第42話 1打席でいいから勝負をしてほしい

 早朝の教室で、淳吾は「ふわあ」とひとつ大きな欠伸をする。今日も今日で朝からハードスケジュールだったので、肉体が疲労してるのは当然だった。おかげで安田学との5打席勝負を経験できたのだから、疲れは残っていても精神は充実している。


 朝の練習を終えてから急いで自宅へ戻り、軽く汗を流してから登校の準備をしている最中に土原玲菜が迎えに来てくれた。淳吾と交際中の恋人で、わざわざ朝におにぎりを作ってきてくれる。


 サンドイッチなども十分に美味しいだろうが、朝は体力をつけたいのでもっぱら米派だ。そんな淳吾にとって、手軽に食べられるおにぎりは最高の朝ご飯になる。


 行儀こそ悪いものの、道中でおにぎりをご馳走になりながら、今日もきちんと登校できた。しかし朝から動いたあとでご飯を食べ、お腹が一杯になれば眠くなるのが人間。淳吾も例外ではなかった。


 居眠りしそうになるのを堪えながらなんとか講義を受け、休憩時間になると短い仮眠をとる。たった5分程度だったとしても、淳吾には最高の癒しタイムになる。


 心身の疲労を解消するのには、やはり睡眠が最適だなと思いつつ、昼になれば中庭で交際中の女性――土原玲菜の手作り弁当をご馳走になる。ハムスターみたいにもふもふと頬張り、瞬く間に持ってきてもらった弁当をすべて平らげる。


「ああ、美味しかった。ご馳走様でした」


「お粗末様でした。でも……凄い食欲ね」


 俺が空にした弁同箱をテキパキと片付けながら、若干驚いた様子で土原玲菜が声をかけてくる。そうかなと返したものの、実際に食欲が旺盛になってるのは淳吾自身も理解していた。


 夜に加えて早朝でも体を動かしているので、想像以上にエネルギーを消費しているのかもしれない。その分だけ肉体が食料を欲してるだとしたら、現在の状態も理解できる。


「少し多めにしてきたつもりなのだけど……まだ足りないみたいだったわね」


 知らないうちに量に対する不満が顔に出てしまっていたのか、お腹がまだまだ満杯になってないのがいともあっさりバレてしまった。慌てて「大丈夫だよ」と言ったものの、言葉どおりに受け取ってくれるような女性ではなかった。


 すぐに食べかけの自分のお弁当を差し出して「これでよかったら……」と言ってくれる。確かにお腹は空いているが、いくらなんでも他人の弁当を横取りしてまで満たそうとは思わなかった。


「それは玲菜さんの分じゃないか。俺はいいから、自分で食べなよ」


 でも……と言いかけたところで、土原玲菜は一旦口を閉じた。これまでの付き合いで、淳吾がそう簡単に考えを変える人物ではないと理解できているのだろう。


 なんとなく始まったような交際ではあるけれど、淳吾も土原玲菜も少しずつお互いを理解し始めてるのかもしれない。それが妙に嬉しく思え、油断すると満面の笑みを浮かべそうになってしまう。


 そんな淳吾に気付かず、しばらくひとりで考え込んでいた土原玲菜だったが、再び自分の弁当箱を差し出してきた。


「それなら……これを半分ずつ食べましょう。私も満足できるし、淳吾もきっと満足できるわ」


「い、いや、そういう問題でもないような……」


 どちらにしても土原玲菜の食べる分が減ってしまうのだから、申し訳ないという気持ちを抱くのに変わりはない。


「そう……やっぱり、私が食べかけのを渡されるのは嫌よね。ごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げてきた土原玲菜の言葉が、グサリと胸に突き刺さる。淳吾は神経質ではないので、誰かの食べかけであってもわりと平気で口にできる。


 しかもそれが交際中の女性のとなれば、大喜びとまではいかないものの、普通に受け取って食べられる。食べ残しを人に渡すのかと、怒ったりするような性格はしていなかった。


 もしかして変な誤解をされてしまったのではないか。土原玲菜のお弁当を食べてしまう罪悪感よりも、段々とそちらの不安が勝ってくる。これでいいのかと、発生中の動悸が淳吾に警告する。


「お、俺たちは付き合ってるんだ。食べかけが嫌だなんて、思ったりしないって。ただ、玲菜さんの食べる分が少なくなるから、申し訳なくてさ」


「それなら気にしないで。それこそ私たちは付き合ってるんだもの。変な遠慮はしないでほしいの」


 そう言って静かに微笑むと、改めて土原玲菜は淳吾に自分の弁当箱を手渡そうと腕を伸ばしてくる。


   *


 いつまでも断り続けるのも逆に申し訳なくなってくる。しかし、素直に「ありがとう」と受け取るのも躊躇われる。せめてもう1回くらいは断っておこうと、淳吾は再度「申し訳なくて受け取れないよ」と返した。


 これで諦めてくれればいいのだが、何故か土原玲菜はどうしても淳吾に自分の弁当を食べさせたいみたいだった。セオリーどおりなら、このあとは大体「私はもうお腹一杯だから」という展開になる。


 それを言われたらますます困るので、掟破りかもしれないが、淳吾は先手を打って「玲菜さんはまだお腹一杯じゃないよね」と言っておく。自分を気にしなくていいから、普通に食べてほしい。心からそう願うものの、やはり土原玲菜に諦めるような気配はない。


 しばらく考えるような様子を見せていた土原玲菜が、いいことを思いついたとばかりに古典的な手を叩くポーズをした。それさえも可愛いと思えてしまうくらい、彼女の容姿は相当に優れている。


「申し訳なくて受け取れないのなら、私が食べさせてあげる」


「……はい?」


 すぐには、相手の言ってることを理解できなかった。何がどうなってるのか考えてる間に、土原玲菜は自分の箸で掴んだおかずのたこさんウィンナーを「はい」と淳吾に差し出してくる。


 もしかして、食べさせてくれようとしてるのだろうか。相手の意図に気付いた瞬間、信じられないことに淳吾は自分の顔が真っ赤になっていく音を聞いたような気がした。


 今は昼休みで授業が行われていない。ここは中庭で、多数の学園生たちがそれぞれの昼食をとっている。当然ながら人目は多く、その中で容姿抜群の土原玲菜は相当に目立つ。


 元々が私立群雲学園で人気の高かった女性なのだ。誰とも交際しないので有名だったのが、とある事情により淳吾へ告白してきた。それ以来、2人揃って注目される機会が増えた。


 淳吾が何かを言うより先に、周囲がザワつき始める。一緒に仲睦まじくお弁当を食べているだけでも周りの――特に男たちからのやっかみが凄い。そんな状況下で、美貌の女性にお弁当を食べさせてもらおうとしている。


 安田学との5打席勝負の際に感じていたのよりも大きなプレッシャーで、淳吾の喉がカラカラになる。こんなチャンスは滅多にないとドキドキしてるにもかかわらず、照れ臭さからすぐに応じられないでいる。


 安田学との勝負で、何事も気持ちが大事だと学んだはずだ。懸命に度胸を出そうとする淳吾だったが、額や頬に汗が流れるばかりで好機を掴めないまま時間だけが過ぎていく。


 このまま昼休みが終わり、何事もなかったかのように教室へ戻るはめになるのか。そう覚悟し始めた時、またしても土原玲菜が破壊力抜群の台詞を口にする。


「うっかりしていたわ。黙って差し出すのは失礼よね。それじゃ、改めて……はい、あーん」


「あ、あーん」


 据え膳食わぬはなんとやらではないが、これ以上相手の好意を無にするわけにはいかないと、淳吾は覚悟を決めて土原玲菜の誘いに乗る。顔が若干ニヤけ気味になってるが、こればかりはどうしようもない。


 中庭にいる学園生たちに好奇の視線でじろじろ見られながら、淳吾は土原玲菜に彼女のお弁当を食べさせてもらう。あれだけ申し訳ないからと断っていたくせに、なんとも無様な結果だった。


 しかし、安田学の決め球とは比較できないくらいのキレを誇る、土原玲菜の魔球のごとき攻撃の前では淳吾の我慢などないにも等しかった。


 興奮のしすぎで鼻血が出ないか心配しつつ、淳吾は結局、土原玲菜の弁当箱に残っていたおかずやお米をすべて平らげてしまう。


 そして改めて淳吾は実感する。やっぱり自分は、いつの間にか土原玲菜という女性を心から好きになっていたのだと。


   *


「やれやれ。相変わらず仲がいいよな」


 ラブラブかバカップルになるのかは周囲の評価に任せるとして、昼食を終えた淳吾は幸せな気分のまま、中庭で土原玲菜と一緒に食休みをとっていた。


 そこへふらりと突然現れたのが、私立群雲学園の野球部に所属する男子生徒で、エースピッチャーを務める相沢武だった。


 また勧誘に来たのかと思っていたら、いきなり「付き合ってほしい」と頼まれた。男と交際するつもりはないと冗談を言えるような雰囲気ではなく、いつになく本気の顔つきだったので思わず頷いてしまう。


 ひとりでとは言われなかったので、土原玲菜も同行する中、相沢武が案内したのは野球部のグラウンドだった。マウンド上には幾つかの硬球が、小さなカゴに入って置かれていた。


「俺と1打席でいいから勝負をしてほしい」


 前にも似たような展開になったが、その時は淳吾の見逃し三振で終わっている。バットを振っても、当たる気がしなかったのでわざとそうして化けの皮が剥がれるのを防いだのだ。


 何を考えてるのかはわからないが、とにかく相沢武は再び淳吾と勝負したいみたいだった。昼休みのグラウンドは他に誰もおらず、以前みたいに観客の存在を気にする必要はなかった。


 とはいえ、実力のなさをもっとも知られたくない女性が側にいる。着ている制服が汚れる可能性もあるので、勝負は避けたい。後者を理由にして申し出を拒否する。


 烈火のごとく怒りまくるとばかり思っていたが、相沢武は淳吾を怒鳴りつけるどころか、丁寧に頭を下げてきた。どんな思惑があるにせよ、ここまでされて拒否をするのは良心が痛む。


 それでも悩んでいると、今度は土原玲菜が「勝負、してあげないの?」と尋ねてきた。見上げられるような角度で、どことなく潤んでるような瞳で見つめられると、ますます申し訳なく思えてくる。


「……わかったよ。ただし、1打席だけ。それでいいなら、勝負するよ」


「あ、ああっ! それで構わない。すぐに準備するから、バットは好きなのを使ってくれ!」


「そうするけど……大丈夫なのか? 肩も作らずに投球なんかして」


「その点は大丈夫だ。昼飯もそこそこに、一度肩を作ってるからな!」


「……なるほど。要するに、最初から勝負をする気満々だったというわけか。もしかして……グルじゃないよね?」


 側にいる土原玲菜を見ると、彼女は無実だとばかりに顔を小さく左右にフルフルと動かした。疑われたこと自体を驚いているような感じだった。


 それならいいんだと謝ったあと、改めて相沢武にも土原玲菜が関係ないのを教えられた。彼はずっと、淳吾と再戦したいと願っていたらしい。それもギャラリーがいない場所での真剣勝負を。


 マウンドへ移動する相沢武の背中を眺めたあと、ベンチへ移動した淳吾はそこにあったバットの中から、源さんから貰ったのと似通ったサイズのを選ぶ。


 もしかしたらこれらのバットも、事前に相沢武が用意していたのかもしれない。そうまでして勝負をしたいと思ってもらえるのは光栄だったが、生憎と淳吾には期待してもらってるほどの実力はなかった。


 ホームベースの後ろにネットを設置し、その近くで土原玲菜にストライクかボールかを公平にジャッジしてもらう。飛んだコースによってヒットか凡打かを決める。


 1打席勝負の内容を決めたあと、打席に入った淳吾はマウンドで待っていた相沢武と対峙する。

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