第5話 ラティティリス王国へ。 前
ザイルが自分の目論見が甘かったことに気付いたのは、フィフラル帝国を出て早々、三日目の事だった。
一日目、フィフラルの皇宮を出た時は、当初の予定通り、馬車には自分とラテルティアのみが乗車し、護衛としてザイルの乳兄弟であるジェイルが並走、一台前の馬車に兄のエリルが乗車、という状態だった。おかげで休憩の時以外はラテルティアと二人きりで過ごす事が出来、充実した旅が始まったと、そう思ったのだ。その時は。
そんなザイルの思惑は、三日目にはもう、崩れ去ったわけだが。
「……兄上。なぜここに」
思わず頭を抱えて呟いた自分を、叱責出来る者などいるだろうか。この状況で。
前日までラテルティアと二人きりだった馬車の中には、相変わらずの無表情で、悠然と足を組んで座るエリルの姿が増えていた。
緊張してか、身を固くするラテルティアの隣に座り、エリルと向かい合った状態のザイルは、思わずひくりと頬を引き攣らせる。馬車での一人旅はつまらないだろうし、もしかしたらその内こうなるかと考えてはいたが。
さすがに早すぎませんか兄上……!
尊敬する兄に対し、ザイルはそう、心の中で叫び声を上げた。
エリルはそんなザイルの様子を特に気にした様子もなく、軽く首を傾げていた。
「なぜ? 私一人を除け者にするのは酷いだろう。ザイル。お前が婚約者としてレンナイト公爵令嬢と二人でいたいのは分かるが、私とて義理の妹になる彼女と話をしたい。私が彼女と親し気に言葉を交わすのは、このような場でもなければ変に周囲の注目を浴びることになるからな」
「今まで遠慮していたんだぞ」と堂々と宣言するエリルの言葉は、間違っているわけではなかったが。だからと言って、だ。もう少し、せめて後二日くらいは、待ってくれても良かったのではないだろうか。
ぐったりと頭を抱えたザイルは、馬車に並走していたジェイルが窓越しに憐れみの視線を向けていることに気付き、さらにがっくりと肩を落としたのだった。
そんな調子で更に十日が過ぎた頃、ザイルたちはラティティリス王国の首都へと入った。一年前には半年間、そしてひと月前にも訪れたこの街。大して懐かしいとは思わなかったが、ひと月前まではこの街に暮らしていたラテルティアは、感慨深そうに窓の外を眺めていた。
「ようこそお出で下さいました。エリル皇太子殿下。ザイル殿下。お久しぶりです」
目的地であるラティティリス王国の王宮には、すでに到着していたらしい周辺各国の要人たちの姿があった。馬車から降りた三人を迎えたのは、今回の旅の目的ともいえる人物、ラティティリス王国の王太子、ランドルと、傍らに控えた彼の婚約者、レナリアである。ランドルのきらきらしい容姿は相変わらずで、柔らかい笑みを浮かべた彼は、やはり誰もが認める王子様といった雰囲気である。
一方、結婚式を明日に控えた、幸せの絶頂にあるであろうレナリアの表情はどこか暗い。彼女は王妃教育を受けるためという名目で、ザイルと同じ年に学園を卒業していたため、こうして彼女に会うのは、一年ぶりである。心なしか痩せたような気がした。
そんなことを考えるザイルを余所に、いつも通り表情の無いエリルがランドルの言葉に頷き、「出迎え感謝する」と短く応えていた。
「短い間だが、世話になる。すまないが部屋に案内してくれ。長旅だったのでな」
淡々とエリルが言えば、ランドルは元よりそのつもりだというように頷き、使用人に案内を頼んでいた。エリルとザイル、そしてラテルティアの三人にそれぞれ使用人が歩み寄ろうとしたので、ザイルはラテルティアの肩を抱き、「俺たちはレンナイト公爵家に世話になるから、構わなくて良い」と告げる。レンナイト公爵家からの申し出があったため、ザイルは素直にそれを受けることにしたのだ。
ランドルは僅かに眉を顰めた後、またこくりと頷き、使用人を下がらせた。「では、皇太子殿下だけご案内を」と言い、指示を出す。「ではまた明日」と言ってエリルがこちらを振り返り、小さく笑うのに「ええ。明日」と応えて笑い返す。去って行くエリルの後ろ姿を見送り、ラテルティアと共に、彼女の実家へと向かおうと踵を返そうとして。
「ザイル殿」と、いつかのように声をかけられた。
「一年ぶりですね。お元気そうで何よりです」
にこやかな笑みで告げられた挨拶に、ザイルはその赤い目を細くしながら、「ああ、お互いにな」と応える。相変わらず、と言うべきか。この国の王は、彼に王太子として知っておくべきことを知らせるつもりはないらしい。王太子として、というよりは、彼が引き起こした事の顛末と言った方が良いか。それを理解していたならば、こうして親し気に声をかけてくることなど、有り得ないだろうから。
……いや、あえて教えてねぇのかもな。自分のせいで、とか考えて、王太子がこれ以上、卑屈になってもまずい。もしくは、こいつが変にこちらに逆らおうと考えて動いた場合、レンナイト公爵が訝しがって色々と調べるかもしれねぇ。どう動くにしろ、余計なことを教えるのは、確かに得策じゃねぇかもな。
そんなことを考えるザイルを他所に、ランドルはザイルの傍らに立っていたラテルティアにもまた、「久しぶり」と声をかける。ほっとしたような、少しだけ淋しそうなその表情が、僅かに気に障った。
「フィフラル帝国はどうだった? ラティ。隣国とはいえ、ラティティリスとの違いも多いだろう。大変ではないかい?」
親しそうに声をかけるランドルに対し、ラテルティアは目上の者に対する丁寧な礼の形を取り、「お久しぶりです。ランドル殿下」と、硬い声音で応えていた。浮かんだ表情もまた、外向きの淑女の笑みで、そのことに少しだけ、喜んでいる自分がいた。
「殿下の仰る通り、違いも確かにございますが、ザイル殿下や皇族の皆さま、皇宮の皆さまが気を遣ってくださいますため、何も大変なことはありませんわ。とても楽しく過ごさせて頂いております」
ふふ、と少しだけ子供っぽい様子で笑い、ラテルティアはこちらを見上げてくる。「わたくしは今、とても幸せですわ」と言う彼女に笑みを返し、一度その頬に口付けを落として、ザイルはランドルの方へと向き直った。一連の光景のどの部分にか、哀しそうな顔をした彼の方に、少しだけ困ったような笑みを浮かべて見せながら。
「なあ、ランドル殿。そろそろその『ラティ』っての、やめねぇか。他の男が、俺の婚約者の愛称を親しげに呼ぶの、あんまり気分良くねぇからな。お前にも分かるだろ」
思い立ち、ザイルはそう呟いた。前回この国に来た時から考えていたのだ。呼び方一つで心が狭いと思われそうだが、気分が良くないのは事実。ザイルが彼女を愛称で呼ばないのも、ランドルがずっとその愛称で彼女を呼んでいたからだったりする。ラテルティアはそんな風に思わないかもしれないが、自分が思い出してしまいそうだったから。彼女が元々ランドルの婚約者で、彼を想って泣いていたことを。
だから今回、彼らの結婚式に列席する際に、必ず言っておこうと考えていたのだ。彼女の愛称を呼ぶ権利さえも全て、彼から奪い取るために。
ランドルは大きくその青い瞳を見開いた後、「なぜ、そこまで……」と呟いた。哀しそうな、そして悔しそうな様子でその顔を僅かに歪ませ、小さく一つ、息を吐いた。「……分かりました」と頷きながら。
「確かに、貴殿からすれば、あまり気分の良いものではないかもしれない。いくら幼馴染のようなものとはいえ、親しくしすぎるのもまた問題でしょうしね。会う機会もあまりないでしょうけれど、これから気を付けます。慣れないうちは癖で呼んでしまうかもしれませんが、それくらいは、許してください」
「ラテルティア嬢も、気付かずにすみませんでした」と、淋しそうな様子で言うランドルに少しだけ溜飲を下げながら、挨拶を済ませた後、ザイルはラテルティアと二人、その場を後にした。
乗り込んだ馬車が動き出した途端、深く息を吐き出したラテルティアに、「大丈夫か」とザイルは声をかける。ラテルティアはこちらに顔を向けると、疲れたように笑って「大丈夫ですわ」と応えた。
「なんというか、変に緊張してしまっただけなので。……たったひと月会っていないだけなのに、随分と長いこと、お会いしていないような気がしましたわ。お元気そうで良かったですわね」
懐かしい光景を思い出すように、遠くを見つめるラテルティアに、ザイルは「そうだな」とだけ返す。
ラテルティアは知らないだろうが、ザイルは直前まで、彼女をこの場に連れて来るべきか、どうか迷っていた。彼女が心を痛める結果になるのではないかと、心配だったから。
何せランドルは元婚約者で、その相手はラテルティアからランドルを奪った相手だ。……正確には寝取ったが正しいが、ラテルティアは知らねぇからな。
そんな二人の結婚式に、ラテルティアが参加すれば、これまでザイルがこの国でばら撒いた情報もあり、ラテルティアの評価は上がることだろう。自ら身を引いた心優しい淑女だと、そう言われているから。
だが、それはあくまで周囲の話である。
ラテルティア自身がどれほどの感情を抱いていたか、自分が正確に知ることは出来ないが、確かに彼に想いを寄せていたのは事実で。だからこそ、そんな二人の結婚式に出席することで、彼女が傷つくのではないかと、ザイルはそう考えていたのだけれど。
隣に座った彼女はあの時、僅かに懐かしそうにランドルと視線を交わしただけで、そこには未練も後悔も、何も宿ってはいないように見えた。
吹っ切れたと思っても良い、か。……何にしろ、ラテルティアが傷つかねぇのなら、それで良い。
それだけが、自分の最大の心配事だったから。
ほっとしながら彼女の横顔を見ていたら、ラテルティアはふと思い出したようにこちらを向いた。「そういえば殿下、先程のお話ですけれど」と口を開いた彼女は、不思議そうにこちらを見上げていた。
「ランドル殿下がわたくしの愛称を呼ぶのが嫌だって仰っておられましたよね? ……あの、ずっと思っていたのですが、殿下はわたくしのことを、愛称で呼んでくれませんの? 家族や親しい方たちは皆、わたくしを愛称で呼びますから、少し違和感がありまして……」
「それとも、今更愛称では呼びにくいでしょうか……?」と、少しだけ不安そうな表情になったラテルティアに、くつくつと笑いながら「いや、んなことはねぇよ」と返した。むしろランドルに愛称呼びを禁じた今、これからは自分が彼女を愛称で呼ぼうと考えていたところである。
「ラティ」と、彼女の耳元で短く呼べば、彼女はびくりとその肩を跳ねさせた後、嬉しそうに笑っていた。
「殿下にそう呼ばれると、なんだか、少し擽ったいですわ。慣れていないからかしら」
ふふ、と機嫌良く笑う彼女が可愛くて、自然とザイルの表情も柔らかく緩む。
「すぐ慣れるだろ。これからずっと、呼んでやるから」
言えば、彼女はまた嬉しそうに笑みを深めて、こくりと頷き、「そうしてくださいませ」と呟いていた。
「……にしても、お前のことは愛称で呼ぶのに、俺はいつまで『殿下』のままなんだ?」
ふと思い、ザイルはそう反対に訊ねかける。自分には特に愛称のようなものはないが、だからといって敬称のみで呼ばれたいわけでもない。
ラテルティアはぱちぱちと数度瞬きをすると、「では、何とお呼びすれば……」と首を傾げいていて。
ザイルはにっこりと、笑った。
「ザイル、と呼べば良いんじゃねぇか?」
他の人間がいるところでは、あまり褒められた呼び方ではないだろうけれど、二人の時は構わないだろう。思い、そう伝えるも、ラテルティアは驚いたように目を見開いた後、少しその視線を彷徨わせて。
「ザイル、……様」と、ぽつりと呟いた。
「ザイル様、でよろしいでしょうか? その、名前を呼び捨てるのはちょっと、わたくしには荷が重くて……」
しどろもどろに続けるラテルティアに、少しだけ残念に思いながらも「まあ、良いか」と頷いた。貴族として幼い頃から上下関係を気にしてきたであろうラテルティアにとって、皇族である自分の名を呼び捨てるのが難しいことは、分かり切っていたから。
少なくとも殿下呼びから脱することが出来ただけでもよしとしようと、ザイルは内心で一つ頷いていた。
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