして椎が入って来る。
その気配を察して陸は後ろに飛びのいた。一瞬前までいた場所を木刀が薙いで行く。立ち上がりざまに椎が木刀を斬りあげたのだ。
「このっ、ちょこまかとっ!」
「もうやめてっ!」
再び木刀を振りかぶろうとした椎に空の叫びが重なる。
それと同時に、椎の体が真横から白い羽によって突き飛ばされた。
さっきまでよりもさらに巨大になった羽だ。羽は椎ごとまっすぐに伸びていき、フェンスにぶち当たる。
「――やばい!」
そう思って陸が駆け出すのと、ぶつかったフェンスが椎もろともに吹き飛んでいくのが同時だった。
「椎っ!」
後ろで空が悲鳴を上げるのが聞こえる。
やはり意識して羽を操作しているわけではなかったようだ。ほとんど暴走に近いのかもしれない。だが今はそれどころじゃなかった。
「こんのっ!」
宙へと躍り出た椎の腕をギリギリでつかめたのはほとんど奇跡のようなものだった。
屋上の端から半分以上体を乗り出す形で掴んだ椎の体は完全に力が抜けきっている。どうやら羽に殴られた衝撃で意識を失ったようだ。
さっきまでならその方がおとなしくしてくれていて助かったが、今はそうじゃない。
「おい、黒井! 起きろ! 起きてどこかに掴まれ!」
腕にぐっとかかる体重に顔を歪ませながら、ぶら下がった状態の椎に必死で叫ぶ。
だが掴んだ手首からは何の反応もない。
「黒井! 起きてくれ!」
手首が汗で滑る。
不自然な体勢で掴んでいるせいで踏ん張りが効かない。
陸の体は徐々に椎に引っ張られていた。
「くっそ……!」
「もう、はなして」
「っ!? 黒井!?」
もうダメか、そう思ったところで下から椎の声が聞こえる。
見れば先ほどまでよりも幾分か理性を取り戻した表情の椎がいた。いや、理性を取り戻したと言うよりは表情にも目にも力がなさ過ぎた。一周回ってダウンモードにでも入ったのか。
だが陸にとってはどちらでも構わない。
「黒井、起きたなら助かる! 今すぐ何でもいいから何かに掴まれ!」
「ごめん、なさい。私……」
力のない謝罪。空の羽にぶん殴られたことが原因か。そのことに陸は少しばかり安堵するものの、今必要なのはそんなことじゃなかった。
「今はいいから何かに掴まってくれ!」
再度叫ぶものの、椎の顔には先ほどまでの怒りとは一転して怖れが浮かんでいる。何に対しての物かはわからない。だが目を潤ませて歯をカチカチと鳴らしている姿からは、相変わらず目の前の女の子が正気と言える状態ではないことを示していた。
「う、うん、もう、いいの。だから、手を放して」
「できるわけねえだろ!」
「おね、がいだから、死なせて!」
気絶しながらも手を放さなかったのだろう、右手がゆっくりと振り上げられ椎の手首を握る腕に振り下ろす。
「!?」
腕に走る痛みと衝撃に顔をしかめる。片手で、しかも宙ぶらりん状態だったこともあって威力はさほどだったがそれでも手を放さなかったのは奇跡に等しい。
「どうして……?」
信じられない、と言った顔の椎。
「お前が落ちたら、突き飛ばした空が気にするだろうが……っ」
「……」
羽が勝手に暴走したのだろうとは思われるが、空なら自分のせいだと思いかねない。
それはきっと今までずっと空の友人として付き合って来た椎だって分かるはずだ。
そう期待して叫べば、その顔に理解の色が広がっていく。
「そう、だね……」
右手に握ったままだった木刀が滑り落ちる。
遠く、地面に落ちて大きな音を立てた。
「いいか? 一気に上にあげるからな。なんでもいいから何かに掴まれよ?」
「うん、分かった、よ」
木刀を放した右手も陸の腕を掴んでもらう。少し落ち着いて来たのか、椎は素直に陸の言う通りにしてくれている。
今のうちに安全なところに、そう思って疲れた体に鞭打つ。
「行くぞ、せーの!」
腕に力を籠めて一気に引き上げる。
腕から腰と背中の筋肉が引きちぎれそうなぐらい力を籠めると、椎の体を一気に引く。
「ぐううぅぅ!?」
どうにか出せるだけの力を振り絞って引き上げた椎が、屋上の縁に何とか手を掛ける。それと同時に腕にかかっていた力が急に減った。
「もう、大丈夫、だよ。足、壁のとっかかりに乗った、から」
「そうか……良かった……」
屋上の縁に掴まった椎が、申し訳なさそうな顔をしてくるのを見て、陸はようやくもう大丈夫だと体の力を抜いた。
だが、それがよくなかったのだろう。
風だった。
背後から吹き付けるような突風。
椎を引き上げた安堵感。
力を使い果たした疲労。
未だ屋上から頭を突き出した体勢。
すべてが重なった結果は、陸がバランスを崩して頭から中空へと躍り出ると言う形で収束した。
「あっ……」
間の抜けた声を漏らしたのは椎の方だった。
陸の口から何も出なかったのは、単純に自分の体勢がどうなっているのか理解できなかったからでしかない。
だがぽかんと開いた椎の口と顔を見て、その姿が自分の頭よりも高い位置になっていくのをスローモーションで認識するにつれて、ようやく陸は自分が落ちている最中だと自覚した。
「うおおああああああああ!」
「大地君!!」
椎が手を伸ばしてくれるも空を切る。
間に合わない。
一瞬で現実に引き戻された陸の認識はそう理解してなお、手を伸ばした。
あっという間に椎の姿が離れるのを見てそれが無意味に終わったと思い目を固く閉じる。
「りっくん!!!」
だがその手が暖かな感触に包まれる。
何事かと思って目を開けば、視界一杯に空の顔が迫っていた。
「そ、空!?」
どうして、とか何で来た、という言葉は出なかった。
それよりも慌ててかきよせるように空を抱きしめる。
せめて少しでも空に伝わる衝撃を殺して庇いたい。
地面まであと何秒だ。
一瞬、考えるでもなく頭の中に浮かんだのはそんなことだった。
だが背中に衝撃が届くよりも先に、視界が白一色で染まる。
「!?」
屋上で見たのと同じ光景。
抱きしめた空の背中の羽が大きく広がって、羽ばたく。
体を包む落下感が急速に消失する。
代わりに体を柔らかな浮遊感が包み込む。
そして想像していたものとは全然違う軽い衝撃が背中に当たって、陸は自分が地面に着地したことを認識した。
「は、はは……」
今自分の身に起こったことを思い起こしたら自然と乾いた笑いが口から洩れた。
腕の中の空は力が入っておらず、意識がなさそうだった。
「お、おい空。大丈夫か?」
そう声を掛けながら軽く揺さぶったところで、陸はあることに気が付いた。
「う、うぅん……りっくん? りっくん! 大丈夫!? 怪我してない?」
「あ、ああ。俺は大丈夫だけど、お前それ……」
「え?」
陸が指さした先、ついさっきまで背中にあった大きな純白の翼。
空が首をひねって見た先に、その翼はなくなっていたのだった。
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