言の葉の木

 サイトウが目を覚まして始めにさわるものはカーテンと決まっている。スマホにはきっといつものように催促のメールが来ているだろうから、次にふれるのはやかんであるとも決まっている。やかんに水を入れコンロにかけると顔を洗いに向かう。歯を磨くサイトウに今日も昨日と同じような憂鬱が訪れるのかという不安が押し寄せるが、ちょうどその頃には「ピーーーー」という湯の沸く音が響いてくれる。サイトウはポットに茶葉を入れ、沸きたての湯を注ぎ3分待つ。この間にティーカップを温めておく。3分ピッタリにポットを傾けると、注ぎ口から赤く透き通り黄色に光る液体がカップに降りていく。そしてぶわっと華やかなにおいが立ち込めたかと思うと周囲を優しく包みこんだ。


 サイトウはティーカップを持ち机に向かう。机の上には白紙とペンがばらばらと置かれ、奥の方にはぐちゃぐちゃに丸められた紙が2つ3つ転がっている。紅茶を一口飲んで机のはじの方に置き、代わりに転がっていたペンのひとつを手に取った。白紙の上に置かれていた視線は、次第に丸めた紙のしわをなぞり、宙をさまよった挙句、スマホの画面に落ち着いた。


 スマホには3通のメールが届いていた。ひとつはヨシダからだった。

サイトウとヨシダは歌手である。サイトウが歌い、ヨシダが主にギターを演奏する。それに準じて、曲づくりでもサイトウが作った歌詞にヨシダがメロディをつけることになっている。今年はプロデビューして8年目だが、3年目に深夜ドラマの主題歌に抜擢されて以降主な成果はない。

ヨシダからのメールは、


『歌詞、どうかな。

サイトウががんばってくれてるのは知ってるんだけどさ、事務所からの連絡もあって・・・。でも絶対俺たちならもう一度やれるはずだと思う。』


という優しいものだったが、今のサイトウには胸をかきむしりたくなるものだった。残りのメールを確認すると2通とも事務所からの連絡で、最新のものには近いうちにヒットを飛ばさないと契約を解除するという残酷な内容が書かれていた。なるほど、ヨシダが言っていたのはこれかと思うと同時に、歌手をやめなければならないかもしれないことがすごく怖くなった。


 さすがのサイトウもスマホを置き、3時間ほど机に向ってみたが、焦りで歌詞が書けるならとうに書いている。その頃には紅茶もすっかり冷めていたので、気分転換に散歩に出ることにした。


 サイトウの家は東京のはずれの方にある。ビルもあまりなく自然が感じられるこの地域は、カフェや雑貨屋を開業しようとする人たちに目をつけられあちこちにおしゃれな店ができている。もちろん商店街や昔ながらの古本屋などもあって、それらがうまく共存している街の雰囲気がサイトウは好きだ。


 サイトウの散歩にはある程度コースがある。本屋に行くコース、公園に行くコース、口だけ体から飛び出したような男が落書きされている壁に行くコース。今日は本屋に行くことにした。


 商店街のはじの方にある本屋に向かうため、街を歩いているとサイトウと同じくらいの歳の私服の奴が歩いていて、平日の昼間にめずらしいなと思い、自分に言えたことではないなと思う。はずれといってもやはり東京は特殊な街で、昼までも私服で歩く若者をよく見かける。


 本屋に着くと、新刊をチェックしたり雑誌をパラパラめくってみたりする。その記事の中に、最近事業を大きく拡大しているIT企業の社長へのインタビューが載っていた。上部にはでかでかと「貧乏 産婦人科助手から一転!超大金持ちへ」という品のない見出しがついており、きらきらと夢を語るこの社長の意志は全く汲み取られていないように感じた。同じ言葉を紡ぎだす仕事でも必死に考えて誰にも見てもらえない自分と、こんなキャッチコピーで飯を食い一流企業に在籍しているであろう誰かを比べてむなしくなり、店を出た。



 本屋をでて、家に帰ろうかと思ったが、紙屑とペンが散らばっている机の上の惨状が頭に浮かぶと足は自然と反対方向の小さな路地へと踏み出していた。本屋への散歩にはよく来るサイトウだったがこの路地の方へはあまりきたことがなかった。本屋がある通りの古い町並みと新しい店たちが共存したおしゃれな雰囲気は全くなく、じめじめとしていて暗かった。しかし、社会にはじき出されたように感じているサイトウにはその道がすごく心地よく、道の続く限り歩いて行った。


 路地を抜けると、少し開けた通りにでた。さすがにサイトウもそろそろ引き返さなければならないという気持ちになり、もと来た道を戻ろうとしたその瞬間、ふわっといい香りがした。それはサイトウが毎朝嗅いでいる紅茶の香りに違いなかったが、それよりももっと濃厚で華やかで澄みきっていた。音楽以外の趣味といえばもっぱら紅茶であるサイトウは、茶葉にもこだわりがあり、それなりのものを飲んでいたつもりだった。しかし今サイトウを包む香りはサイトウの紅茶に対する自信を打ち砕き、代わりに圧倒的な好奇心を芽生えさせた。


 サイトウは足早に香りのする方へ行ってみると、花屋についた。花屋とわかったのは「山本花屋」と古めかしい看板に書いてあるからで、店先においてあるのはたくさんの小さい木や観葉植物、観賞用の苔、サボテンばかりであり、一見したところサイトウの知っている花屋と同じであるとは思わなかった。


 よく見ると店は奥の方に続いており、中に進んでみるとたくさんの種類の茶葉が小さな袋に入れて売られていた。それぞれの袋は売り場の真ん中に置かれているぼろぼろの細長い机や、壁に取り付けられている棚に並べられていた。一緒に透明なケースも置かれており、中には香りを試すための袋に入っていない茶葉が入れられていた。路地まで香るくらいの茶葉がところ狭しと並べられているのに、透明なケースを開けるまでは不思議とどの茶葉の香りも沈黙を貫いていた。紅茶に目がないサイトウは一心不乱にそれぞれのケースを手に取り嗅いでいった。シンプルな香りやスパイシーな香り、甘い香りや渋い香り、どれもどこか懐かしくけれども新鮮な香りだった。


 どれくらいの時間が経ったのか、気が付くと後ろに白髪の男が立っていた。エプロンをつけておりどうやら店主らしい。サイトウが何か言おうか迷っているとその店主が口を開いた。「あなたが探しているのはそんなものじゃないでしょう。」店主はしかめっ面でそう言って店のさらに奥の方へ入っていった。


 サイトウは迷ったがついて行ってみると、店の奥にはさらに部屋があった。部屋の真ん中には机があり、机を取り囲むように部屋の四方の壁はすべて棚になっていた。棚にはすき間なく小説や絵本、雑誌や漫画、レコード、カセットテープ、CDなどさまざまなものが詰められており、もしこれらが棚からあふれ出してくればサイトウと店主もろとも埋められそうだ。それぞれのタイトルを見てみても「将棋の指し方」、「The Beatles 2th album」「柏三洋の現代落語!」などといった脈絡のないものばかりで、そんなものばかりがきっと1000はあるだろう。すべて店主のコレクションなのかと思ったとき、店主は机の上の方を指さした。


 そこには、茶色い鉢に入った30センチくらいの小さな木が置かれていた。初めから目には入っていたが観葉植物だと思い全く気にしていなかったのでどういうことかと思っていると、店主は「あなたが探していたのはこれでしょう。」と無表情で言った。サイトウは意味が分からなかった。またもやサイトウがぽかんとしているので、店主はすこしめんどくさそうに「言の葉の木です。」といった。店主はもうサイトウに反応は求めなかった。


「この木はこう見えても樹齢100年は優に超えているんです。もしかしたらその2倍か、10倍かもしれない。その間木は一切の水を必要としません。けれど、代わりにいろんな言葉を聞いて育つんです。ここにある一本は私の祖先にあたる5代前の店主が譲り受けてからはずっと古今東西の音楽を聴かせ、多様なジャンルの本を読み聞かせてきたものです。」


 サイトウは店主の言っていることはわかるのだが、よく理解ができなかった。そもそもなぜ自分にこんな話をするんだろう、運気が上がる等とうそぶいて高額で売る気でいるのではないか、といった考えが頭を巡ったが、それに反して店主は次のように言った。


「あなたにこれをお貸しします。ただし1年だけです。私は木と一緒に様々な作品の世界を味わってきましたが、そのうちにもっとすごい作品に出会いたいという思いが日に日に高まり、胸を焦がしているのです。どうか、1日1枚この木が落とす“言の葉”を煎じて飲んで下さい。きっとあなたの助けになります。」


 そして店主は半ば強引にサイトウにその木を持たせたのだった。そして帰り際、

「必ず落ちた葉だけをその日に煎じるようにしてください。」と言った。


 夕方家についてもサイトウはなんだか狐につつまれたような気持ちでふわふわとしていたが、おいていったスマホにはまた何通かのメールが来ているのがわかり、窓辺においた言の葉の木なるものをちらとみてから、酒を飲んで寝た。


 次の日起きると、サイトウはまずカーテンを開けた。そしてスマホには目もくれず、お湯を沸かし始めた。顔を洗い、ポットに茶葉をいれようと思った時にあの木のことを思い出した。窓辺の木に近づき、木の根元をよく見るとたしかに1枚、葉が落ちていた。不思議なことに落ちた葉だけは枯れたように、というかむしろ茶葉であるように見えた。サイトウはそんなはずはないと思ったけれども、まるで緑の葉が揉捻、発酵などの過程を全部通ってきてそこにあるような気がしてならず、飲んでみたいという気持ちを抑えきれなかった。


 サイトウはポットにその1枚の茶葉をいれた。お湯を入れて3分待っている間にも1枚の茶葉とは思えない濃厚な香りが蓋のすき間から立ち込めている。3分経つのとサイトウが待ちかねてそのポットを傾けるのはほぼ同時だった。


 茶色とも赤色ともつかない深い深い褐色の液体が、朝の光を反射しながらカップに吸い込まれていく様子にサイトウは見とれた。そして、蒸らしている間に漏れ出ていた濃厚な香りは、今では不思議と軽やかにサイトウを包んだ。それはまるで映画を観た後の余韻というか、小説を読んだ後に胸に広がる何かに似ていて泣きたくなったが、そこには至極の1杯がサイトウを待ち構えるように湯気をくゆらせていただけであった。


 サイトウは朝のルーティンを大切にする男だ。一般の社会の動きと離れたミュージシャンという働き方をしているからこそ、朝だけでも世の中の流れに乗っておきたかった。そこでサイトウははやる気持ちをどうにか抑え、いつものように、カップを持ち机に向かった。椅子に腰を下ろし、体制を整え深呼吸をするとカップに口をつけ、1口飲んだ。


 気持ちの焦りからか紅茶を冷ますことも忘れて飲んだので熱、と反射的に思ったが、次の瞬間、サイトウの中に抑えきれない感情が生まれた。いや、感情という言葉は適切ではないかもしれない。たくさんの言葉の羅列が、意味を持たない言葉の羅列がサイトウの頭に流れ込み、よくわからないのになぜか胸は突き動かされた。その衝動をサイトウは抑えきれなかった。一番近くのペンと紙をひっつかみ、筆を走らせた。


 サイトウの目の前には空になったティーカップとたくさんのメモ書きがなされて真っ黒になったたくさんの紙とペンがあった。1枚のメモの中に歌詞と思わしき言葉の羅列を見つけた。サイトウは疲労感で重くふらつく体を何とか動かし、スマホを手に取った。やっとのことでヨシダにその歌詞を送ると同時に気絶するように眠った。


 目を覚ますと窓の外は紫色になっていて時計の針は5時過ぎを指していた。これが朝であるか夕方であるかわからなかったが、太陽が重たそうに少しずつ下がっていたので夕方と判断しほっとした。言の葉の木に何か聞かせようとラジオをつけると3日も経っていたことが分かり唖然とした。スマホにはメロディができたというヨシダからのメールが来ていた・


 さて、半年が過ぎた。


 サイトウがあの日書いた歌詞による曲は異例の大ヒットを飛ばした。一気に有名人になったサイトウとヨシダのもとにはいくつものライブ出演のオファーや楽曲制作の依頼が来ていた。2人は来るもの拒まず、どんな依頼でも受けた。サイトウはあの紅茶を飲めばいくらでも歌詞が書けたし、ヨシダもそれを喜んでくれた。


 しかし、いつからか歌詞をヨシダに渡してからメロディができるまでの時間が長くなった。ヨシダはもともと天賦の才と言えるくらいには作曲の才能があった。しかしこれだけ多くの曲をつくることは今までなかったので疲労も蓄積していたし、アイディアも尽きかけているようだった。また、ネットではサイトウの作詞の才能にヨシダの作曲は見合っていないなどとささやかれ、実際に別の人間からタッグを組まないかという誘いも多かったがサイトウは断りつづけていた。


 やがてサイトウは2人の曲を誰にも文句をつけられたくないと思った。ヨシダを守るために自分が完璧な歌詞を書こうと思った。店主が帰り際に言っていたことはなぜか頭にこびりついて覚えていたのだが、それを破り、毎日落ちてくる言の葉だけではなく、まだ枝についている葉さえもむしり取った。何枚もの葉を煎じた茶はずっしりと甘苦く口に入れた瞬間に脳に電流が走ったようになった。それからは記憶が1週間飛ぶこともざらにあったが、2人の曲はだれにも文句をつけられなくなった。


 そろそろ言の葉を飲みだしてから1年が経とうとしていた。2人の曲は売れなかった。サイトウは何も書けず、何も語れなくなっていた。どうにかして書いた曲もこの世のすべての曲の最大公約数のようなチンケな歌詞でファンもスポンサーも離れていった。


 言の葉にラジオや音楽を聴かせるだけの日々に、突然インターホンがなった。玄関を開けるとあの店主だった。サイトウは何度もあの花屋に行こうと思ったのだが、そもそも同じ路地すら見つけられず途方にくれていた。そのためすぐさま状況を説明しようと思ったが、


「ない、の、voicや、かしyで、愛…」


と意味不明な音声を発するしかできなかった。


 伝わらないだろうと思っていたが、店主は初めからサイトウの状況を分かっていたようで、表情を変えずにこう言った。

「1年が経ちました。あなたたちの素晴らしい作品に私もとても楽しませてもらいました。ただ悲しいことに1つ1つの色を味わうことがなければ、どれだけ美しい色を重ねても黒になってしまうことは世の定めなのです。」


 そして店主はサイトウの横を通って言の葉の木を抱えると、そのまま出ていった。


 それからのサイトウは徐々に言葉を話せるようになった。そして2人は小さなライブハウスで少しずつファンを取り戻していった。


 あの本屋の売り上げは増したらしいが、あのあたりで鉢を抱えた者を見たものは一人もいない。

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レジの店員の話 秋野清瑞 @rirontohouhou

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