第6話 君の勝ちだ

 ブレザー姿に普通のスニーカーという、野球部のグラウンドには似合わない服装で、淳吾はバッターボックスに立った。


 背後にはキャッチャーミットを構えた土原玲二が座っており、淳吾と対峙するマウンドには相沢武が仁王立ちしている。


 どうしてこうなったと理由を求めても、誰も答えてくれない。とにもかくにも、淳吾は相沢武と一打席限定の勝負をすることになった。


 ベンチには元凶の栗本加奈子を始め、相沢武と土原玲二を除く野球部の面々が勝負を見守るために立っていた。


 フェンスの後ろには見学をするスペースがあり、そのさらに後方では打球が他のグラウンドへ飛んでいかないようにネットが設置されている。


 市民球場ほど立派ではないにしろ、弱小野球部が持つ専用グラウンドにしてはかなりのものだった。貧弱なのはトレーニングするためのマシンだけだ。


 本来は父兄などが練習試合を観戦できるように作ったみたいだが、一回戦を勝つどころか試合すらままならない現状ではろくに使用されていなかった。


 それでも綺麗に掃除はされているので、弱小であっても、いかに歴代の野球部員が真面目だったかわかる。


 だからこそ教員も、新入生が希望するかもしれないという理由だけで、部員が不足している野球部を存続させたのだろう。


「凄いよね、どっちが勝つのかな」


 そんな観戦スペースに、今日に限ってたくさんの生徒がいる。


 男子もいるが、女子も多い。誰もが淳吾と、野球部のエースである相沢武の勝負を見に来ていた。


 どうしてこんなに早く話が広まったのか。それは栗本加奈子が、見事なまでに人間スピーカーとなって、そこかしこにこの話をしまくったからだ。


 おかげで淳吾は勝負を断れなくなり、現在に至る。頭を抱えてこの場に座り込みたいが、恰好つけの性格が災いして不敵な笑みを浮かべてしまう。


「さすがに余裕だな」


「いや、そうでもない」


 マウンドから声をかけてきた相沢武に、淳吾は普通に応じる。本心からの台詞なのだが、無意識にそうではなさそうなそぶりをしている自分自身が憎らしくなる。


「仮谷って、プロからもスカウトくるレベルの選手なんだろ。楽しみだよな」


「もしかして、運命の瞬間に立ち会えてるのかもな」


「そうよ。そして、それを演出したのは他ならぬアタシなの」


 部員たちの的外れしまくってる噂話に乱入した栗本加奈子が、何故か胸を張る。


 背筋を伸ばしたおかげで制服の上で胸のふくらみが強調され、思春期である野球部員たちは否応なしに視線を奪われる。


 できれば自分も隣にいたかったと内心で歯軋りしつつも、淳吾は目の前に立ち塞がっている大きな問題をどうしようか考える。


 いくら同じ一年生とはいえ、仮にも相沢武は野球部のエース。素人の淳吾が太刀打ちできる相手には思えなかった。


 真面目になるほど、最終的には恥をかく。結局はメッキを剥がされて、短い青春だったとため息をつくしかなくなる。


 ――いや、待てよ。真面目になるほど恥をかくのなら、その逆をすればいいんじゃないか。思いついた妙案を実行に移すため、淳吾はバッターボックス内で金属バットを構える。


 といっても、両手で持った金属バットを肩に乗せ、力を抜いている打つ気なさそうな構えだ。


「そんな構えで、俺の球を打てんのかよ!」


 威圧感たっぷりに睨みつけてくる相沢武に、心の中で打てるわけないだろと返しつつ、淳吾は相手の投球フォームを観察する。


 腰にあった両手を真上に真っ直ぐ伸ばし、利き手となる右手をグローブの中へ入れる。もちろんボールは握ったままだ。


 そのまま頭の後ろで肘を軽く曲げたあと、その反動を活かして一気に投球動作へ入る。


 流れるように右腕を垂直に下ろし、自分の身体の後ろへ隠す。恐らくはボールの握りを、バッターに見えないようにするための工夫だろう。


「いっくぞォ!」


 スピードに乗った全身をフルに使い、振り上げられた右腕がリリースポイントで力を解放する。


 相沢武の右手から放たれた白球は瞬く間に接近し、淳吾の視界にほとんど留まることなく土原玲二のキャッチャーミットに吸い込まれた。


   *


 速いなんてものじゃない。ほとんど消える魔球だ。相沢武のストレートを、バッターボックスで初めて体感した淳吾の感想がそれだった。


 野球部に在籍している他の投手を知らないので比較しようもないが、中学校の三年間で一度も試合に出られないような選手とは思えなかった。


 横目で捕手の土原玲二を見て、淳吾はさらに驚く。なんと左利きだったのだ。


「やっぱり、珍しいか。左利きのキャッチャーは」


 視線だけで疑問に気づいた土原玲二が、半ば苦笑しながらそう言ってきた。


「投げやすさどうこうの問題じゃなくてな。俺にはこれが一番合ってるんだ。もちろん異端だったから、公式戦どころか練習試合にも出られなかったよ」


 土原玲二もまた、相沢武と同様に特殊な事情で、中学での野球生活に不満を溜めていたのだ。ゆえに高校では爆発させてやろうと、あえて弱小校に進学した。


 相沢武から教えられた理由のとおりであり、淳吾とは違って確かな信念が存在する。


 なんとなく気に入って群雲学園に入学し、ラッキーで体育の授業にホームランを打って、なし崩し的にこの場に立たせられている淳吾とは大違いだった。


 ますます自分みたいな存在が、野球部に所属するわけにはいかないと思うようになる。そのためには、相沢武との勝負に勝つ必要はまったくなかった。


「だが、当時の監督は認めてくれなかった。それどころか、チームメイトにもそっぽを向かれた。お前には投げ辛いとね」


 神経質な人間が投手だったりすると、捕手の構えが本来とは逆なだけとは言えない。わずかな違いが、調子を大きく狂わせたりする危険性もある。


 だからこそ土原玲二は、中学時代の監督や仲間を恨んでないと言う。自分も逆の立場だったなら、同様の発言をしたと思うからと。


 相沢武に比べて土原玲二は、本当に同年代なのかと思えるくらいに大人だった。相手の言い分も認めた上で、きちんと自分の意見も主張する。グラウンドの司令塔である捕手というポジションには、最適な人物なように思えた。


 そして投手の相沢武は、土原玲二の構えが従来の捕手とは逆であっても、微塵も戸惑っていない。かなりの強心臓の持ち主だ。


 他人事のように良いバッテリーだと思っているが、今はまだ望まぬ勝負の最中。淳吾はこの場を無難に切り抜けなければならない。


「そんな俺でもいいと言ってくれる投手がこの高校にはいた。例え甲子園に行けなかったとしても、それだけで満足できる。だが、できれば……上を目指したい」


 だから力を持っている人間は、是が非でもチームに欲しい。土原玲二の目はそう語っていた。


 その考えは決して間違っていない。計算外があるとしたら、淳吾の本当の能力を相沢武も土原玲二も見抜けていない点だ。


「どうした。突っ立ってるだけじゃ、俺のボールは打てないぜ」


 土原玲二から返ってきたボールを受け取りながら、得意げに相沢武が話す。そこには決して口だけでは自信が存在していた。


 間違っても淳吾に打てるような球ではない。もっとも、その方がどちからといえばありがたいので、渡りに船という感じもする。


 無責任に好勝負を期待しているギャラリーを喜ばせる義務などないし、淳吾も自分の目的を果たすだけだった。


 相変わらず余裕の構えを継続しながら、黙って相沢武の次の投球を待つ。


「あんまり余裕を出しすぎると、あとで後悔することになるぜ」


   *


 二球目も直球で、初球と変わらないくらいの速度が出ていた。淳吾と違って、相沢武の投球はまぐれによるものでないのが確定した。


 完全なる偶然で、同じ素人のピッチャーからホームランを打った淳吾とは格が違う。最初からわかっていたが、改めて実力の差を痛感する。


 だからといって、別に嘆いたりはしない。淳吾は最初から野球部志望ではないからだ。今回の勝敗など、どちらでも構わなかった。


 湯気が上がってるんじゃないかというくらいの音がグラウンドに響き、相沢武の放った白球が土原玲二のミットに収まっている。


「二球も続けて、ボールを見るのに集中するなんて予想外だったぜ。最後の一球に賭けるってやつか」


 無言でボールを投げ返す土原玲二に代わって、マウンドにいる相沢武が淳吾に声をかけてくる。意外にお喋り好きなのかもしれない。


 勝負を見物している観客や野球部員たちは、あまり会話もなく淳吾と相沢武のやりとりに集中している。


 最後の一球に何かが起こる。そんな期待を抱いているみたいだが、生憎と淳吾はそうした役回りを演じるつもりはなかった。


 淳吾が何も言わないでいると、拍子抜けしたような表情で相沢武が投球準備を整え始める。


「次が最後の一球だぜ。まさか何もしないで負けるなんて、ダサい真似はしないよな」


 明らかな挑発にわざわざ乗ってやるほど、淳吾の頭は悪くない。調子には乗りやすいが、それはすべて女子が絡んだ場合に限定される。


 これまでと同じように振りかぶり、マウンド上で相沢武が投球のための力を蓄える。


 動き出しと同時に爆発させ、全身の勢いを利用して抜群の速球を指先から放つ。


 線を引くような素晴らしい球筋を描き、三度淳吾の前を通過していく。きっちりとホームベースを捉えており、誰がどう見てもストライクのコースだった。


 パアンと小気味良く響いた音が、ゲームセットの合図となる。勝負は淳吾を三球三振に仕留めた相沢武の勝ちだ。


 グラウンドの周囲で勝負を観戦していたギャラリーがザワめきだす。よもやの結果に誰もが戸惑っている。


 中でも一番納得できなさそうにしているのが、投手を務めた相沢武だ。とても勝者とは思えない顔をしている。


「どういうつもりだ!」


 今にも掴みかかってきそうな相沢武を制したのは、キャッチャーミットにボールを挟めたままの土原玲二だった。


 乱闘に向かおうとする選手を押さえつけるかのように、両手で相沢武の両肩を抑えて懸命になだめる。


 それでも相沢武の怒りは収まらず、再び声を荒げて淳吾に「なんとか言えよ」と詰め寄ろうとする。


 あまりの迫力に心の底から恐怖を覚えるも、ここで泣きながらごめんなさいと謝罪したら、尋常じゃないくらい恰好悪くなるだけだ。


 加えてグラウンドの周辺には、かなりの人数の女生徒がいる。どんなに怖かろうと、情けない姿を見せるわけにはいかなかった。


「どういうつもりも何も……君の勝ちだ」


「――っ! 冗談じゃねえよ。お前、一球もバットを振ってないだろ!」


「それくらい、相沢君のストレートが凄かったってことさ。俺には打てそうもなかったよ」


 参りましたとお手上げのポーズをするのだが、それで納得してはくれなかった。


「打つ気がなかっただけだろ。お前、野球を舐めてんのかよ!」


「舐めてなんかいない。だからこそ、中途半端な気持ちで野球部に所属したりはできないだろ」


 淳吾の発言に、相沢武を押さえている土原玲二が「なるほど」と頷いた。


「そこまで野球部に入りたくないのに、こんな真似までして、貴重な時間を無駄に使わせてしまった。許してくれ」


 頭を下げる土原玲二に、淳吾は「気にしないでくれ」と応じる。


「申し訳ないけど、俺はやっぱり野球部に入るつもりはないんだ。わかってくれ」

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