第3.5話 我が儘
本当は、あのような対応をするつもりなどなかった。そう、ラテルティアは思う。最初から対立する必要なんてない上に、相手はこのフィフラル帝国でも力のある公爵家の令嬢で、エリルの婚約者候補なのだから。これから茶会などで言葉を交わすことになるのだろうし、仲良くなることは無理でも、第二皇子の婚約者として上辺だけの付き合いくらいはすべきだろうと、そう思っていたのだ。自分も公爵家の娘ではあるが、この国よりも力の弱い隣国の公爵家。ザイルに迷惑はかけたくないから、自分の方が引いてでも、と。本当に、そう思っていたのだ。最初は。
だがそれは、ザイルの言う通り、彼女がザイルへの興味を失っていた場合でのみ出来る対応だと、ラテルティア自身も分かっていた。
だから、あのような対応になってしまった。
ザイル殿下は、この方をよく見ていらっしゃらないみたいだから、気付かなかったのでしょうね。……いいえ、男の方には、分からないのかもしれない。
彼女が、メラルニアがザイルに向ける縋るような視線と、自分に向ける、突き刺すような敵意に満ちた視線に。
ザイルやエリル、そしてジェイルは、彼女があくまでも皇太子の妃の立場を望んでいるのだと、そう考えていたようだけれど、違う。もしそうならば、ザイルや自分にあのような視線を向ける意味がない。だからすぐに、理解できたのだ。彼女が本当に望んでいたのは、そのような立場ではないのだと。
彼女が本当に望んでいるのは。
「ザイル殿下が、自らのご意思でご婚約されたという噂を聞いて、そんなことは有り得ないと思っておりましたが。……先程のご様子では、どうやら本当の話のようですわね」
先程までザイルと共に足を運んだバルコニーに、ラテルティアは今、ふわふわとしたレースが愛らしい、彼女の瞳と同じ色の翡翠色のドレスを身に纏う、メラルニアと共に立っていた。月明かりの下、メラルニアの可憐な容貌が憎々しげに顰められる。そんな表情でさえも美しく見えて、同じ女として少し羨ましいと思ってしまった。
「今までどんな女も寄せ付けなかったというのに、どんな手を使って誑かしたのです? こうして見たところ、お顔も、お身体も大したことないというのに。……ああ、その美しい髪かしら。確かに珍しいお色ですものね」
じろじろと、まるで値踏みするように、ラテルティアの爪先から頭の先までメラルニアの視線が動く。自分よりも劣っているものを捜そうとするその目は、祖国で何度も晒されたもの。元々が一国の王太子の婚約者だったのだから、正直な話、このような視線には慣れていた。どこの国でも、次期国王や、それにつぐ権力を持つであろう、王弟の婚約者という立場は、誰もが切望しているということだ。
もっとも、ラティティリスでは王太子の婚約者以前に、最も権力を持つ公爵家の娘であったため、これほどまでにあからさまな視線を受けるのも、侮辱の言葉を受けるのも、初めてのことではあったが。
下手に小細工をされたり、大人数で囲まれたりするよりは、随分と楽だわ。
ラティティリス王国の王太子、ランドルの婚約者だった時は、面倒な状況に何度も陥ったものだ。学園に入った当初など、特に。だからこそ、これくらいの絡まれ方ならばあまり気にもならない。
そんなことを考えられるくらいには、ラテルティアは大して動揺していなかった。
「確かに、殿下はわたくしの髪を美しいと思ってくださっているようですが、はたしてそれだけで婚約者にまでしてくれるでしょうか? そんなこと、付き合いの長い貴女の方がよく分かっておられるのでは? キルナリス公爵令嬢」
にっこりと余裕を孕んだ笑みを浮かべて見せれば、メラルニアの口から、ぎりと奥歯を噛み締めるような音が聞こえた。悔しそうに、その目を細めてこちらを睨みつけている。
けれど一息の間に、メラルニアはその表情を、先程までの儚い微笑みの下に隠す。頼りないようなか弱い姿でありながら、どこか悠然とした空気を身に纏いながら。
「貴女の仰るとおりですわ、レンナイト公爵令嬢。あの方は、そんなことでは靡いてくださらない。そんなことで靡いてくださるのならば、わたくしにももっと興味を持ってくださったはずだもの。……でも良いわ。他の手段を使うだけ。俗な方法を取るも良し、古き良き方法を取るも良し。余所の国出身の貴女はご存じないでしょうけれど」
ふふ、と楽しそうな笑みを交えて呟かれた言葉に、ラテルティアは僅かに眉を顰めた。急な態度の変化を訝しく思いながら、「一体、何のお話かしら」と静かに訊ねれば、メラルニアは待っていたとばかりに、さらにその笑みを深める。「早く戻れ、とのことでしたものね。お教えしますわ」と、嬉しそうに答えた。
「一つは簡単ですわ。ザイル殿下の望むものを与える代わりに、わたくしの望みを叶えてもらえば良いだけ。わたくしと、貴女の立場を入れ替えて貰うの。とっても簡単な取引だわ。そしてもう一つは、他の国では有り得ないお話かもしれませんが……。この国ではね。他の方のご夫君であろうと、自らの傍に侍らせることを許される女性が、唯一人おられますの」
とてもとても、楽しそうな声音で呟かれた言葉。
それは一体どういうことだろうと、ラテルティアは小さく首を傾げる。誰かの夫であっても、自らの傍に侍ることが許される。つまり公然と不倫が認められている者がいるということだろうか。普通に考えればそのようなことが認められるはずもない。高位貴族の当主が愛人を持つことさえも、今の時代ではあまり褒められたことではないというのに、その逆、なんて。
だが彼女の言う通り、自分が知らないだけかもしれないともまた、思う。確かにこの国のことを学んで来てはいたけれど、自分はまだこの国に来てひと月にも満たないのだ。この国特有の決まり事や、公然の秘密などがあるというならば、知らないことがあっても不思議ではない。
ふふ、と楽しそうに笑うメラルニアに、「それは、どなたですの」と素直に問いかける。彼女はその笑みをそのままに、「少し考えてみれば、分かるでしょう?」と呟いた。
「この国で唯一、夫の他に公式寵夫と呼ばれる方の存在を認められているお方。……皇帝陛下の妃、正妃陛下ですわ」
「ザイル殿下や、ジェイル様に聞いてみてくださいませ」と、彼女は何故か、勝ち誇った様子で続けた。
「正妃陛下は、皇帝陛下が側妃を設けた時、自らの意志で皇帝の子を為さないことを望めば、寵夫と呼ばれる存在を生涯に一人だけ設けることが出来るのです。これまでに寵夫を得た正妃陛下は、皇帝陛下の子をお一人設けた後、その権利を行使される方が多かったようですわ。そして、正妃陛下に望まれた方は、拒むことを許されませんの。……次期皇帝陛下は、現皇太子殿下のエリル殿下。わたくしはもちろん、エリル殿下の婚約者候補になっていると父から聞いておりますわ。それがどういうことか、お判りでしょう?」
にっこりと微笑むメラルニアは、おそらく誰が見ても美しいと感じるだろうと、ラテルティアは思った。余裕のある、貴族の淑女らしい微笑み。
けれど、彼女は知らないだろう。他でもないラテルティアが、エリルの婚約者候補の振り落としを命じられていることなど。
こうして堂々と最初から仰られる方だもの。エリル殿下の婚約者になんて、絶対に相応しくない。本来ならば、すぐにでもこの方は婚約者候補から外してしまいたいのだけど。
公爵家の令嬢を初っ端から振り落とすことは、さすがに出来ないだろう。これから、自分の名で彼女たちを茶会に招待することになる。しかも、明らかに高位貴族の令嬢たちばかりを、わざわざシーズン終了後にタウンハウスに残すよう、皇帝からの指示を仰いでまで。それがどういうことなのか、分からないものなどいないはずだ。
そのような場で、筆頭貴族の令嬢である彼女を早々に振り落としてしまえば、どのような報復を受けるか分からない。下手をすれば、ザイルにもその被害が及んでしまうかもしれない。軽々しく切り捨てられる相手ではないと、ラテルティアもまた理解していた。
しかしそもそも彼女の話は、いくつもの条件が重なって始めて成り立つもの。万が一彼女が正妃に選ばれたとしても、エリルが側妃を得なければ何の意味もないのだ。そこまで考えれば、ほとんど有り得ない話だと言っても良い。むしろなぜ彼女がこれほどまでに、自信のある態度を取っているのかが不思議なくらいである。
だから、本来ならば気にする必要もないのだと、分かってはいるけれど。
先程、お二人が少し話しただけで嫌でしたもの。本当にザイル殿下がこの方の公式寵夫になったらなんて、考えるのも嫌……。わたくし、心が狭いのだわ。きっと。
そんな自分に少しだけ呆れながら、ラテルティアは小さく息を吐いた。
「……キルナリス公爵令嬢。お話は分かりましたわ。もうザイル殿下の元に戻っても良いかしら?」
話は終わっただろうと思い、そう問いかける。彼女が自分を連れ出したのは、つまり宣戦布告のためなのだろうから。これ以上言葉を交わしても、気分が悪いだけであろう。お互いに。
最後まで表情一つ変えることのなかったラテルティアに、メラルニアは少しだけ恨めしそうに、ぴくりとその眉を動かした後、「ええ、大丈夫ですわ」と答えた。
「せいぜい、ご寵愛をお大事になさいませ。……今だけ、でしょうけれど」
ふふ、と笑った後、彼女はその場で踵を返す。暗いバルコニーから、眩い会場内へと戻ろうとして。
「ああ、そういえば」と、彼女は一度だけ、こちらを振り返った。
「ザイル殿下の実のお母君。現皇帝クィレル陛下の正妃、今は亡きルミネア陛下にも、おられましたのよ。公式寵夫。聞いてみるとよろしいわ。……それを理解しているザイル殿下ですもの。もし自分が選ばれたなら、断ることはないでしょうね」
「真面目な方ですから」と、微笑みながら言い残し、今度こそメラルニアは姿を消した。
一気に静まり返った月明りの下、もう一度深く息を吐き、ラテルティアもまた夜会の会場へと足を踏み入れる。すでに分かり切っていたのだ。このようなことが起きることなど。
キルナリス公爵令嬢のお話は、あまり気にしなくて良いと思いたいですけれど。……そもそも殿下はこのフィフラルの第二皇子ですもの。頭も良くて、将来は宰相という立場を得ることがすでに決まっている方。隣国から来た婚約者なんて、この国の令嬢たちからすれば、邪魔なだけなのだから。
そう、分かってはいるけれど。
「……だからと言って、ザイル殿下が他の方の傍にいる姿なんて、見たくないですわ」
自分でも呆れるけれど、見たくないものは、見たくないのだ。自分勝手な我が儘かもしれないけれど、ザイルの傍に寄り添うのは、自分だけでありたい。だから。
この国で、ザイル殿下の婚約者としての地位を確立して、少しでも殿下の力になりたい。殿下に護られてばかりではなくて、わたくしも、殿下のためになれるような婚約者にならなければ。
そのためにも、まずはフィフラル皇帝、クィレルから与えられた仕事を、彼の納得する形で終わらせなければ。
明々とした会場のほぼ中心。こちらに気付いてほっとしたような笑みを浮かべるザイルの元へと戻りながら、ぐっと手のひらを握り込み、ラテルティアは心の中で決意を新たにした。
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