第5話 ラティティリス王国へ。 後

 当初の予定通り、ラテルティアの実家であるレンナイト公爵家を訪れたザイルは、ラテルティアだけでなく自分が訪問したことにも喜んでくれた公爵家の面々に迎えられ、屋敷に足を踏み入れた。夕食にはまだ早い時間だったため、ザイルはラテルティアと共に応接室で紅茶と茶菓子を口にしながら、レンナイト公爵、ガレイルや、公爵夫人のレティシア、ラテルティアの三つ違いの兄である令息、ゲイルらと共に世間話に興じていた。ちなみに、ラテルティアには二つ違いの姉もいるのだが、すでに結婚して屋敷を出ていると聞いている。

 以前から話していた道路事業の経過や、レンナイト公爵が新たに立ち上げた蒸留酒の試作、販売ルートの話、ザイルが今季、カーリネイト辺境伯領で栽培を委託している麦の収穫高に、周辺国の情勢についてなど、お互いの不利益にならない話を選んで会話は進んで行く。ラテルティアやレティシアは少しつまらなそうにしていたが、ガレイルはもちろん、ゲイルもまた楽しそうに口を開いていた。


「我が公爵家の領地も、ザイル殿下の研究所が開発したという麦を栽培するべきでしたな。カーリネイトは今までの三倍近くの収穫高だとかで、殿下が回収した麦の余りを、フィフラル帝国を越えて、テグニス国に輸出しているとか。あの国は今、内陸部がドリクティアル王国と争っているという話ですし、一部とはいえ争い事が起きていれば、食料の需要も高まるでしょうからな」


 「近頃は随分と行き来が多いようだ」と、言うガレイルに一瞬だけラテルティアの方を見遣り、また顔をガレイルの方へと向き直る。以前エリルと三人で話していた時とは違い、今はわざわざ話題を逸らす必要もないだろうから。

 それにしても、カーリネイトから食料の輸出とは、とザイルは少し首を傾げる。カーリネイト辺境伯領で委託栽培を行っている麦は、その所有権がザイルにあるために、彼らの食料分を除いて全てフィフラルへと運んでいた。つまりカーリネイトからテグニスへと流れている食料というのは、彼ら自身の食料の一部ということになる。不作続きで生活さえも苦しかったことは知っていたため、月ごとの給料制としてそこそこの金額を渡していたはずだが、それでも足りなかった、ということだろうか。自らの食料を切り詰めて売りに出さねばならないくらいに。

 僅かに違和感を感じるも、ガレイルが「次回は我が領地でも栽培させてもらいたいものですな」と笑ったので、ザイルもまた笑みを浮かべて、「もちろん。用意しておこう」と応えておいた。

 夕食もまた、同じ面々でテーブルに着き、和やかな雰囲気の中で進んで行った。ザイル自身はあまり酒が得意ではないのだが、ガレイルもゲイルも随分と酒精を好むようで、流れるように呑まされてしまった。先ほど応接室で話していた、ガレイルが新しく販売する予定の蒸留酒の試作品らしい。味は悪くないと思ったが、問題はそこではなく。かなり断った方だが、晩餐の終盤はもはや何も口にしたくない状態であった。フィフラル帝国の第二皇子としての矜持だけで、何とかその場を凌いだようなものである。

 しかし普段からザイルと共に食事をしているラテルティアは、さすがにザイルの様子がおかしいことに気付いたようで。「お父様、お母様。ザイル様がお疲れのようですので、一緒にさがらせて頂きますわ」と、申し出てくれた。心底助かったと思った。


「ああ、そうか。そうだな。長旅だったのだから、当然か。レティ、客室に案内してさしあげなさい。部屋の用意はさせているから」


 ガレイルが言い、レティシアが頷いて席を立とうとして、ラテルティアがそれを止める。「わたくしが案内しますので、大丈夫ですわ」と言えば、ガレイルとレティシアは顔を見合わせ、嬉しそうに笑い合っていた。


「そうね。それではお願いするわ。ザイル殿下、おやすみなさいませ」


「警備は万全ですので、ゆっくりと休んでください」


 レティシアに続き、ゲイルがそう言って声をかけてくるのに、「そうさせてもらう」と笑みを浮かべて頷き、ラテルティアと共に夕食の席を後にする。扉を出て、ザイルがラテルティアをエスコートするように周囲には見せながらも、反対にラテルティアが腕を引く感覚を頼りに、必死に意識を保ちながら足を進めた。

 ぐらぐらする頭のせいで、どれくらい歩いたか分からないような状態の中、ラテルティアが客室と思われる一室へと案内してくれる。扉をくぐり、ラテルティアと二人で部屋に入った途端、ザイルは閉じた扉に寄り掛かるようにしてずりずりとその場に座り込んだ。気持ちが悪い。

 「ザイル様、大丈夫ですか……!」と、慌てたようにラテルティアが声をかけて来るのにひらりと手を上げて応え、頭を抱えた。


「……気持ちわりぃ」


 ぼそりと思わず呟けば、ラテルティアは慌てた様子で使用人たちに指示し、グラスに入った水やタオル、水を張った器や、もしもの時の器などを、客室の応接間のテーブルの上と、寝室の方に用意させていた。

 使用人たちを、また後で呼ぶからと言って下がらせ、客室には完全にザイルとラテルティアの二人だけになる。床に座り込んだザイルと視線を合わせるように膝を付き、心配そうにこちらの顔色を窺う彼女の様子に苦笑しながら、「大丈夫だから、心配すんな」とか細い声で告げた。


「酒、強くねぇだけだから。少し休めば、マシになる。……ラティが連れ出してくれたから、このくらいで済んだ。ありがとな」


 顔を上げることなく、ぽつぽつとそう呟く。この程度ならば、眠ってしまえば明日にも響かないだろう。賓客として呼ばれていながら、無様な姿を晒すわけにはいかないから、本当に助かったと思った。

 まあ、こうして彼女の前で残念な姿を見せている今この瞬間の方が、個人的には哀しかったが。

 ラテルティアは気にした様子もなく、ほっとしたように「お役に立てて、良かったですわ」と呟いていた。


「ザイル様、ベッドの方でお休みになった方が良いのではないですか? それとも、座っていた方が楽なのでしたら、ソファの方へ移りませんか?」


 さすがに自分を床に座らせていることが気になるらしく、そう提案してくるラテルティアに「そうだな」と短く応じる。ジェイルが傍にいれば、服に皺が出来ると文句の一つや二つ言ってきそうだが、彼は現在、別に宿を取って休んでいた。どうせ後は寝るだけで、明日には着替えるのである。横になっていれば、いつの間にか眠れるだろうと思い、「ベッドに移る」と続ければ、ラテルティアがほっとしたように「はい」と呟くのが聞こえた。

 ゆっくりと立ち上がり、またもラテルティアが示す方へと歩き出す。どれだけ酔っていようと、外目からはそうとは分からぬように振舞うことがすでに癖になっていて。足取りだけならば、平時とそう変わらないように見えるだろう。部屋にラテルティアしかいないので、幾分気を抜いているからか、おそらく顔色までは誤魔化せていないだろうが。

 「レンナイト公爵やゲイル殿は、平気そうな顔をしてたな」と、歩きながらザイルはぼそりと呟いた。


「酒に強いっつーのは、良いよな。夜会とかの面倒事も減るし、注意する対象も減る。俺は血筋的に得意じゃねぇから、ひたすら頭いてぇし。……こうして醜態晒す羽目になるし」


 辿り着いたベッドに腰を降ろしながら、深く息を吐きだす。仕方がないとはいえ、情けなさ過ぎて泣けてくる。

 項垂れるザイルに、ラテルティアは何も返さず、水に浸したタオルを絞ってザイルの頬に当てた。ひんやりとした感覚が心地良く、「助かる」と呟けば、彼女は嬉しそうにふふ、と笑った。


「ザイル様は醜態って仰いますけど、このくらい、醜態の内にも入りませんわ。ただの体調不良ですもの。醜態というのは、もっと取り返しのつかないことをしてしまった時に使う言葉。……それに、ザイル様はいつも、これでもかというほど気を張ってらっしゃいますもの。わたくしの前でくらい、疲れた姿を見せて、甘えてくださいませ」


 ザイルの足元に膝をついて、こちらを見上げてくるラテルティアは柔らかく笑っていた。優しいその笑みに、ザイルはつられたように笑う。

 彼女は自分の婚約者で、一年後には自分の妻になるのだ。唐突にそんなことを思い、今更、それがとんでもない幸運のような、そんな気がしていた。


「……ラティ。おいで」


 とん、と、深く腰掛けた自分の膝の間を示してザイルは言う。後から思えば、なぜ急にあんなことをと思わないでもなかったが、やはり少しは思考にも酔いが回っていたのだろう。頭は相変わらずぐるぐるとして気持ちが悪いくせに、気付けばそんなことを口にしていた。ラテルティアが驚いたように固まるのが見える。自分らしくない、甘ったるい口調が自分でも耳に可笑しかったから、当たり前かもしれなかった。


「あの、おいで、って……」


「お前が甘えて良いっつったから。ほら、ここ。座れ」


 とんとん、と再度示して言う。ラテルティアはそれでも躊躇うようにザイルの顔をまじまじと見ていたけれど、観念したように深く息を吐いて立ち上がった。タオルを水の中に戻してから、ザイルに背を向ける形でぽすりと座り込む。

 銀の髪がふわりと揺れて、甘い香りが漂う。誘われるように彼女の腹部に腕を回して抱き込み、絹のような肌触りの香りの中に、ザイルは薄く目を閉じて、顔を埋めた。


 可愛い。本当に可愛い。好き。苦しい。甘い。愛しい。好き。


 ぎゅうぎゅうと抱き込みながら、思考が無意味な言葉を羅列していく。「ザイル様、擽ったいです」と、ラテルティアが腕の中でくすくすと笑うのを聞きながら、ザイルは顔を上げて、彼女の耳元に口付けを落とした。「ひゃっ」と、驚いたように声を上げるラテルティアに、ザイルはその赤い目を細くする。僅かに口を開き、耳殻に唇を添わせて軽く食めば、彼女はその身を固くして、「ザイル、様?」と、怯えたように声を上げていて。

 ぴたりと、動きを止めた。まずい、とただそう思った。


 ……頭いてぇくせに、何を調子に乗ってんだ……。これだから酒は……。


 思ったよりも働いていなかったらしい自分の頭の状態に自分で衝撃を受けながら、ラテルティアの肩に額を当てて項垂れる。「ザイル様?」と、先程とは違う、困惑したような声で自分の名を呼ぶ彼女に、「大丈夫だ」と吐き出すように答えた。何が大丈夫なのかも分からないままに。

 そもそも酒に酔ったくらいで、自分の行動が自分の思う通りにならなかったことなど今まで一度もなく。どうやら自分は、ラテルティアが考えているよりも、彼女の前では羽目を外しているようだと、そう理解した。それが良いことかどうかは、別として。


「……ラティ。俺はこのまま寝るから、部屋に行って良い。使用人たちにも、明日の朝呼ぶっつっといてくれ」


 名残惜しく思いながらも、ラテルティアを腕の中から解放する。彼女は座ったまま、身体を捻って不思議そうな表情でこちらを見上げた後、少しだけ心配そうな顔をして、「本当に大丈夫ですの?」と訊ねてきた。顔色はそれほど良くないのだろう。けれど、「さっきよりはマシだ」と言えば、彼女は渋々と頷いていた。


「では、わたくしはこれで失礼します。……ゆっくりお休みくださいませね」


 立ち上がり、そう言って微笑む彼女に「ああ」とだけ応える。シャツのボタンだけは緩めないと苦しいな、とそんなことを思っていたザイルの傍らで、ラテルティアはなぜかその身を屈めていて。

 ちゅ、と軽く、ザイルの唇に柔らかいものが触れた。


「お、お休みなさいませ……っ」


 呆然と見上げれば、顔を真っ赤にしたラテルティアが、いつもよりも随分と早足で部屋を出て行くところで。彼女の方から口付けられたことなど、今まで一度もなかったザイルは、そのままゆっくりと両手で顔を覆い、再び項垂れた。

 急激にはっきりとしだした頭で、どうやら彼女は自分を殺す気なのかもしれないと、そんなしょうもないことを思った。

 ラティティリス王国の王太子、ランドルの結婚式は、王国の主聖堂に周辺各国の要人や国内の貴族たちが列席した中で、始終つつがなく進んだ。特に興味もなかったためにぼんやりと見ていたザイルだが、本日の主役ともいえる、花嫁のドレスが真っ白だったことだけは、不思議に感じていた。後から聞いたのだが、ラティティリスでは花嫁が白いウェディングドレスを着るのが通例らしい。フィフラルでは主に、新郎の目の色のウェディングドレスを着ることが定番なのだ。


 ……ラティならどっちでも似合うから、ラティの好きな方で良いな。


 一年後の自分たちの結婚式を思いながら、ザイルは傍らで拍手を送るラテルティアを見て、そんなことを考えていた。

 式が終われば、会場は聖堂から王宮へと移る。飾り立てられた大広間で、煌びやかな舞踏会が始まれば、皆が祝福の言葉を王太子夫妻に投げ掛けていた。

 式と同様、舞踏会そのものにも興味のないザイルは、そんな人々を横目に周囲を見渡し、とある人物を捜していた。昨夜、レンナイト公爵から話を聞いてから、どうしても引っかかっていた事柄。ラティティリスの貴族なので、この場にいないということはあり得ないはずなのだが。思い、ラテルティアを伴って、再度その場で踵を返して。


「ザイル殿下。お久しぶりでございます」


 丁度声をかけて来た懐かしいその人物の姿に、ザイルはにっと、その端正な顔に笑みを浮かべていた。

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