第4話 忠告と休暇
頬杖をついて、机に広がる資料を睨みつける。細かな文字の羅列が目に痛いその複数の資料は、決して自分が集めた物ではなく、自分に必要な物でもない。ザイルからすれば、ずっと昔に頭に叩き込んだ、この国と貴族たちの歴史である。
ぺらりぺらりと音を立ててそれを読んでいるのは、自分の横に座った婚約者で、彼女は稀に分からないことがあれば自分に質問し、また資料を読むことを繰り返していた。とても勉強熱心である。この国に来たばかりで、第二皇子である自分の婚約者である彼女が、こうしてこの国のことを学ぶのは良いことだ。良いこと、なのだが。
……つまんねぇ……。
残念ながら、それがザイルの本心である。
仕事の合間の休憩時間。いつも通りラテルティアの私室を訪れたザイルは、応接室のテーブルに大量の資料を並べ、それに無言で目を通す彼女と対面した。真面目な顔で学ぶ彼女を前に、膝枕をと切り出すのもどうかと思った末、隣に並んで大人しく座っているのである。彼女の邪魔をするわけにもいかず、訊ねられた質問には答え、また資料を読み込む彼女をぼんやりと眺めているわけだ。
昨日、夜会の後も少し様子が変だった気がしたが……。俺の傍にいた時は、誰も何も言ってなかったからな。俺がラテルティアから離れたのは、あの時だけ。……メラルニアか。
この国に来てから、彼女は毎日、様々なことを学んでいた。この国に纏わる様々なことを、泣き言を言うでもなく、淡々と。元々が隣国の王太子の婚約者として学んでいた彼女である。学ぶという行為自体、あまり苦ではないようだった。
そんなラテルティアだが、これまではザイルがこの部屋を訪れた際、彼女もまた休憩に入ると言って自分を迎えてくれていた。当たり前のように膝枕をしてもらい、のんびりと眠っていた。それが日課になりつつあったと言っても良いくらいには。
だというのに。
今日は、休憩する素振りすら見えなかった。
……つまんねぇ。本気でつまんねぇ。
じっと横顔を注視しながら、気付かれないように溜息を吐く。こっちを見ることもない。触れることもできない。用がある時以外は声さえも聞こえない。
つまらない。本当につまらない。
これでは、婚約する前と何も変わらない。
触りたい。……邪魔になるか。声を聞きたい。……気が散るか。……こっち見ろよ。ここにいんだから。
湧き出す不満は、隠しようもなく表情に現れる。むすりとした顔のまま、ただじっとラテルティアを見つめ続けていたけれど。そもそもザイルは、それほど我慢強い方でもないわけで。
するりと手を伸ばして、引き寄せるように自分がいる方とは反対側の頬に背後から手を伸ばす。それと同時に自らの身を寄せれば、ラテルティアは驚いたようにこちらを見上げていた。
「どうされましたの? ザイル殿下」
青い瞳を大きく開き、ぱちぱちと瞬きながらラテルティアは訊ねてくる。不思議そうな表情。
すり、と彼女のこめかみに頬を寄せながら考える。どうされたのか、と問われても、特別なことは何もない。ただ、あえて言葉にするならば。
淋しい。
「……昨日の夜会で、メラルニアに何を言われたんだ?」
感情をそのまま口にするなんて出来るはずもなく、気になっていたことを訊ねかける。本当は昨日の内にでも訊こうと思ったのだが、さすがに疲れていたようだったのでやめたのだ。まだ慣れないであろうこの国での、初めての夜会を終えた彼女に無理をさせるのは、本意ではなかったから。
あの時、彼女を護衛するように合図したジェイルは、彼女に気付かれないようにするために少し距離をおいていたため、話の内容までは聞こえなかったと言っていた。だからザイルは、あの場でラテルティアたちが何を話していたのか、全く分からないのである。
ラテルティアは少し躊躇うような間を空けた後、「大したことは、何も」と答えた。
「どちらかと言えば、わたくしに対する忠告のようなことを仰っておられました」
「……忠告?」
メラルニアが、ラテルティアに。
不思議に思って繰り返せば、ラテルティアはその通りだと言うようにこくりと頷いた。
「この国には、公式寵夫制度があるから、結婚していても選ばれてしまえば、ザイル殿下は正妃の寵夫になることも有り得るのだと教えてくださいましたわ。あとは、ザイル殿下と何やら取引したい、というようなことも仰っておられましたわね」
昨夜のことを思い出すように口許に指先を当てて告げるラテルティアに、ザイルは僅かに眉根を寄せる。自分との取引というのも気になるが、ラテルティアにわざわざ公式寵夫についての忠告をするというのは、どういうつもりなのかと思ったから。
確かに今彼女が言った通り、この国には公式寵夫という制度が確立している。寵夫に選ばれたならば、それ自体が一つの仕事と見做され、たとえ結婚をしていようと昼間は正妃の元に通うことを義務とされるのだ。公式寵妃を認めている国は多数存在するが、その逆であるこの制度を認めているのは、ザイルの知る限りこのフィフラル帝国だけだった。
もともと、公式寵夫制度を作ったのは、今から八代前の皇帝だったとされている。政略的に決められた正妃と、想いを寄せた側妃を娶った当時の皇帝が、側妃の元にばかり通うことを申し訳なく思い、作り上げた制度らしい。せめて正妃にも、自ら想いを寄せる相手と寄り添う時間を与えたい、との思いから。他の者との間に生まれた子に帝位を継がせることは出来ないため、二度と皇帝の訪れを望まないと正妃が宣言した場合にのみ、許される制度。それが公式寵夫である。
かといって、幾人もの男を正妃が侍らせているとなれば、皇族の品位に関わるため、公式寵夫は一人のみともまた、決められていた。フィフラル帝国の者でさえあれば、その身分は問われず、正妃と公式寵夫との間に生まれた子供は、貴族の養子に出されたり、これまでの歴史上、公式寵夫となった者は皆独身であったため、自分の子として育てる場合が多かったとされている。
だがこの制度が成立するのは、皇帝が正妃の他に側妃を娶った場合のみ。現段階でわざわざそれを忠告する意味が、ザイルにはさっぱり分からなかった。
「確かに言ってることは間違いねぇが、さすがに結婚してる男を寵夫に選ぶようなヤツを正妃にはしねぇと思うがな。人格に問題ありすぎだろ。いくら政略結婚でも、その辺は考慮するだろうからな。それに、そもそも兄上は側妃を持つ気なんてねぇと思う。……俺以上に信用してねぇからな。他人を」
きっと、自らの傍に人を置けば、その人だけを慈しむだろう。兄、エリルは。彼が感情を向ける相手というのは、本当に一握りだけ。そしてその一握りに、惜しみない愛情を注ぐ人だから。正妃となる相手のことも、彼は彼自身で事細かに調べつくし、想いを向けるに相応しい相手かを精査するだろう。自分も含め、誰もが認める相手を正妃とし、愛する。エリルという人は、そういう人間だと、ザイルは思っていた。
「だから、気にする必要はねぇよ」と、ザイルは告げる。心配するだけ無駄だと、そう思ったから。
けれど、ラテルティアは僅かにその視線を落として、息をつく。「わたくしも、そうは思っておりますわ」と、小さく呟きながら。
「ですが、やはり不安なものは、不安ですの。……殿下が他の方の所に行くなんて、考えるだけで嫌で……」
テーブルの上に置かれた彼女の手が、ぎゅっと握られる。不安そうなその様子に、その手を取り、そんなことは有り得ないと、そう口にしようとしたザイルの声は、「なので、わたくしは決めましたの」と力強く続けた彼女の言葉に遮られた。
「一刻も早くこの国の事を学び、ご令嬢の皆さま……、特に皇太子殿下の婚約者候補とされている方々と肩を並べられるほどに知識を蓄えて、きちんと候補者を振り落としたい、と」
ぱっとこちらを向いたラテルティアは、真っ直ぐな視線をこちらに向けていた。「ランドル殿下と婚約している時は、あくまでも王太子の婚約者として相応しくとしか思ったことがなかったのですが」と、彼女は少しだけ恥ずかしそうに、その白い頬を赤く染めていた。
「今は、ザイル殿下に相応しくなりたいのです。少しでも殿下の力になれたら、と。だから、まず最初は皇帝陛下からのお仕事をしっかり熟すつもりですわ。あわよくば殿下を公式寵夫に、なんて最初からおかしなことを考えていらっしゃる方がおられれば、知識の限りを尽くして考慮した上で、振り落とそうと思っております。絶対に、嫌ですもの。だから、わたくし頑張りますわ」
決意を込めた様子で宣言するラテルティアに、しばし呆気に取られていたザイルは、自分でも気付かぬ内に、くつくつと笑ってしまっていた。
ザイル自身、予想もしていなかった、自分に相応しくありたいという思いを口にする彼女の様子が嬉しくて、可愛くて。その心根がとても、崇高なものに感じられた。自分なんぞには、もったいないくらいに。
別に何もする必要なんてねぇから、大人しく俺に護られてろ、なんて言っても、聞かねぇんだろうな。こいつは。
大人しく、淑女の鑑とさえ思える雰囲気を持ちながら、その内面は予想よりもずっと強く、一生懸命で。初めて自分がその存在を認識した日の、窓ガラス越しに見えた、疲れたように婚約者と別の女の逢瀬を眺める彼女の姿はもう、どこにもなかった。
笑い続けるザイルに、ラテルティアは少し困ったように「ザイル殿下?」と声をかけてくる。一気に不安そうな表情になったラテルティアの額に口付けて、ザイルは彼女を安心させるように、「何でもねぇよ」と呟いた。
「お前の好きにすりゃあ良い。無理をしない程度にな。何か助けが必要だったら、いつでも俺を頼れよ。放っておかれるのはつまらねぇからな。……まあ、四日後にはラティティリス行きの馬車の中だ。婚約者候補を招待して、茶会を開くのも帰って来た後。それまでの間、勉強くらいならいくらでも付き合ってやる」
あと半月後に迫ったラティティリス王国の王太子、ランドルの結婚式に参席するために、ザイルは四日後から、ラテルティアと共にラティティリスに向かうことになっている。今回フィフラルからは皇帝は出席せず、代わりに皇太子であるエリルが参加することになっていた。一年前に決まったばかりの、皇太子のお披露目も兼ねているのだろう。
もっとも、エリルは別の馬車で向かう予定なので、ザイルはラテルティアと二人で、ゆっくり十日はかかる道のりを往復するわけである。その間も学ぶつもりだと言うのならば、訊かれたことに答えることくらいは出来るだろう。
そう思って言えば、ラテルティアはぱぁっとその透き通るような青い目を輝かせていて。「是非ともお願いしますわ」と満面の笑みを浮かべるものだから、無意識にぎゅうと抱き寄せてしまった自分は、決して悪くないと思った。
ランドルの結婚式に参席するためにフィフラルを後にすることになるため、ザイルはラテルティアの元から執務室へと戻った後、ただひたすらに仕事を片付けることになった。何せひと月近くフィフラルを空けるのである。自分がいなくても問題ない仕事はともかく、どうしても自分が処理しなければならない物は、確実に終わらせておく必要があったのだ。何かあれば、早馬を出すようには言ってあったが。
うんざりするほどに書類の束に目を通し、飽き飽きするほどの業務を終わらせ、いつもよりも短いラテルティアの元での休憩を済ませ、また仕事に戻って。そんな三日間を過ごしたザイルにとって、今回の旅程はある意味休暇のようなものである。ラテルティアと共にずっと過ごせるのだ。自分が休みでもラテルティアに予定がある場合もあるため、もしかすると休暇よりも良いかもしれない。
その目的が、ラテルティアの元婚約者である、ランドルの結婚式だとしても、だ。
ラテルティアをフィフラルに連れて来る時もそうだったが、周りに他の人間がいねぇ状態で、二人で過ごせるのは気分が良いからな。……本当に、休暇よりも良いかもしれねぇ。
ラティティリス王国へ向かうその日の朝。ラテルティアを迎えに、通い慣れた彼女の部屋の扉をノックしながら思う。部屋の中からすぐに返事が聞こえ、彼女の侍女であるシルビアが、いつも通りゆっくりと扉を開いた。
応接室で自分を待っていた、青い外出着を纏うラテルティアは、すでに準備万端といった様子でこちらに歩み寄って来た。心なしか楽しそうな表情は、生まれ育った故郷に帰るからか、それとも。
「用意は出来てるようだな」と声をかけたザイルに、ラテルティアは微笑んで頷く。「もちろんですわ」と応えた彼女に手を差し出せば、彼女は当たり前のようにその手を取った。
「実はわたくし、楽しみだったのです。殿下とずっと一緒にいられるの、こちらに来るとき以来、久しぶりですもの」
傍らに歩み寄った彼女が、嬉しそうにこっそりと呟いた一言に、ザイルは思わず相好を崩す。
彼女が傍にいること以上に、自分の心が休まることはないのだと、ザイルはそうすでに、確信していた。
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