第5.5話 お義兄様

 もしもあの時、あのような反応を示さなければ。自室のベッドの上に座り込み、そんなことを思ってしまう自分が、確かに存在していて。そんな自分が、とてもはしたなく思えた。

 ひと月ぶりに訪れた、ラティティリス王国にある自分の家、レンナイト公爵邸。共に夕食を取っていたザイルの様子がおかしいのは、その仕種からすぐに理解できた。軽く額に手を当て、僅かに目許を歪めては、すぐに笑みを浮かべて、平時と変わらぬ口調で話す。その割に、口に運ぶ料理の量はいつもよりもずっと少なく、周囲の目を盗むようにして、酒の代わりに水ばかりを口にしていて。

 酒が苦手というのは聞いたことがなかったけれど、もしかしたら旅の疲れが出たのかもしれないからと、会話が途切れたのを見計らって口を挟んだ。瞬間、ザイルがほんの少しだけ肩の力を抜いたのが見えて、ラテルティアもまたほっと息を吐いたのだった。部屋に案内した途端、崩れ落ちたのにはさすがに驚かされたが。


 それに、まさかあんなことをなさるなんて……。


 甘えて欲しいとは言ったけれど、まさかあんな声で名を呼ばれて、縋り付くように抱き着かれるとは思ってもいなかった。彼の身体から香る酒精の香りは、父や兄が気分よく酒を口にしている時に比べれば随分と薄いもので、ザイルがいつも身に着けている、品の良い香水の香りの方が強いくらいだった。

 ただ、問題はそこからである。


「わたくしも、女性としてはそれほど小さくはないはずなのに……」


 ぽつりと、思わず呟く。

 すっぽりと自分を包み込んでしまった、ザイルの腕や胸、足の感覚。熱を帯びた唇が耳元に触れ、吐息に擽られると同時に、耳の端を柔らかく食まれてしまって。僅かに湿ったその感覚に、胸に宿ったのは困惑と、高揚。そして、期待。

 そんなこと、言えるはずもないけれど。


「……ラティティリスの王族でしたら、そういうことも有り得ますけれど、ね」


 以前は大抵どこの国でも、例え婚約者であろうと、結婚するまでに身体の関係を持つことは禁忌とされていたという。けれどこのラティティリス王国の場合、王族の血を繋ぐことを最優先としているため、現代に近付くにつれ、度々婚約の段階で子を為す王族が増えていた。それに伴い、ラティティリスでは、貴族や庶民であっても、婚約段階での妊娠は誰にも咎められることはなくなっていったのだ。

 現王太子であるランドルもまた、そうだ。明日結婚式を挙げる予定のランドルの婚約者、レナリアには、すでに息子がいる。婚約してすぐに出来た子だというから、ランドルがいかに自分に興味がなかったのか分かるというもの。何せ自分たちが婚約関係にあったころには、一度としてそのような雰囲気になどならなかったのだから。まあ、今となっては良かったと思うが。

 しかし、それはあくまでもラティティリスの場合である。ラティティリスの倍以上の歴史を持つ大国、フィフラルでは、禁忌とまでは言われなくなったものの、婚前交渉そのものがあまり良い顔をされない。特に皇族は、貴族や庶民に示しがつかないということもあるが、皇宮に入る前に出来た子が本当に皇族の子か判断がつかない場合が出てくるため、禁忌とまではいかないものの、かなりの批判を覚悟しなければならなくなる。

 だからこそ、あの時、名を呼んだのだ。酔っているというよりは、体調を崩しているという方が正しい様子だったけれど。もしかしたらと、思ったから。もしかしたら、判断力にも酒の影響が出ているのかもしれない、と。


 ……我に返った時、落ち込むのはきっと、わたくしよりもザイル様だもの。


 粗野に見えて、傲慢に振舞っている彼は、その実とても真面目で、素直だ。その場の雰囲気に流される形で触れ合えば、彼の方がきっと苦しむ結果になる。それだけは、阻止しなければと思った。

 複雑な心地に震える声は、彼の耳にどのように聞こえたのだろうか。自分が拒否の言葉を口にする前に彼は動きを止めたから、やはり彼は酔いに意識を委ねるような人ではないと、少しだけほっとしていた。


 でも、本当は少しだけ、残念、なんて、思って……。だから。


 口付けを、残してきたのだ。彼と触れ合うことが嫌なのではないと、そう伝われば良いと思ったから。

 二十という年を思えば随分と子供っぽい行為だったかもしれないと少しだけ反省しながら、ラテルティアは旅の疲れを落とすように、ぐっすりと眠りについた。

 ラティティリス王国では、富と豊穣を司る女神を主神とした教えが一般的に浸透している。それは王族の間でも変わりなく、王太子ランドルの結婚式もまた、女神を称えるための聖堂で行われた。三代前の国王が大規模な修繕を施したという聖堂は、石造りの独特の風合いや、全ての窓を彩るステンドガラスの鮮やかさも相俟って、歴史を感じさせる趣のある建物である。

 ザイルの選んだ青や水色の淡い色合いのドレスを身に纏い、彼のエスコートで式に臨んだラテルティアは、何よりもレナリアが身に纏うウェディングドレスに目を奪われた。周囲からも感嘆の息が零れるのが聞こえる。幼い頃から憧れていた、幾重ものレースに飾られた真っ白なウェディングドレス。笑みを浮かべていながら、どうでも良さそうな様子で式の進行を眺めていたザイルも、この時ばかりはその赤い目を細めているようだった。

 ドレスが気になったのだろうか、それとも、ドレスを身に纏ったレナリアが気になったのだろうか。気付けばそんなことを思ってしまい、本当に心が狭くて、自分が嫌になった。


 結婚式にお祝いに来ていて、その花嫁に嫉妬なんて。何を考えているのかしら、わたくし……。


 呆れたように内心で呟きながら、ザイルに気付かれぬように、小さく息を吐いた。

 結婚式を終えた後、ラテルティアはザイルと共に王宮へと向かった。普段から美しい意匠や装飾で見る者を楽しませていた王宮の大広間は、今日ばかりは目に痛いほどに煌びやかな装飾で飾られ、招待客たちを華やかな装いで迎えていた。


「……何というか、落ち着きませんわね……」


 思わずラテルティアはぼそりと呟く。綺麗なことは綺麗なのだが、招待客の令嬢や婦人たちのドレスの色も相俟って、何とも華美が過ぎる状態である。

 傍らでエスコートしていたザイルの耳にも、ラテルティアの言葉が届いたのだろう。「ラティもそう思うか」と僅かにこちらに身を傾けて呟かれた言葉に、やはり彼もそう思ったかと逆に思ってしまった。素直に「そうですわね」と扇の下で苦笑しながら言えば、ザイルは小さく笑って、「覚えとく」と何やら呟いていた。

 舞踏会参加者の礼儀として、二度ダンスを踊った後、誰かを捜すような様子で周囲を見渡すザイルに付き添っていたラテルティアは、「ザイル殿下。お久しぶりでございます」と、彼の名を呼ぶ声に、ザイルと揃って後ろを振り返った。視界に入ったその人物は、カーリネイト辺境伯爵。武勇に優れたラティティリス辺境の護り手であり、それこそフィフラルと戦争が起きた時の防衛線を護る地域の領主である。

 「久しいな。カーリネイト伯爵」とザイルが声をかければ、辺境伯はほっとしたように笑みを浮かべ、深く礼の形を取っていた。


「本当に。舞踏会をお楽しみの所、不躾にお声掛けしてしまい申し訳ございません。お帰りになられる前に、挨拶だけでもと思いましたので……」


 貴族社会において、自分よりも高位の者に声をかけることは無礼であるとされる。辺境伯はそれを理解していながら、声をかけずにはいられなかったのだろう。ザイルはいつも、気まぐれにこういった場を辞してしまう。招待客や夜会の主旨に興味がなければ、挨拶だけして帰ってしまうことも多い。そういった話が、辺境伯の耳にも届いていたのだろうと、ラテルティアは心の中で一人納得していた。

 ザイルは辺境伯の非礼に気にする様子も見せず、「俺のような若輩者に、わざわざすまないな」と笑っていた。


「ああそうだ。紹介がまだだったな。顔見知りかもしれないが、ラテルティア・レンナイト嬢、俺の婚約者だ。先日、正式に婚約の発表が出来た。俺と同様、……いや、俺以上に、よくしてやってくれ」


 するりとラテルティアの腰に手を当てて、ザイルはそう辺境伯にラテルティアを紹介する。笑みを向けてくるザイルに笑い返せば、辺境伯は微笑ましそうな様子で「お噂はかねがね」と呟いた。


「王太子殿下と婚約者……、ああいや、もう王太子妃殿下ですな。お二人のために身を引いた、慎ましい公爵家のご令嬢が、フィフラルの第二皇子を射止めたという話は、私の住む辺境の地にまで聞こえてくるほどに有名ですからね。お久しぶりですな、レンナイト公爵令嬢。前回お会いした時よりも、随分と幸せそうだ。エスコート役が違うからかね?」


 からかうような調子で言う老齢の紳士に、ラテルティアもまた、ふふと小さく笑って返した。「ご想像にお任せしますわ」と言ってザイルの方を見上げれば、辺境伯爵はまたくすりと笑って「何よりだ」と呟いていた。


「カーリネイト伯。俺も丁度、貴公と話がしたかった。時間はあるだろうか」


 少しだけ真面目な声音を混ぜて、ザイルがそう辺境伯爵に問いかける。辺境伯爵はその様子に何やら含みを感じたらしく、「もちろん、構いません」と頷いていた。


「では向こうで。ラティはどうする? つまらねぇかもしれねぇが、一緒に来るか?」


 「ここにいるなら、ジェイルを傍に置いとくが」と、僅かに身を屈めて訊ねてくるザイルに、どうしようかと少しだけ迷う。ザイルはともかくとして、辺境伯爵の方は、自分がいない方が話しやすいのではないだろうかと、そう思ったのだ。ザイルがわざわざこうして舞踏会で呼び止めるくらいである。おそらく、フィフラルに関わる仕事の話だろう。邪魔になってはいけないと思い、「わたくしはこの場でお待ちしておりますわ」とラテルティアは応えた。


「そうか。じゃあ、ジェイルに……」


 ラテルティアの言葉に頷き、そう、ザイルが口を開いた時だった。「私が共にいよう」という声が、背後から聞こえてきたのは。


「ジェイルでも良いが、私が相手ならば、余計なことを吹き込む輩も居まい。お前たちのつまらない話を聞くよりは良いだろう」


「兄上」


 すたすたと歩み寄って来たエリルは、そう言ってザイルとは反対側のラテルティアの傍らに寄り添う。辺境伯爵と簡単に挨拶を交わした後、相変わらずの、何を考えているか分からない無表情で差し出してくる手は、おそらく自分をエスコートしてくれようという意志表示だろう。「ほら」と言われて、一度ザイルの方を窺えば、ザイルはこくりと頷いていて。おずおずと、ラテルティアはエリルの手に自分の手を重ねた。


「その辺で踊るか、休憩でもしている。レンナイト公爵令嬢、それで良いか?」


 無機質な声音で問いかけられ、ラテルティアはこくりと頷く。ザイルはその様子にほっとしたように表情を緩め、「では、お願いします」と丁寧に告げた。

 辺境伯爵と共に去って行くザイルを見送った後、手を取られるままにエリルの後を追って、ラテルティアは大広間の壁の方へと歩いて行った。ザイルの時もそうだったが、彼らが動くたびに周囲の令嬢や婦人たちの視線が集中する。特にエリルはフィフラル帝国の皇太子であり、婚約者もいないので、その視線の熱が意味するところは、あまりにもあからさまであった。

 そんな女性たちの熱視線に気づいてさえもいない様子で、エリルは侍従から果実水を受け取り、「飲むか?」とこちらに差し出してくる。「ありがとうございます、殿下」と言ってそれを受け取れば、少しだけその形の良い眉を寄せられてしまった。どうやら何かが不服だったらしい。

 「あの、殿下……?」と小さく問いかければ、彼は「いや」と呟くだけだった。思わず、首を傾げてしまう。


 わたくし、何かしてしまったかしら……? ただお礼を言っただけだったのだけれど……。


 思うも、エリルは相変わらずの無表情で周囲を見渡しており、何を考えているのかラテルティアにはさっぱり分からなかった。

 ラテルティアは別に、エリルを怖がっているわけではない。むしろ、出来ればザイルの兄である彼と仲良くできたらと思っている。だがしかし、だ。


 本当に、何を考えていらっしゃるのか分からないのよね……。


 昔から、表情一つ変えることがないとして有名な人物で。ザイルと共にいる時は微笑んでいることもあるため、決して笑うことが出来ないとかそういうわけではないと思う。まあ、愛想笑いする必要のある立場でもなく、むしろ周囲に舐められないという点では良いのかもしれない。ザイルもザイルで、笑みを浮かべてもどちらかというと嘲笑という感じの場合が多いため、それぞれ彼ら流の牽制なのかもしれないと、そんなことを思った。

 将来義理の兄となる相手なので、もう少しくらいは話してみたいとも思いながら、ちらちらと冷たい雰囲気の美貌を横から窺っていた時、その話は聞こえてきた。


「いくら血筋が良くても、あれでは、ねぇ……」


「ほら見て、殿下の顔。公爵令嬢が婚約者だった時には、見たこともないお顔ですわよ」


 くすくすと、笑い合うような囁き声。今日の祝福の場に相応しくない、人を嗤うような声音。

 何故このような日にと思いながらそちらを見れば、幾人かの令嬢たちが視線を一方向へ向けて、言葉を交わし合っているところだった。一体誰のことをと思って見ればそこには、本日の主役、王太子であるランドルと、王太子妃となったレナリアが招待客と話している姿がある。

 どうやらレナリアは貴族たちとの会話に慣れていないようで、焦ったように口を開いては、相手が僅かに奇妙な顔をしていた。ランドルがその度に僅かに溜息を吐き、相手の視線を自分へと向けさせる。かと思えば今度は、レナリアが疲労からか、もしくは遠慮からか、足を後ろに引き、そこにいた令嬢にぶつかって謝っていた。周囲に対する注意力にまで、まだ意識が向かっていないのだろう。

 この一年の間、王妃教育を受けてきたとはいえ、元は貴族ですらない庶民の少女。立ち居振る舞いが貴族のそれに近付いているだけでも良い方だろうと、ラテルティアは思った。残念ながら、正妃のそれにはまだまだほど遠いようだったが。


 わたくしの時も、ああして影で嗤ってらっしゃる方はいらしたけれど……。まあ、このくらいは乗り越えてもらわないと、一国の正妃としてはやっていけないでしょうから。


 思い、放っておこうと一つ息を吐いた。王太子妃となった以上、こういったことはいくらでも起こるだろう。今はまだ自分のことで手一杯の様子だから、周囲の噂話までは耳に入っていないようだが、いずれはそれも聞こえてくるようになる。その上で、彼女たちをまとめていくのが正妃たる者の勤めなのだ。厳しいことを言うようだが、この段階で躓くのは褒められたことではなかった。まあだからといって、自分が完璧だったとはとても思えはしないが。

 そんなことを考えながら、手にしていた飲み物を口にしていたラテルティアに、ふと傍らに立っていたエリルが、「良い気味だろう」と囁いた。


「お前から王太子妃の座を奪った女がああして嘲笑われるのは。彼女の評判は、正直あまり良くないようだな。見た目と血筋だけの皇太子妃と言われている。お前が婚約者であった時の方が、どれだけ良かったか、と。我が皇家の血筋ということになっているのだから、もう少しどうにかしてもらいたいものだ」


 驚いて見上げれば、エリルもまた果実水を口に運んでいるところだった。「どうだ?」とでも言うようにこちらを見てくるエリルに、ラテルティアは少しだけ戸惑う。確かに、良い気味だと、そんな風に考えないわけではない。これまで長い時間をかけて自分が保っていたものを全て奪われたのだ。どうしても、もっと苦労すれば良いとも思ってしまうし、ああして陰口の的になっている様は滑稽だと思うけれど。

 「どう、お応えすれば良いのか、分かりかねます」と、ラテルティアは呟いた。


「彼女がランドル殿下をおかげで、わたくしは殿下への興味を失くし、婚約を解消することが出来ました。ザイル様と婚約できたのも、そのおかげと言えないわけでもありません。ですが、わたくしが培ってきたものをそう簡単に習得されては、癪に障るのもまた事実。ああして苦労されている姿を見るのは、少しだけほっとしてしまいます。彼女のことを、一概に肯定もできませんし、否定も出来ません。ですから、ただ良い気味だ、と思うかどうかと訊かれましても、わたくしにはお答えしかねますわ」


 苦い笑みを浮かべながら、傍らの無表情な青年にそう答える。ラテルティアがレナリアに対して抱くのは、自分でも難しく、複雑な感情だから。エリルの単純な問いかけに答えることが、ラテルティアにはひどく難しかった。

 エリルはしばらく何かを窺うようにラテルティアの方を見つめていたかと思うと、ふっと、笑みを浮かべた。それは、ザイルが傍にいる時によく見る、楽しそうな笑みだった。


「やはり、お前は良いな。気に入った。純粋培養の令嬢かと思えば、皮肉も口に出来る。自分が身に着けてきたことの意味を理解し、曲解出来るような単純な答えを口にはしない。……父上の言っていた通り、我が国の正妃として迎えても十分やっていけるだろうな」


 怜悧な刃物を思わせる美貌でくすくすと笑うエリルの言葉に、ラテルティアは驚いて目を瞠る。彼の父、つまりはフィフラルの皇帝クィレルが、そのようなことを口にしていたとは思わなかったから。

 エリルはそんなラテルティアの様子に「ああ、安心しろ」と言って、笑いをおさめていた。


「私も、そして父上も、ザイルから最愛を奪うようなことはしない。あくまでも、その可能性もあったというだけだ。……それとも、ザイルから私に乗り換えるか? 私の妃となれば、フィフラル帝国の正妃という、この大陸中の女の頂点に立つことが出来るが」


 にっと試すような笑みを浮かべて、エリルは言う。確かに、その地位や名誉を気にする女であれば、これ以上ない誘惑の言葉かもしれないけれど。

 ラテルティアは特に考えることもなく、首を横に振った。「ご遠慮いたしますわ」と、言いながら。


「わたくしは、ザイル様をお慕いしているから、ザイル様の傍にいるのです。ザイル様が今の立場でなくとも……、例えば、何かの間違いで平民となったとしても、わたくしはザイル様に着いて行きますわ。足手纏いになるかもしれませんけれど、離れるよりは良いですから」


 ラテルティアにとってのザイルは、愛しい相手であり、希望そのものだった。このラティティリス王国で会い、自分に自由を与えてくれると、そう言ってくれた時から、ずっと。だから、どんなに素晴らしい地位や名誉を与えられたとしても、ザイルの傍でなければ何の意味もないのである。

 そうとつとつと語ったラテルティアを、エリルは嬉しそうな笑みを浮かべて眺めていた。眩しい物を見るような、そんな目で。

 「レンナイト公爵令嬢」と、彼はラテルティアを呼んだ。


「お前がザイルの婚約者で良かった。私の愛する弟を、本当の意味で愛してくれるお前で。これからも、ザイルをよろしく頼む。……それから、だ。ずっと言いたかったんだが。……私のことは、お義兄様と呼ぶと良い」


 嬉しそうな表情から一転、急に真面目な顔になったかと思えば、エリルはそんなことを言った。そしてその言葉に、ふと気付く。もしかしたら、先程彼が不満そうな顔をしていたのは、彼のことを殿下と呼んだからか、と。

 いや、まさかそんなことは、と思いながら、「あの、わたくしたちまだ結婚していないのですが……」とおそるおそる言えば、エリルはにっこりと笑って、「気にしなくて良い」と呟いた。


「ザイルが愛し、私が認めているんだ。もちろん、父や母、叔父上も。誰が何と言おうと、お前達の結婚が白紙になることは有り得ない。だから安心して私のことを義兄と呼べ。私も、これからはお前を義妹として接し、ラテルティアと呼ぶとしよう。分かったな」


 半分命令のような口調で言い切るエリルに、拒否など出来るはずもなく。ラテルティアは、自分が考えていたよりもずっと、楽しい思考を持っている様子の婚約者の兄の姿に、思わずふふ、と笑いながら頷いていた。

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