第15話 お帰りなさい
「仮谷君と一緒に、野球がしたいからだよ」
伊藤和明と名乗った男子生徒は、少しだけ照れくさそうに頬を掻きながら言った。
「最初は嫌でも、野球部の仲間と一緒に練習していれば、すぐ馴染んで好きになるよ」
もしかしたら、土原玲二から野球部の面々へ、淳吾の待遇についての説明が説明されたのかもしれない。
もしくは当初から頑なに入部を拒んでいた淳吾の姿を見て、嫌がってると判断した可能性もある。
どちらにしても、淳吾が素直に練習へ参加しないのを見越しての発言だった。
「実は僕たち野球部の人数はかなりギリギリでね。仮谷君を入れて、ようやく10人になるんだ」
「それは、また……なんというか……」
道理で相沢武が、無理やりにでも淳吾を野球部へ所属させたがるわけだ。9人しかいなければ、誰かが怪我をした時点で試合続行が不可能になる。
野球規則でも定められているはずで、どこかのポジションが足りなくなってもいいから、なんて真似はできない。なので人数は多い方がいい。
ベースコーチを誰にするかも考えれば、最低でも12人程度は部員が欲しいところである。けれど私立群雲学園の野球部は、現在高望みできない状態にある。
そこで仮に試合へ出ないと宣言している選手であれ、ベンチには入っていてもらいたいのだろう。土原玲二が淳吾の無茶な条件を承諾した理由も、今になってようやくわかった。
「投手の相沢君と捕手の土原君は野球経験者だけど、他は全員初心者なんだ。だから、足を引っ張ってばかりで……」
申し訳なさそうに言ったあとで、何故か伊藤和明が目を輝かせる。嫌な予感しかしない淳吾に逃げる暇を与えず、驚くくらいの速度で間合いを詰めてくる。
「相沢君たちの足手まといじゃない経験者が入ってくれたんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
今にも両手を掴んできそうな伊藤和明からわずかに距離を取り、淳吾は「どうして?」と尋ねる。
「俺が選手になったりすれば、他の誰かが試合に出られなくなるよね。それでいいの?」
初対面の相手なので、できる限り丁寧かつ穏やかな口調で話す。その方が無駄に敵意を持たれなくて済む。
野球をするのが好きであればこそ、試合にも出たがって当然。そんな淳吾の考えは間違ってると言わんばかりに、伊藤和明は「もちろんだよ」と答えた。
「野球をやるのも好きだけど、一生懸命だからこそ勝ちたいんだ。恥ずかしい話、この間、やっと受けてもらえた練習試合でも大敗しちゃったしね」
よほど酷い敗戦だったのだろう。伊藤和明だけでなく、隣にいる春日修平までかなり落ち込んだ様子を見せる。
しかし、淳吾にはひとつの疑問が生じた。バッテリーが優秀であるなら、そこまでの大敗をするとは思えなかったからだ。
気になった点を素直に尋ねてみると、伊藤和明と春日修平の二人組はますます悲しそうな顔をした。
「相沢君や土原君は、本当に凄いんだ。それでも負けてしまったのは、僕たちのせいなんだよ」
相沢武の投げる球は確かに凄かったらしい。けれど、相手は同じ高校生で学年も上。全打席で簡単に三振をとれるはずもなかった。
とはいえ、完璧にバットの芯で捉えられたような強い打球は少なく、大半がボテボテのゴロや軽く打ち上げられた打球ばかりだったようだ。
「小学生でも簡単に処理できるような打球だと言われるような当たりでさえ、初心者の僕たちはまともに対応できなかったんだ。相手の安打数より、こちらの失策の数が多かったほどだからね」
投手にしてみれば打ち取ったと確信できるような打球を、後逸やら落球をしまくったらしい。そして惨敗という結果に繋がった。
「それでも相沢君も土原君も、僕たちを責めなかった。また次があると励ましてくれたんだ」
そう言う伊藤和明の目には、相沢武と土原玲二に対する尊敬がはっきりと宿っていた。
*
だからこそ、足を引っ張らないように伊藤和明たちチームメイトから頼みこんで、現在は守備練習を重点的にやってるという話だった。
「練習や試合をしてみて、改めて野球は守備が大事だと気づかされたんだ。特にうちのチームの場合はね」
優秀なバッテリー以外はすべて初心者。この状況で勝利を得るためには、きっちり守って失点を防ぎ、最小得点で勝利するしかない。
伊藤和明たちがやろうとしているのは実に合理的で、仮に淳吾がチームの監督だったとしても同じ方針をとっただろう。
しかし、守備が強化されたから、それで安心とはならない。どんなに凄い投手であっても、相沢武はまだ高校生なのだ。
プロの投手でも好不調の波がある。高校生が簡単に毎試合、絶好調を維持できるほど調整は簡単でないはずだ。
その点は初心者である伊藤和明たちも重々承知しているみたいで、自慢げだった表情がすぐに暗さに支配されてしまった。
「問題なのは、僕たちが打てない点なんだ。仮に相沢君が点を取られてしまったら、なかなか返せないと思う……」
淳吾の危惧した問題をそのまま口にしてきたので、やはりチーム全体で改善すべき点を理解しているのだとわかった。
ないものねだりをしても仕方がない。とにかく失点を防ぐのを最重要課題にして、全員で守備練習に取り組んでいるのだと推測できる。
「でも、仮谷君みたいな強打者がチームに入ってくれれば、相沢君も土原君も楽になるはずなんだ!」
ここが一番の強調すべきポイントだと言いたげに、淳吾の目の前に立っている伊藤和明が口調を強くした。
野球経験者である相沢武と土原玲二は、投手と捕手。それぞれに、かなり大変なポジションなのは淳吾でも理解できる。そこに打撃への期待も加われば、さらに難度が上昇する。
守備はある程度目を瞑れても、打線の中心を任せられる野手が欲しいと考えるのは当たり前。道理で、強打者と勘違いされている淳吾を熱心に勧誘してくるはずだ。
ここで「俺に任せておけ」と胸を張れれば女性受けもよくなるのだろうが、生憎と淳吾の評価は過大すぎるだけで、伴った実力など持っていない。
試合に出たりすれば即、周囲が落胆するだけの能力しか発揮できない。他ならぬ淳吾自身が、一番よくわかっている。
期待に応えられない以上、心象を多少悪くしても試合に出たがらない態度を貫くしかないのだ。仮に野球部が試合に負けたりしても、そもそも淳吾は強引に入部させられただけ。その点は相沢武も土原玲二も理解している。
だからこそ、徹底して淳吾が練習や試合に参加するのを拒絶すれば、無理やり出されたりはしないはずだ。かなり嫌われる結果にはなるだろうが、そこらへんは覚悟している。
失望と嘲笑の眼差しを浴びせられながら、三年間の高校生活を送るよりはずっといい。卑怯と言われようと、淳吾が自分を守るためにはこの選択をするしかなかった。
「悪いけど、俺は練習にも試合にも参加するつもりはないよ。籍を入れるだけでいいって条件だったしね」
相手をがっかりさせるとわかっていても、はっきりしておくべきところだったので、あえて正直に発言する。
本来なら何がなんでも誤解してると説明すればいいのだが、勘違いが大好きな周囲の人間たちのおかげで淳吾の試みはことごとく失敗している。
そこへ不特定多数の女性にチヤホヤされる。綺麗な女先輩と交際できるようになるなどの条件が合わさって、しっかり釈明できる機会を完全に逃してしまった。
現在の環境を失いたくないというスケベ根性のせいだ。あわよくば、このまま土原玲菜と交際を続けられるかもなんて思ってるのだから、余計に質が悪い。
冷静になれば自身の現状を嫌というくらいわかっているのに、女性陣の黄色い歓声に包まれたりすれば、すぐに忘れてしまう。土原玲菜を前にしても同様だ。
相も変わらぬお調子者だなとため息をついても、状況は変わらない。それにこれこそ、仮谷淳吾が仮谷淳吾である証みたいなものだった。
「仮谷君の話は、きちんと土原君から聞いてるよ」
微笑むような穏やかな笑顔で、伊藤和明がそう言ってきた。
にもかかわらず先ほどのような話をしたのは、淳吾の心変わりを狙った説得だったのかもしれない。
「仮谷君には仮谷君の事情があるからね。僕たちの都合だけを押し付けるわけにいかないのは、十分わかってるんだ」
淳吾が何も言えないでいると、伊藤和明が言葉を続けてくる。
「それでも……言わずにはいられなかったんだ。どうしても……どうしても、勝ってみたいんだ。皆で一緒に喜んでみたいんだ……!」
最初は半ば強引に入部をさせられたが、一生懸命練習しているうちに野球が好きになり、勝ちたいという意欲も芽生えた。
極めて真剣な目つきで伊藤和明、それに春日修平が淳吾を見ている。あまりの視線の重さに、押し潰されそうだった。
相手の熱い思いは伝わってきても、繰り返すとおり淳吾には応える力がなかった。どのような感情を抱こうとも、現実は頭で考えるほど甘くはない。
「そうか……なら、頑張って。悪いけど、俺には期待しないでほしいんだ」
申し訳ない気持ちで相手を見ているのも辛くなった淳吾は、夕飯の買物があるからとひとりでコンビニの店内へ入る。
背中を追ってきたのは、伊藤和明の「ごめん」という声だけで、しつこく付きまとわれるなんて事態にはならなかった。
店の前から中で商品を選ぶ淳吾を切なそうに数秒だけ見たあと、伊藤和明と春日修平の二人は自転車に乗って去って行った。
例えようのないもやもやした気持ちを抱えたままの淳吾は、商品を選ぶどころではなくなっていた。
適当な食料品だけをカゴに入れ、会計を済ませるとすぐにコンビニを出る。
「……俺には、どうにもできないよ……」
夜道を頼りなげに照らす街灯を見つめながら、誰にともなく呟く。
行く当てもなく彷徨った言葉が無残に地面へ落下したあと、淳吾は自ら踏みつけて岐路へつく。
思いどおりにならないことなんて、この世には幾らでも存在する。
立ち止まっては何回か首を振り、余計な思考を退散させたあとで再び歩を進める。けれど気がつけば、また足が動かなくなる。
不可思議な自分自身の行動に振り回されながら、淳吾が歩いていると、自宅の前で思いもよらない人物に遭遇した。
「お帰りなさい」
淳吾の部屋のドアを背もたれにして立っていたのは、交際中ということになっている土原玲菜だった。
両手でスーパーの袋を持っており、中には幾つかの食材が入っているようだ。
どうしたのか尋ねる前に、土原玲菜自身がこの場にいる説明をしてくれる。
「昨日、食材を使ってしまったし、帰りに買物もしていなかったから、気になって来てみたの」
立ち止まった淳吾に近づいてきた土原玲菜は、こちらが持っている袋の中をチラりと確認する。
入っているのはおにぎりや弁当ばかりで、見るからにひとり暮らしの男の食事という感じだった。
「来てみて正解だったようね。きちんと栄養に気を遣わないと体調を崩してしまうわ。私でよければ、夕食を作るから」
「それはありがたいけど、どうしてそこまで……」
「気にしないで。私と淳吾は恋人同士でしょう。お弁当や夕飯を作ってあげるのは当たり前……なのよね?」
「い、いや……そこで首を傾げて、俺に確認を求められても……」
とにもかくにも、土原玲菜は淳吾の家に夕飯を作りに来てくれたみたいだった。
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