第3話 独り占め。

 ひくりと、頬が引き攣る。慣れない笑みを浮かべ続けているものだから、顔が笑みの形に固まりそうだった。


「殿下がお幸せそうで、見ている私たちも嬉しいものですな」


「そう言って頂けると有難い。伯爵やご夫人のように仲の良い夫婦になれるよう、精進していきたいものだ」


 ははは、と口先だけの笑い声をあげて、挨拶に来た伯爵夫妻と言葉を交わし、次の挨拶客へと顔を向ける。皇宮の大広間で舞踏会が始まり、ラテルティアとの婚約を父、クィレルが発表してから一時間近く、延々とこの調子である。正直な話、疲れてきた。


 兄上の婚約発表ならまだしも、何で俺の婚約でここまで……。いやまあ、兄上が皇太子になって、俺が叔父上の跡を継ぐことが決まったから、だろうが……。


 そろそろ解放して欲しい。真面目に。

 挨拶をしてくる貴族たちに言葉を返しながら、ちらりと、傍らで自分と同じように挨拶を受けているラテルティアの様子を覗う。柔らかな淑女の笑みを張り付けた彼女の顔は、一見すればそれほどいつもと変わりないけれど。ザイルは僅かにその目を細める。言葉の切れ間に交じる吐息に、笑みの端に見える視線を落とす仕種。

 「ラテルティア」と、挨拶に訪れた相手が背を向けると同時に、軽く身を屈めるようにして、彼女の耳元に声をかける。ラテルティアはきょとんとした顔で、名前を呼んだザイルを見ていた。


「少し疲れたから休みてぇ。行くぞ」


 言うが早いか、彼女の手をエスコートように、それでいて僅かに力を込めて握りながら歩き出す。次に挨拶をしようと待っていた相手が少し驚いた顔をしていたが、にこやかに笑って、「すまない。少し疲れたから、休む」と伝えれば、呆気に取られた様子で頷いていた。

 一度控室に戻ろうかと思ったが、この舞踏会の主役が完全に姿を消すわけにもいかず、開け放たれた窓の方へと向かう。舞踏会の時にバルコニーに出るのが、いつの間にか習慣になっているような気さえして来た。


「誰も彼も同じ挨拶ばっかでつまらねぇだろ。もっと気の利いたこと言えねぇのかあいつら」


 ラティティリス王国の学園で、毎回足を運んでいたあの場所よりも一回り広いバルコニーに出て、ザイルは軽く伸びをしながら隣を歩いていたラテルティアに声をかける。「せめて違うこと言えよ」とぼやくザイルの様子に、彼女は驚いたような顔になった後、くすくすと笑っていた。

 「でも、同じことばかりだからこそ、良いこともありますわ」と、言いながら。


「皆さんが同じ挨拶ならば、わたくしたちも同じ挨拶を返せば良いだけですもの。考えなくて良い分、楽ですわ」


 「ね?」と首を傾げてくる彼女が浮かべるのは、先程までの仮面のような淑女の笑みではなく、心底楽しそうな微笑み。つられたように小さく笑って、「まあ、考えようによっては、そうかもな」と、ザイルは応えた。

 ラテルティアが本日身に着けているのは、彼女には珍しい真紅のドレス。当たり前だが、事前にザイルが贈ったものである。誰が見ても分かるだろう、ザイルの瞳の色のドレスは、あからさまな独占欲の象徴。やりすぎだろうかとも思ったが、身に着けたラテルティアの姿を見て、そんな考えは吹き飛んでしまった。

 血のように赤いドレスを着て、優雅に微笑む姿はあまりに艶やかで。彼女を部屋まで迎えに行った時は、いつまでも眺めていられる、なんてらしくもなく見惚れていた。

 月明りの下に照らされる彼女は、銀色の長い髪に光を纏っているようにさえ見える。白い素肌もまた、きらきらと輝く彼女は、その光に溶けてしまいそうで、しかし身に纏う自らの色が、彼女のその身を繋ぎ止めているかのような高揚を覚える。そう考えて初めて、自分は浮かれているのだと気付いた。彼女を正式な婚約者として、皆に披露することが出来たことを。

 以前の自分が見たならば、どう思うだろうか。馬鹿げているとでも言って嗤うだろうか。

 挨拶をしてきた貴族の中には、以前の自分との変化に驚きを隠し切れていない者も多く見えた。それほどまでに、自分はラテルティアに対してのみ、向ける表情が違うのだろう。先日エリルにも言われたが、気を付けねばならないと、僅かに苦笑を漏らした。


「……ザイル殿下。気を遣ってくださって、ありがとうございます」


 ふと、ラテルティアがぽつりと呟いて、ザイルはそちらに顔を向ける。申し訳なさそうな顔を向けてくる彼女に、一体何のことを言っているのかと首を傾げた。特に気など遣った覚えはないのだが。

 そんなザイルの様子にふふ、と笑いながら、「殿下には、些細な事だったのかもしれませんわね」と続けた。


「先程、わたくしが疲れているのを見て、挨拶を切り上げてくださったでしょう? 殿下がわたくしの様子を確認しているのには、気付いておりましたから。……まだ大丈夫だと思っておりましたが、そんなに疲れているように見えましたか?」


 少し困ったような顔で訊ねてくるラテルティアに、どう返事をするべきかと考えて。本音を言えば、その通りだったのだが。

 思うも、「いや」と、ザイルは首を横に振る。「確かに、お前はまだ大丈夫だったかもしれねぇな」と続けた。


「だが、俺が疲れたんだよ。言っただろ。……お前に気を遣ったわけじゃねぇから、気にすんじゃねぇ」


 ぽすんと、整えられた髪を乱さぬよう注意して、その頭を撫でた。ラテルティアはぱちぱちと瞬きをした後、またふふ、と笑って頷く。おそらく、こちらの考えなど、彼女にはお見通しなのだろう。

 嬉しそうにはにかむ様子が愛らしく、気付けばそのこめかみに口付けを落としていた。頬や唇は化粧を施しているからと、無意識に避けたようだ。変な所だけ気が回るのだなと、我が事ながら笑ってしまった。


 舞踏会とは言っても、今日の俺とラテルティアの予定は主に挨拶を受けることだけだからな。シーズン最後の夜会だから、ファーストダンスは父上と義母上が踊っていたし、少し休憩を挟んだら、また会場に戻らねぇとな……。


 心底面倒臭いと思いながら、月明りに照らされた庭を眺めるラテルティアの肩へと手を伸ばそうとして、動きを止める。正面から抱き寄せれば、化粧が服について後がまた面倒だろうと考えて。

 ならばこっちからなら良いかと、彼女の後ろに回り、縋りつくようにその細い身体を抱き込んだ。「ザイル殿下?」と、少し驚いた様子でラテルティアが呟くのが聞こえた。


「疲れたって言っただろ。このくらい許せ。……本当だったら、さっさと引っ込んで膝枕でもしてもらいてぇのに、我慢してんだから」


 呻くような声を漏らしながら、銀色の髪に頬を寄せる。会場は女性客のきつい香水の匂いで充満していたものだから、彼女の髪から香る甘い花の香りにほっと息を吐いた。

 ラテルティアは擽ったそうに笑って、腹部に回ったザイルの腕に触れる。「あと少し、頑張ってくださいませ」と励ますように言われて、「んー」とやる気のない返事を零した。

 眩しいほどの灯りに満ち溢れた会場は、月明りに慣れた目にはやけに煌びやかで眉を顰める。ザイルとラテルティアが会場に戻ったことに気付いた者たちは、また二人が姿を消す前にと、慌てた様子で挨拶に訪れていた。

 一人、また一人と言葉を交わし、顔が引き攣りそうになるのを必死に耐え、時折、ラテルティアが心配そうに腕に触れてくるのだけを励みに、これも仕事だとひたすらに笑みを浮かべて。

 挨拶を待つ貴族の姿がほとんどなくなった頃、「ザイル殿下」と声をかけて来たその人物に、この夜会が始まって初めて、ザイルはその笑みを一瞬だけ消した。恰幅の良い、白髪交じりの茶色の髪と、同じ色の口ひげを蓄えた、中年の男。満面の笑みを浮かべたその姿に、ザイルは消し去った笑みをまたその顔に張り付ける。「キルナリス公爵」と、ザイルは彼の名を呼んだ。


「もう来ないかと思っていた。珍しいな。貴殿がこのような場に遅れて現れるのは」


「いやはや、少々面倒な仕事が残っておりまして、慌てて片付けてきたところです。この度はご婚約、おめでとうございます」


 にこにこと笑いながら言うと、キルナリス公爵は僅かに身を傾け、背後にいる誰かに「ほら、お前もご挨拶を」と声をかける。彼の大きな身体に阻まれて見えなかったが、後ろに誰かがいたらしい。

 まさか、と思いながら現れたその姿に、思わずうんざりとした溜息を吐きそうになった。公爵が伴っているのだから、当たり前と言えば当たり前だが。

 「ザイル殿下」と呼びかけてくる声は鈴のように可憐で、その儚げな容姿と相俟って、庇護欲をそそられる者も多いだろう。まあ、残念ながら自分はそこには入らなかったが。

 父親と同じ茶色の髪に、長い睫毛に縁取られた翡翠色の大きな瞳の少女。このような祝いの場にも関わらず、その愛らしい容貌に哀しげな表情を浮かべる彼女に、ザイルは声をかけるべきだろうかと内心で溜息を吐いた。かけないわけにもいかないと、分かっていたけれど、面倒なものは面倒だし、嫌いなものは嫌いなのである。

 仕方なしに、「久しぶりだな。メラルニア嬢」と声をかければ、彼女は一層哀しそうな顔をして、「本当にお久しぶりですわ」と、小さく呟いた。


「前にお会いしたのは、一年半前、ですわね。急に姿を消されて、どれほど心配したか……。お手紙くらい送ってくださいませ」


 はらはらと涙を流し始めたメラルニアに、ひくりと頬が引き攣る。だから嫌なんだ。この女の相手をするのは。自分に都合が悪いことが起きた場合、すぐにこうして涙を流し始め、縋り付いて来る。婚約者であるラテルティアの手前、さすがにそのようなことはしなかったが、面倒臭いことに変わりなどなかった。しかも、だ。


 ……こいつら、ラテルティアの方を見ようともしねぇのな。


 彼女の姿さえも目に入らないというようなその態度に、腹が立たないはずもなく。ザイルはメラルニアの言葉に返事をしないまま、「キルナリス公爵、メラルニア嬢」と二人の名を呼んだ。


「先程、陛下が発表した時にいなかったから、分からなかったのだろう? 俺の婚約者の、ラテルティア嬢だ。俺が望んで陛下に許しを請い、婚約が叶った。ラティティリス王国の公爵家の次女で、俺の一つ下になる。これからはこのフィフラルに住み、来年には結婚するつもりだ。よろしく頼む」


 か細いラテルティアの肩を抱き寄せ、見せつけるようにして紹介する。ラテルティアは少し驚いた様子だったが、すぐに気を取り直した様子で、「初めまして」と笑みを浮かべていた。


「この度ザイル殿下と婚約する運びとなりました。ラテルティア・レンナイトと申します。お見知りおきくださいませ」


 元々が王太子の婚約者として教育されていたためか、キルナリス公爵たちの態度に気圧されることもなく、ラテルティアはふわりと優美に礼の形を取って見せる。堂々としたその様子にザイルが笑みを深めれば、キルナリス公爵とメラルニアが驚いたように自分とラテルティアを見比べていた。

 と、メラルニアが僅かに唇を噛むような素振りを見せる。ちらりと父親の方を見上げ、そしてまたザイルの方へと向き直り、ふんわりと、微笑んだ。


「ねぇ、ザイル殿下。わたくし、ラテルティア様と少し二人でお話させて頂きたいですわ。よろしいでしょう?」


 両手を胸の前で組み、小首を傾げるようにしてメラルニアは訊ねてくる。挨拶に対する返事をするでもなく、今度は一体何なんだと思った。その言葉の内容に、ザイルが頷くはずもないというのに。

 「いや、俺とラテルティアはまだ、招待客への挨拶があるから無理だ」と、きっぱりとザイルは断りの言葉を告げる。今のこの状態でさえ、ラテルティアに対する態度が明らかにおかしいのだ。二人になどするはずがない。そう思ったのだけれど。

 「私からもお願いします」と、キルナリス公爵までもが声を合わせて困ったように笑った。


「娘は今日、殿下の婚約者の方と話すのを楽しみにしておりましたので。それに、私も少しで良いので、殿下とお話させて頂きたい。挨拶を待つ方も、我々の後にはあまりおられないようですからな。……どうですかな、レンナイト公爵令嬢」


 そう、キルナリス公爵はラテルティアへと問いかける。その様子に、思わず舌打ちをしたくなった。いくら第二皇子の婚約者といえど、ラテルティアはまだこの国に来て日が浅く、その上彼女はあくまでも他国の公爵令嬢。この国で最も力を持っている公爵家の当主の言葉に、逆らえるはずがない。そう、思ったのだけれど。

 ラテルティアはキルナリス公爵とメラルニアの二人に視線を遣った後、にっこりと微笑んで、こちらに顔を向けた。「構いませんわ」と言いながら。


「公爵様も殿下とお話のようですし、わたくしも、こちらの方とお話してみたいですもの。ええと、お名前を伺ってもよろしいかしら。先ほどから、わたくしには誰も教えてくれませんの。貴女のお名前」


 名前を教えてもらう価値もない人なのだろうか、とでも言うように、ラテルティアはどこか挑戦的な笑みをメラルニアへと向けていて。呆気に取られるも、思わず笑ってしまう。そういえばそうだった。彼女は自分がラティティリス王国に訪れた際、ザイルがフィフラル帝国の第二皇子であり、どのような人物かを理解した上で、唯一自分を恐れずに言葉を返して来た。今と同じ、挑戦的な笑みを浮かべて。彼女はただ、護られているだけの女ではない。

 案の定メラルニアは、驚いたような顔でラテルティアを見ていて、僅かに頬を引き攣らせて、「メラルニア・キルナリスと申しますわ」と名乗っていた。


「キルナリス公爵の次女で、ザイル殿下とは幼い頃から親しくさせて頂いてますわ」


「そうでしたの。一年半も何の連絡もなかったとのことですが、淋しかったのでは? わたくしも、殿下に仲の良い方がいると知っていましたら、お手紙の一つくらい、書くべきではないかと申し上げましたのに」


 表情を繕って言うメラルニアに、ラテルティアはそう言って困ったように微笑む。つまりは、婚約者である自分に伝える程、親しい間柄ではなかったのだろうと、彼女は言いたいのだろう。メラルニアが僅かに悔しそうな様子で、ラテルティアを睨んでいた。

 この様子ならば、二人にしてもそれほど問題はないだろうか。だがやはり、心配なものは心配なのだが。

 逡巡するザイルの内心に気付いたのか、ラテルティアはザイルの腕に触れて、こちらを見上げて来た。「ザイル殿下、大丈夫ですわ」と柔らかく微笑んでいて。

 一つ息を吐き、頷く。彼女がそう言うのならば、自分には止めることなど出来はしなかった。


「分かった。ではメラルニア嬢。ラテルティアはまだこの国のあらゆることに対して不慣れだ。不都合がないように。キルナリス公爵、話というのはここでも問題ないか?」


 訊ねれば、キルナリス公爵は「もちろんでございます」と頷く。その横で、メラルニアは「では、わたくしたちはあちらで」と、先程までザイルたちが足を運んでいたバルコニーを示し、ラテルティアに声をかけていた。


「では、ザイル殿下。お話が終わりましたら、戻りますわ」


「ああ。早く戻れ。お前が傍にいないのは、つまらねぇからな」


 言って、ラテルティアの手を取り、その指先に口付ける。「もちろんですわ」とはにかむ彼女がメラルニアと共に去って行くのを見ながら、ザイルはさっとその視線を、招待客たちの間へと投げた。

 本日は貴族の令息として招待されていたジェイルが、ザイルの視線に頷き、歩き出す。ラテルティアのことを信用していないわけではないが、ただただ自分は、彼女に対して過保護なのだろう。これもある意味では、独占欲なのかもしれない。


 ……ラテルティアに嫌われねぇ程度にしとかねぇといけねぇんだろうが……。まあ、このくらいは、な。


 そんなことを思いながら、ザイルは傍らに一人残ったキルナリス公爵へと視線を戻した。

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