第9話 恋愛感情はないわ

「貴方が野球部に入ってくれると助かる。でも、恋人が欲しいから入ってくれない。だから、恋人ができれば問題ない」


 日本語を覚えたての方ですかと問いたくなるような台詞で、土原玲菜が自身のとった行動について説明してくれた。


 どこに問題があるのと言いたげな表情だ。隣に座っている淳吾は、早くも何も言えなくなる。


 他人事みたいに、さすがは高校。色々な人がいるな、などと思ってみても事態は解決しない。


 とはいえ、淳吾が自分だけの力で現状をどうにかできるとは、とても思えなかった。


 そこで淳吾は、目の前に立ったままの男性へ助けを求める。土原玲菜の弟――土原玲二に。


「姉さん。仮谷君に、きちんと事情は説明していたのか」


 呆れたような、それでいて少し責めるような口調で土原玲二は自身の肉親に話しかける。


「説明? 何故、する必要があるの? 私は恋人が欲しいという彼の望みを叶えただけよ」


 確かに、言われてみればそのとおりだ。お弁当を食べる時にも、食べたら野球部への入部確定ね、なんて荒業を使われたわけではなかった。


 美人の部類に入る彼女に誘われ、夢見心地で手作りのお弁当を食べていたのは他ならぬ淳吾自身。決して巧妙な策を練っていたわけではなく、単純に淳吾へお弁当を作ってきてくれただけだ。


 淳吾と同じ結論に至ったらしく、彼女の弟の土原玲二も何も言えなくなる。


「ど、どうして、そんなに俺を野球部へ入れたがるんですか」


 こうなればと淳吾自らが口を開いたものの、緊張と戸惑いから声が震える。もしかしたら、結構なアガリ症なのかもしれない。


「好きだからよ」


 短く発せられたひと言に、淳吾の心臓がドクンとする。異性に、ここまでストレートに愛を告白されたのは初めてだった。


 ひと目惚れという言葉もあるとおり、相手の容姿にかかわらず、出会った瞬間に恋をするなんて現象はさほど珍しくない。


 これほどの美人に惚れられたとなると、ひょっとして自分は格好いいのではないかと自惚れそうになる。


「野球が」


「……ん?」


 頭の中とはいえ、暴走しかけている淳吾へ歯止めをかけようとするかのごとく、土原玲菜がぼそりと先ほどの台詞にひと言だけ付け足した。


 そうですよね、野球ですよね。自惚れてすみません。誰にとはなく、淳吾は心の声で謝罪をする。


 ここで終われば多少は救いがあったのに、何を考えたのか土原玲二が追撃をかましてくれる。


「じゃあ、姉さんは仮谷君のことは好きじゃないのか?」


「恋愛感情はないわ」


 きっぱりはっきりと否定されてしまっては、もはや淳吾は何も言えなくなる。


 何より居場所を失ったような感じがして、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。


「野球部のためだけに、仮谷君の恋人になろうとしてるのか」


 そこまで追い討ちをかけなくともと思うが、姉弟間の会話へ入れない淳吾は的確なツッコみひとつ口にできない。


「そうよ」


 今回もまた、迷いひとつなく土原玲菜が断言する。完璧なまでのビジネスライクな行動に、さすがの淳吾も開いた口が塞がらなくなる。


 どうしてこうなったと言うのを止めて、人知れずゆっくりと教室へ戻ろうとする。


 土原姉弟はまだ何か言いあっており、淳吾のことなどすでに視界から消え去ってるみたいだった。


 アホらしいとため息をつきながらも、食べさせてもらったお弁当のお礼は何にしようか考えてるあたり、淳吾もかなりのお人よしなのだろう。


 教室へ戻ると同時に、色々な人間から土原玲菜との関係について問われるも、淳吾はすべてノーコメントを貫いて自分の席に座る。


 どうせ今回の出来事は、あっという間に土原玲二の口から知れ渡るに決まっている。まるで不貞寝でもするかのように、淳吾は自分の机の上へ突っ伏した。


   *


 また色々と噂されるんだろうなと考え、憂鬱な気分のまま午後の授業が終了した。


 生徒たちが大はしゃぎする放課後になったものの、土原玲菜との一件について、あれこれ噂をしてる人間は誰もいなかった。


 安心しかけたところで、淳吾はちょっと待てよと警戒心を復活させる。


 単純に淳吾の知らないところで噂してるだけなら、話が聞こえてこなくても当然だからだ。


 なんとか確かめる方法はないかと思案している淳吾の席の側に、いつの間に来たのか問題の張本人こと土原玲菜が立っていた。


 淳吾や弟の土原玲二よりひとつ年上なので、昼休みに続いてわざわざ階段を上ってこの教室までやってきたのだ。


 熱心なことだなと思いつつ、淳吾は改めて考え事に没頭しようとした。


 ――ところで、慌てて土原玲菜の姿を再確認する。


 言葉もなく、驚きで目を見開くだけの淳吾を、立ったままの土原玲菜が黙って見つめる。


 ただならぬ雰囲気を察知したのか、男女問わずにクラスメートたちが何事かをひそひそ言い合っている。その中には、栗本加奈子も含まれていた。


 一緒にお弁当を食べた際に、恋人付き合いをするという話になったのだが、そこには予想もしてなかった思惑が隠されていた。


 弟の土原玲二から淳吾のことを聞いた姉の土原玲菜は、野球部へ入部させるため、昼休みに手作りのお弁当を持ってきた。


 恋人を作って、手作りのお弁当なんかを中庭あたりで一緒に食べたい。そうした願望のせいで野球部に入らないのであれば、叶えてあげればいいと判断したらしい。


 どうしてそうなったのかは不明だが、とにかく土原玲菜は淳吾と交際する意思があるみたいだった。もっとも、好意の有無に関してはきっぱりないと断言されている。


 いくら相手女性が美人とはいえ、そんな状況下で「やったね」と喜べるほどの能天気さはさすがの淳吾にもなかった。


 だからこそ昼休みには、話をしていた土原姉弟へ何も告げずに、ひとりでひっそりと教室へ戻った。


 置いてけぼりを食らった文句を言いに来たのかとも思ったが、相手の様子を見てるにどうも違うらしい。


 だとすれば、淳吾に一体どんな用があるのか。思いきって、尋ねてみる。


「あの……俺に何か?」


 恐る恐る尋ねた淳吾に、土原玲菜はさも当然といった様子で「一緒に帰る」と告げてきた。


 美貌の年上女学生が発したフレーズで、教室内がにわかにざわめきだす。


 昼休みの件もあり、好奇心旺盛な栗本加奈子がクラスを代表して土原玲菜に質問する。


「ええと、先輩。仮谷っちとは、知り合いなんですか」


 見知らぬ後輩から突然話しかけられたにもかかわらず、土原玲菜は嫌な顔ひとつせずに会話へ応じる。


「知り合いというより……恋人同士」


「ええ――っ!?」


 驚愕の声を上げたのは、栗本加奈子ひとりだけではなかった。


 先ほどの一緒に帰る発言の際よりも、教室内のどよめきは遥かに大きい。


 どうしてなんて思う隙もないくらい当たり前で、仮に淳吾が栗本加奈子の立場だったとしても、やはり仰々しいまでに驚いていたはずだ。


「こ、ここ恋人!?」


 とはいえ、栗本加奈子の取り乱しぶりは激烈だった。


 まさか彼女もまた、自分のことが……なんて考えたところで小さく肩をすくめた。そんなはずがないのは、聞くまでもなくわかっている。


 栗本加奈子の目当ては淳吾ではなく、土原玲菜の弟こと土原玲二だった。


 そんなことはともかく、繰り返し「本当なの!?」とどもりながら問いかけられる現状をなんとかする必要がある。


 こうなったら仕方がないと、淳吾は席から立ち上がると同時に脱兎の如く駆け出して、教室からひとりで脱出した。


   *


「ふう。ここまで来れば、大丈夫だろう」


 グラウンドまで来たところで、前屈みになって両膝へ手をつく。


 背中を丸ごと上下させるほどの呼吸を繰り返しながら、少しずつ急な運動のせいで発生している動悸を鎮める。


 簡単には平常どおりにならないが、徐々に体力が回復していくのを感じる。


「……落ち着いた?」


「ああ。久しぶりに全力疾走したから、疲れたよ」


「それはいけない。少しは運動をするべきね」


「本当だよ。今になって痛感するなんて――って、ええっ!?」


 何気なく会話に応じていたが、本来なら気軽に声をかけられる相手が側にいるはずがないのだ。


 偶然に遭遇する可能性はあるものの、この場へ到着した時点ではそうした人間は見当たらなかった。


 それならば一体誰と会話してたんだと相手を確認した途端、淳吾は驚きの声を発してしまった。


 すぐ後ろに立っていたのは、教室へ置き去りにしてきたはずの美貌の女先輩だったからだ。


 弟が野球部へ所属してるだけあって、姉の運動能力も高いのかもしれない。そうでなければ、こんな事態は考えられなかった。


 中学時代に陸上部へ所属していたとはいえ、速度という面ではさほど秀でていない。とはいえ、一般的な女性と比較すれば十分な走力は持っている。


「足……速いんですね」


「意外と」


 相変わらずの短い受け答えには、呼吸の乱れは感じられない。明らかに基礎体力も、淳吾よりは上そうだった。


 こんなことなら、中学時代に部活を引退したあとも鍛えておけばよかったと後悔する。


「それじゃ、行きましょうか」


 ようやく呼吸も落ち着いてきたかと思ったら、この台詞である。


 もちろんすぐに「よし、行こう」となるはずもなく、淳吾は首を傾げながら行く先を尋ねる。


「デート」


 異性の――しかも土原玲菜みたいな美人にデートしようと言われるのは嬉しいが、すでに好意はないと宣告されている。


 そんな状態でデートを楽しめるはずがないので、心苦しくはあるが遠慮させてもらうことにする。


「……行かないの?」


「え? あ、ああ……行きます」


 しかし淳吾の口から出たのは、頭の中にあったのとは真逆の返事だった。


 美貌の女先輩にじっと見つめられたが最後。思わず、相手の誘いに頷いてしまった。


 こうなれば仕方ないとデートへ応じるも、いまだに行き先は不明なままだ。


 カラオケでもいいだろうし、学園近くの公園で話すのもいい。けど、相手は自分に好意を抱いてない女性だ。


 考えるほどに複雑な気分になる淳吾を連れて、土原玲菜が歩き出す。


 もしかしたら、彼女にはもう何かしらのプランがあるのかもしれない。


 淳吾は黙って並んで歩くが、数分後に辿り着いたのは、つい最近見たばかりの場所だった。


「あの……土原玲菜さん?」


「何?」


「ここは?」


「グラウンド」


 そんなのは見ればわかる。問題は、どうしてグラウンドへやってきたかだ。


「ええと、まさか……ここが?」


「そう。野球部が練習をしている」


 土原玲菜の受け答えに、淳吾はガックリと両手を下ろす。


 最初からあまり期待はしていなかったが、さすがにこれはあんまりだと泣きたくなる。


 野球部のグラウンドでは淳吾も知っている二人の部員が、知らない面々と一緒に練習をしている。


 何が悲しくて入る予定のない部活を見学しなきゃいけないんだと思いつつも、隣にいる土原玲菜の横顔があまりにも綺麗なのでこの場から動けなかった。


 そんな淳吾に、知り合いの野球部員二人がほぼ同時に気づいた。


 最初に声をかけてきたのは、主に投手を務めている相沢武だった。


「あれ、仮谷じゃないか。今日はどうしたんだ」


 何でもないと答えようとした淳吾より先に、当たり前のように隣で野球部の練習を見ていた土原玲菜が口を開いた。


「デート中」


「デートぉ!?」


 相沢武による驚きの叫びがグラウンドへ木霊し、ここでも淳吾は不必要な注目を集めるはめになった。

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