第14話 恋人だから、一緒に帰る
「ただし……」
本当かと喜ぶ土原玲二に、淳吾は強めの口調で条件を告げる。
「俺はあくまで籍を置くだけだ。練習にも、試合にも参加するつもりはない。それが嫌なら、野球部を辞めさせてくれ」
これが淳吾にできる最大の譲歩案だった。
練習にも試合にも出ない部員に意味はない。単なる在籍者の人数を増やすだけで、決して戦力にはならないからだ。
しかし淳吾が意を決して試合に出たところで、戦力になるどころか足を引っ張って終わりだ。それならばいっそ、試合に出ないのが一番の手助けになる。
「でも、それだと……」
「……いや。それでいい」
姉の土原玲菜が抗議しようとしたのを制して、弟の土原玲二が淳吾の条件を呑んだ。
意外そうにする土原玲菜に微笑んだあと、土原玲二は淳吾へ丁寧に頭を下げた。
「野球部へは、こちらが無理に入れたのも同然なんだ。籍を置き続けてもらえるだけでありがたい」
相沢武は直情的な面が多いものの、バッテリーを組む土原玲二は理性的な人物に思える。
もっとも、それゆえに上手くやれているのかもしれない。これが似たような性格なら、どこかで衝突していたはずだ。
基本的に投手は我侭だと聞くので、きちんと受け入れてやれる人間が捕手に向いているのかもしれない。あくまで淳吾の個人的感想にすぎないが。
「それでいいなら、俺も文句はないよ」
野球部に在籍してるだけで嘘はバレず、なおかつ美人な彼女もできる。まさしく一石二鳥……というのとは少し違うかもしれないが、とにかく淳吾にとっては得ばかりだ。
土原玲菜は何かを言いたげだが、弟の土原玲二が承諾してしまっているので、口を開けないでいる。
少しかわいそうな気がするけども、淳吾だって騙まし討ちも同然で野球部へ所属させられたのだ。一方的に悪者にされる筋合いはなかった。
「ただ、気が向いたら練習に参加してくれると嬉しい。お前はもう、俺たちの仲間なんだから」
「……考えとくよ」
これ以上、状況が悪くなる前に淳吾は中庭から退散しようとする。
この分では土原玲菜と親交を深めるどころではなかったし、放課後になってまた状況が変わるというのも考えられる。
なにせ淳吾は野球部へ入っただけで、練習や試合に参加しないと公言したのだ。
交際してまで淳吾を野球部へいざなった土原玲菜からすれば、不本意極まりないはずだった。
「晴れたグラウンドで、野球をやって汗をかくのは気持ちいいぞ」
「熱中症になる危険があるから、遠慮しとくよ」
立ち去り際に背中へ届いてきた声を叩き落し、淳吾はひとりで中庭から校舎内へ戻る。
淳吾の申し出を土原玲二があっさりと了承したのには、もちろん理由がある。
とりあえずは無理強いをせずに入部させておき、事あるごとに誘って練習そして試合へと導くつもりなのだ。
簡単ではないかもしれないが、現状を維持するよりはずっと可能性が高くなる。
淳吾の想像どおりだとしたら、あの場だけで瞬時にそこまで考えを発展させた土原玲二は、やはりかなりの策士だった。グラウンド内の司令塔に相応しいだけの洞察力と思考能力を所持しており、実直そうな性格も他者から信頼を集めるには十分だ。
とはいえ、淳吾も簡単に練習や試合に参加するつもりはなかった。そんな真似をしたら、すべてが水泡に帰してしまう。
例え土原玲菜と破局しても、それはそれで野球部からは解放されるのでよしとする。少しだけ悲しくなるだろうが、もともと淳吾には縁のない高嶺の花だったと諦めるしかない。
当初の計画どおりにアルバイト先を探し、改めて高校生活に彩を与えてくれる異性の恋人を見つけるつもりだった。
*
本日の授業も終わり、待ちかねた放課後がやってくる。ご多分に漏れず、他の学生同様に淳吾も勉強があまり好きではなかった。
中には勉学が楽しいと目を輝かせる者もいるが、淳吾にはいまいち理解できない。もっとも好き嫌いは個人の価値観によるものなので、否定するつもりはさらさらなかった。
入学当初の計画では私立群雲学園に慣れた頃に、アルバイト先を探そうと考えていた。ところが野球部騒動の件で、とても曖昧な状態になっている。
どこぞの喫茶店でウエイターとして働きながら、そこの娘さんと……みたいな漫画的展開も期待したりしたが、実現する目処はまったく立っていない。
さて、帰るかと思っていたら、予想外の事態が起きた。同じクラスの女子生徒、栗本加奈子が淳吾を呼びにきたのである。
「仮谷っち。美人の彼女が来てるよ。モテモテだね」
「は?」
「は? じゃなくて。恋人が迎えに来てるって言ってるの。一緒に帰るんでしょ?」
「あ、ああ……」
笑顔でからかってくる栗本加奈子に、淳吾は曖昧な返事しかできなかった。
昼休みの件があったので、てっきり淳吾とはもう係わりあいにならないと勝手に考えていた。
自身を犠牲にしてまで野球部に所属させた男。つまりは淳吾が、練習どころか試合にも参加しないと宣言したのだ。
落胆するか、もしくは怒り狂って恋人関係を破棄したとしても、何ら不思議はなかった。にもかかわらず、土原玲菜は昨日と同じように教室まで淳吾を迎えに来ているらしい。
教室から出る。廊下では、確かに土原玲菜が淳吾を待っていた。
誰の目から見ても美しい女性だけに、黙って立っているだけでも多くの視線を集める。
しかも男子だけでなく、女子まで見惚れてるほどだ。十人並みという形容がピッタリと当てはまる淳吾には、羨ましい限りだった。
「今日はどうするの」
淳吾の姿を見つけた土原玲菜が、優雅にしか見えない足取りで近寄ってきつつ、そう声をかけてきた。
その光景を見ていた他の学生たちが、小声で「あいつが彼氏かよ」とか「羨ましすぎだろ」なんてやっかみや野次と受け取れる発言が飛んでくる。
淳吾がお調子者だからかどうかは不明だが、これまでの人生で味わった経験のない優越感に包まれる。
好意のない交際なんてと思っていながらも、きっぱりと相手女性を突き放せないのは、こういった理由もあるかもしれない。
考えれば考えるほど自分が駄目人間に思えてくるので、一旦頭の中を空っぽにして土原玲菜と向かい合う。
「普通に帰るよ」
「わかった。なら、私も一緒に帰る」
すんなり頷いた土原玲菜に意地悪をしてみたくなり、淳吾は「グラウンドへ行かなくていいの」と尋ねてしまう。
「寄らなくていい。私は淳吾の恋人だから、一緒に帰る」
あまりにも一途な態度を見せる土原玲菜に、淳吾は戸惑いを覚える。
果たしてこのままでいいのかと不安になり、自分がとてつもなく不名誉な行為をしてるように思えた。
とはいえ、野球の実力がない淳吾が、部活に所属して活躍するというのは夢物語にすぎない。効率的な解決策は、最初から存在しないも同然なのだ。
二人で校舎を出て、昨日と同じ帰り道を歩く。何を話したらいいのかわからず、淳吾は終始無言だった。
会話をしようとは思っているのだが、経験不足が災いして口を開くことすらできなかった。
そのうちに淳吾の家へ到着した。なんとなく気まずかったのもあって、淳吾は「じゃあ、ここで……」と土原玲菜と別れる。
昨日みたいに半ば強引に家へあがりこむこともなく、土原玲菜は素直に頷いて「さようなら」と告げる。
歩き去る土原玲菜の背中を見送りながら、淳吾は心が締めつけられるような苦しさを感じた。
*
家の中でひとり考える。どうしてこんなことになってしまったのかと。
はっきりしてるのは、完璧なまでのまぐれと淳吾のお調子者ぶりが災いしてる点だ。
体育の授業なんかで特大のホームランを打たなければ、野球が得意だなどと騒がれたりもしなかった。
「はあ……まいったな……」
自分以外に誰もいない部屋で、淳吾は小さく呟いた。
一緒に吐かれたため息が、窓から入り込む夕日に照らされて輝いたように見えた。
何をする気力もわかず、淳吾は床で体育座りをしたまま、沈みゆく夕日を窓から眺めた。
夕暮れから夕闇に変わり、そして夜になる。時間に合わせて鳴りだしたお腹で我に返り、淳吾は冷蔵庫に食材が残ってなかったのを思い出す。
昨日は土原玲菜が料理をしてくれたが、今日は淳吾ひとりだ。待っていても、夕食がテーブルの上に出てきたりはしない。
「近くのコンビニでも行くか……」
スーパーで食材を購入して、自分で調理する意欲もない。そんな時に、コンビニエンスストアというのはかなり便利だった。
制服姿のまま着替えもせずに外出し、とぼとぼと暗くなった街中を歩きながらコンビニへ向かう。
するとコンビニの前で、自転車に乗っている二人の男子生徒を見かけた。淳吾と同じ制服を着ているので、私立群雲学園に所属しているのだろう。
顔を知らないのだから、もちろん名前もわからない。現在の時点で淳吾とは係わりあいのない二人組だと思っていたところ、唐突に声をかけられた。
「あれ、仮谷君じゃない?」
「え?」
いきなり名前を呼ばれたので、戸惑い気味に淳吾は立ち止まった。
何度相手の顔を確認しても、やはり記憶の中にはない。一体誰なのだろうと首を傾げたくなるのを堪え、一応は笑みを浮かべて「ああ……」と応じる。
「あ、ごめん。僕のことなんて知らないよね。こうして話すのも初めてだし……」
申し訳なさそうにしながら恥ずかしそうにするという、なんとも珍しい表情を浮かべた男子生徒が小さく淳吾に頭を下げる。
「僕は伊藤和明って言います。隣にいるのは、春日修平君です」
自己紹介をしてくれた伊藤和明は、見るからにいいところのお坊ちゃんという感じだった。身長もさほど高くなく、痩せ型で気弱そうに見える。
その隣では対象的に体格の良い男子生徒が、淳吾を見て丁寧に頭を下げてきた。伊藤和明によれば、春日修平という名前みたいだった。
屈強そうな体格と強面さが相まっても、威圧感はまるで感じない。淳吾と話すのを拒絶してるわけでなく、基本的に無口なのだと伊藤和明が教えてくれる。
「僕たちは二人とも、私立群雲学園の野球部に所属しているんだ。仮谷君みたいに、相沢武君に頼まれてね」
「ああ……じゃあ、苦労したんだ」
淳吾の言葉に、伊藤和明が「まあね」と言って苦笑いを浮かべる。
「でも、今は野球が楽しくなってきてるんだ。僕は中学の頃から人見知りがちでね。友達もあまり多くなかった。それが相沢君のおかげでずいぶん変わったよ」
隣に立っている春日修平も、にこにこしながら何度も頷いた。どうやらこちらの男性も、野球部へ所属させられたのを後悔してはいないみたいだった。
「その恩返しじゃないけど、一生懸命取り組んでるうちに、本当に野球が好きになったんだ」
「……俺も、そう。だから、日が暮れるまで練習もしてる……」
これまで無言だった春日修平も、伊藤和明の応援をするみたいに言葉を続けてきた。
「僕や春日君だけじゃないよ。他の皆も、最初は半ば強引に野球をさせられたけど、今では本当に良かったと思ってるんだ」
「そうか。でも、どうして俺にそんな話を?」
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