第43話 ナイスボール

 観客は審判の真似事を頼んでいる土原玲菜がひとりだけ。そこかしこから昼休み特有の騒がしさが届いてくる中、淳吾はマウンド上にいる相沢武と打席内で対峙した。


 無様な結果に終わっても、クラスメートたちには醜態を晒さずに済む。もしかして淳吾の正体に気付きつつある相沢武が、気をきかせてくれたのかもしれない。けれど残念ながら、一番格好悪い姿を見せたくない女性が側にいた。


 勝負から逃げたいとは思わない。以前は最初から三振するつもりだったが、今の実力が多少上向きつつある淳吾の目にはどう映るのか確認したかった。


 両手に持った借り物の金属バットの先端を肩に乗せ、背筋を伸ばして立ったままで相沢武がマウンド上で勝負開始の合図を出すのを待つ。その時はすぐに訪れた。


 改めて1打席勝負だと告げてきたあとで、マウンド上の相沢武がゆっくりと振りかぶる。前に1回だけ見ているはずだが、当時の記憶はほとんど残っていない。あるのは、真っ直ぐがとても速かったという印象だけだ。


 投球動作に入った相沢武の動きを観察しながら、相手の足がマウンドへつく前に淳吾がタイミングを取っていた左足を上げる。ほとんど初対戦も同時のピッチャーと対する時は、まず自分が一番しっくりくるところで打撃動作に入ろうと決めていた。


 相沢武が腕を振り下ろす前に打席内へ足を下ろし、スイングをするための準備に入る。幸いにして安田学みたいな独特のモーションではないので、比較的手の出所は見えやすい。


 これならなんとかなるかも。淳吾がそう思った直後だった。相沢武の指先から放たれた硬球が、まるで唸るようにホームベースの上を通過した。


 安田学の真っ直ぐよりも速いと想定してタイミングを取っていたが、相沢武のストレートはそれを遥かに超えていた。体感速度はバッティングセンターの140キロよりもずっと上だ。


 軟球と硬球の迫力の差などを引けば150キロ出てることはないと思うが、140キロは超えてるんじゃないかと感じるストレートだった。


 速い、速すぎる。淳吾がバッティングセンターで積んできた練習など、まったく役に立たないと思い知らせるには十分すぎる威力とスピードの1球だった。打席内で確認すると、これほどまでに凄いのかと淳吾は半ば感動すら覚えた。


 打てるかどうかと問われれば、胸を張って打てませんと答えるしかないレベルだった。最近になって野球を始めた淳吾が、いきなりどうにかできる類のボールではない。


 ど真ん中を通過したのが土原玲菜にもわかるくらい甘いコースだったのに、ロクな反応を示せなかった。安田学には申し訳ないが、ことストレートに関しては相沢武の足元にも及ばない。


 現役で野球をしている投手の球はひと味違うだろうと予測してはいたが、よもやここまでとは思ってもいなかった。淳吾がヒーローになるためには、このレベルのボールをどうにかする必要がある。


 ネットに勢いを吸収されたボールが地面に転がるのを確認したあとで、相沢武がマウンドの横にある小さなカゴから新しい硬球を取り出す。これでワンストライなと言われたので、承知してると返すために頷いてみせる。


 淳吾は相沢武の情報をろくに知らないので、真っ直ぐ以外にどんな球種があるのかは不明だ。それならいっそ、真っ直ぐだけに狙いを絞るべきだろう。中途半端に色々考えず、ストレートを打つという点だけに集中する。


「軟球と硬球じゃ、迫力がまったく違うだろ。軟式でホームランを打てたとしても、硬式じゃそうはいかない。ボールに対する慣れというのは、どんな選手にも絶対に必要なんだ」


 2球目を投じる前に、右手でボールを握ったままの相沢武がマウンドから力説してくる。それを聞いて淳吾はピンときた。


 相沢武は淳吾の実力を疑ってるのではなく、硬球と軟球の差を教えた上で危機感を煽り、積極的に野球部の練習へ参加させようとしてるのだ。


   *


「いくらお前に才能があったとしても、それだけでなんとかできるほど硬式は……高校野球は甘くないっ!」


 それを言うなら、いくら実力があっても軟式出身の1年生が……とも続けられるのだが、あえてそのへんは言わないでおく。下手に相手の怒りを買っても仕方ないからだ。


 淳吾が何も言わないでいると、軽くため息をついたあとで相沢武が2球目を投じる動作に入る。チラリと横目で土原玲菜の様子を確認すると、彼女は彼女で真剣な顔つきをして勝負を見ていた。


 安田学のような独特なフォームではなく、まるで投球のお手本みたいな綺麗な投球動作。腕の出所の見やすさがどうであろうと、それ以上のボールを放れば関係ない。相沢武の投球モーションがそう語っていた。


 どんな変化球を所持してるかわからない以上、正体不明のボールを待っても意味がない。淳吾が狙うのはあくまでも相手の真っ直ぐだ。先ほどと同じようなタイミングで足を上げつつ、見せてもらったばかりのストレートを意識しておく。


 バッティングセンターの140キロよりも、安田学のキレのあるボールよりもずっと速いストレートに狙いを絞り、全神経を相手がすぐに投じてくる直球に集中させる。


 ボールが見えてからスイングしていたら間に合わないので、相手の腕が見えるか見えないかのタイミングで左足を反応させる。この時点で打席には上げていた足が戻っており、あとはどこでスイングを始動させるかが問題になる。


 あれだけ速い真っ直ぐを打とうと思ったら、変化球は頭から捨てないと駄目だ。瞬間的に淳吾はそう判断した。どんな変化球があるのだろうと思ってるだけでも、反応は遅れる。


 さっきの1球目でわかった。その程度の迷いでさえも、相沢武の球を打つには致命的なミスになる。


 スイングに入っているバットを持つ両手に力が入る。同時に相沢武の指から放たれたボールが視界に映る。真っ直ぐにタイミングを合わせていた両肩が、直後にピクンと反応する。


 ボールの高さが1球目よりも高い。それにあれだけ速かった真っ直ぐの割には、淳吾の位置まで接近してくるスピードが遅い。この感覚には覚えがあった。安田学との勝負で、ストレートを待ってる際に変化球を投じられた時のものだ。


 カーブか! 心の中で舌打ちをしても、すでに淳吾の脳は肉体に真っ直ぐへ合わせたスイングを命じている。途中で止まれるわけがなく、すでに体も開いていて、あとはバットを出すだけの状態だった。


 このままでは空振りをしてしまう。瞬間的に理解した淳吾は、打席に足をつけたまま胴体だけを巻き戻すようにホームベース側へ捻った。尋常じゃない違和感に「くっ」と声が漏れるものの、予期してなかった変化球へ対応するにはこれしかなかった。


 元から考えていたわけではない。本当は安田学との対戦時みたいに、堪えてからバットを振ろうとした。間に合わないと察したがゆえの反射的な措置だった。


 とてもホームランなんて打てるようなファームではなくなってしまったが、バットへ当てられる確率をゼロよりは上にできた。しかし淳吾はあえてスイングせずに、ストライクコースを通過する相沢武のカーブを見送った。


 これでツーストライクとなり、安田学と対戦してた時みたいに淳吾は相手投手に追い込まれてしまった。不幸中の幸いだったのは、相沢武の持つ真っ直ぐ以外の球種を見られた点だった。


   *


 安田学と違って「これで追い込まれたな」なんて軽口は叩かない。普段のキャラは何なのかと思えるくらいに、マウンドに立っている相沢武の顔つきは真剣そのものだ。ふざけようとするそぶりすらなく、対峙してると怖いくらいだった。


 これまでの人生であまり経験した覚えのない迫力とプレッシャーを感じながら、淳吾はバッターボックス内で構える。それに呼応するかのように、相沢武もマウンド上で振りかぶる。


 流れるような投球フォームからしなやかに伸びた腕が、鞭のようにしなって空気を切り裂く。腕と同様に伸びやかな指先から放たれるボールのキレはまさに極上。失礼ながら、安田学では比較対象にならないくらい素晴らしい。


 以前にも打席で対戦した経験はあるが、当時は最初から打てないとわかりきっていたので、バットを振るつもりすらなかった。そのため、どんなボールだったのかは正確に覚えていなかったのだ。


 それが今回まじまじと見せてもらって、その凄さに脱帽しそうになった。たった2球見ただけで、早くも淳吾は相沢武のファンになりつつある。プロにいけるような選手とは、こういう人間なのだろう。本気でそう思うくらいに相沢武の実力は凄かった。


 どうして中学時代は埋もれていたのか。詳しい理由は本人からも聞いていたが、勿体無い限りだ。とはいえ、今回の勝負に相沢武の過去は関係ない。余計な考えを頭の中から追い出し、淳吾は打席内で集中力を高める。


 左足でタイミングを取ると同時に、下半身の力を上半身へ伝達するための準備を開始する。待ち球は当然ストレート。カーブや他の変化球が来たら、その時になんとか対応していくしかない。


 本来なら追い込まれてるのだから、すべての球種を頭に入れた上で対峙すべきだった。しかし相沢武のストレートの凄さを目の当たりにすれば、そんな中途半端な待ち方ではどうしようもないのがわかる。


 三振を覚悟した上で追い込まれても、狙い球を絞り続けたバッティングをするしか活路は見出せない。そう判断したからこその対応で、変化球が来て三振をしてしまったら諦めるしかなかった。


 そんな淳吾の心配をよそに、相沢武の指から離れたボールはあっという間にホームベース付近にまで到達しようとしていた。真っ直ぐに狙いは絞っていたものの、今回もまた想定を上回る速度のストレートが投じられた。


 タイミング的にスイングはできそうだったが、あえて淳吾は今度もまたバットを振らずにボールを見送った。3球勝負にきていたところを見ると、恐らくはストレートが相沢武の決め球になるのだろう。


 相沢武が3球目に選んだ真っ直ぐはきちんとストライクコースを通過していたので、淳吾はこれで三振となる。同時に敗北も決定となるも、悔しさはほとんどなかった。


「ナイスボール」


 悔しがる素振りも見せず、笑顔で淳吾はマウンドにいる相沢武に声をかける。すると今度は怒ってるかの様子を相手が見せてきた。


「どういうことだ。今回もまた見逃し三振をするなんてよ」


 怒気を含んだ言葉を発しながら、相沢武がマウンドから淳吾のいる方へ近づいてくる。一触即発のような雰囲気に少しだけ焦るも、見守っている土原玲菜には動揺してる感じはなかった。


 もしかしたら、淳吾よりも度胸があるのかもしれない。そんなことを思ってる間にも、相沢武はすぐ近くにまでやってきた。


 再び「どういうつもりだ」と尋ねられた淳吾は、悪びれもせずに答える。


「仮に俺が打ったとしても、そっちが状態を崩すだけで、こっちに得は何もないだろ」


 借り物のバットを相手に手渡しながら、ついさっき考えたばかりの台詞を口にする。こんな言い訳が咄嗟に浮かんでくるあたり、やはり淳吾にはお調子者の才能があるのだろう。

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