第5話 軽く勝負をするだけだって

 長かった学園での授業も終わり、待ちに待った放課後が訪れる。ここからは淳吾の自由時間であり、何をやって過ごそうかと考える。


 ゲームセンターへ行ってみるのもいいだろうし、アルバイト先を真剣に探してみるのもいい。選択肢の中に、恋人とデートするという項目がないのが少しだけ物悲しいが、学園生活はまだ始まったばかり。これから、いくらでもチャンスがあるはずだ。


 希望に満ちた想像をしている淳吾のもとに、放課後になった途端にひとりの女生徒が駆け寄ってきた。昼休みなどに会話をした栗本加奈子だ。


 もしかして、一緒に帰ろうと誘うつもりだろうか。好みから多少外れてはいるが、人生何事も経験だ。それに、女性に恥をかかせるわけにはいかない。応じるつもりで、淳吾はこちらへ向かってくる栗本加奈子を待った。


「ねえ、もちろん行くんでしょ」


 目の前にやってきた栗本加奈子が、机を挟んだ正面から淳吾に声をかけてきた。


 ほら、来たと思いつつも、平静を装って「何が?」と尋ねてみる。この時点で、淳吾の動悸は相当なものになっていた。


 もともとあがり症に近い特徴を持っているだけに、面と向かって女性に話しかけられると、それだけでドキドキする。


 慣れた人であればそうでもないのだが、栗本加奈子は初対面に近い。加えて、アプローチを受けようとしてるのだから、緊張して当然だった。


 しかし栗本加奈子から発せられた言葉は、淳吾の予想とはまったく違うものだった。


「グラウンドよ、グラウンド。野球部が練習してる」


「……はい?」


 確かにお誘いには変わりないが、想定していたのとはだいぶ違う。まさか野球部が活動中のグラウンドが目的地とは、頭の片隅にもなかった。


 どうして、という感じで首を傾げた淳吾に、栗本加奈子はさも当然といった感じで「見学に行くんでしょ」と言ってきた。


 すると昼休みに淳吾の近くにいた連中が「やっぱり、行くんだ」などと、次々に声をかけてくる。


「確かに、あれだけ誘われれば、簡単には断れないよな」


 近寄ってきたのは、淳吾と同等か、それ以上に調子に乗りやすい名前も知らない男子生徒だ。


「い、いや……結論はもう伝えたはずだけど……」


 一応はクラスメートなのだが、あまり好きになれなさそうなタイプの男子に戸惑い気味に応じる。もしかしたら、同族嫌悪というやつなのかもしれない。


「見学だけでも、してあげればいいじゃん。あんなに頼んでたんだからさ」


 栗本加奈子の発言に、そうだそうだとばかりに周囲のクラスメートたちが頷く。


 こちらの都合も考慮してくれと叫びたくなるも、騒いだりすれば淳吾の評価は瞬く間に急降下する。


 ただでさえ野球部へのスカウトを頑なに拒否したあとなので、落下速度は従来よりも凄まじくなると予想できた。


「絶対入れって言ってるわけじゃないしさ。ね、いいじゃん」


 そう言って栗本加奈子は、人懐っこい笑顔を近づけてくる。


 淳吾の机の上に肘をつき、下から覗き込まれるように上目遣いをされると、途端に頭がクラクラする。


 女性にあまり免疫がないせいで、お色気責めまでいかなくとも、こうした仕草をされるだけでノックアウト寸前になる。


 それにしても、どうして栗本加奈子はここまで執拗に淳吾をグラウンドへ行かせたがるのか不思議だった。野球部に大きな恩でもあるのだろうか。


 そんなことを考えていると、相手の女生徒から種明かしをするみたいに理由を説明してくれた。


「あの二人も、きっと待ってるよ」


 あの二人と発言した栗本加奈子の瞳が、両方ともこれ以上ないくらいに輝いた。淳吾と会話をしている時とは、明らかに違う。


「もしかして……あの二人が気になるの?」


 淳吾が問いかけると、栗本加奈子は頬を少しだけ赤らめて「えへへ」と笑った。


   *


 てこでも「行かない」と言い張りたかったが、煮え切らない態度の淳吾へ対する周囲の視線は厳しくなるばかり。いよいよ観念せざるをえなくなった。


 とはいえ、野球部に入るつもりはさらさらない。本物の実力者なら、救世主になる道も選べるが、マグレ王の淳吾では恥を晒すだけだ。


 栗本加奈子の誘いに「見学するだけだからね」と念を押したあとで、一緒にグラウンドへ向かった。


 校舎内を並んで移動するだけでも、何名かの男子生徒にちらっと見られる。中には羨ましそうな視線もあり、軽い優越感に浸る。


 けれど、それも校舎を出るまでの話。グラウンドに到着すれば、栗本加奈子はお目当ての男性へ視線を飛ばす。


 現実なんてこんなものだよなと、淳吾はため息をつきつつ、栗本加奈子のすぐ後ろを歩く。


 スカートをひらひらさせながら早歩きしている少女に、誘われるかもしれないと心をトキめかせた数分前が遠い昔に思えた。


 私立群雲学園の敷地はかなり広く、グラウンドも結構な面積がある。だからこそ弱小の野球部でも、専用の場所を与えてもらえるのだ。


 フェンスで囲まれた場所に野球部のグラウンドはあり、ベースもきちんと揃っている。淳吾が体育の授業でホームランを打ったのもここだ。


 授業中は一般の学生でも自由に使える。これも野球部が弱小だからだろう。グラウンド以外の設備は、整ってるとは言い難い。


 そんなグラウンドで、練習用のユニフォームを着用して走り回ってる男たちがいた。数にして五人程度。野球をやるには、明らかに少なすぎる。


「やっぱり、全然人がいないね」


 栗本加奈子の問いかけに頷く。体育の授業で活躍した淳吾をすぐにスカウトするくらいだから、かなりの人員不足なのは間違いなかった。


 そのうちにランニング中の相沢武がこちらに気づいた。嬉しそうな様子で先頭を走る土原玲二に報告する。


 すると他の部員を走らせたままで、土原玲二ひとりが見学中の淳吾と栗本加奈子の傍にやってきた。


「見学しにきてくれたのか」


「悪いけど、俺は付き添いだよ」


 淳吾がそう言うと、バラすなとばかりに栗本加奈子から睨まれた。どうやらお目当ては相沢武ではなく、目の前に立っている土原玲二のようだ。


 明らかに猫をかぶった仕草をしており、淳吾と会話をしている時よりも数倍女性らしい。


 脈なしの男性にも馴れ馴れしくできる点も含め、改めて女性の怖さを思い知らされる。もっとも男性でもそうした人間はいるので、正確には栗本加奈子の怖さと言い直すべきなのかもしれない。


「付き添いでも何でも、グラウンドまで来てくれればありがたい。君には感謝するよ。ええと……」


「加奈子。栗本加奈子って言うの」


「そうか。俺は……」


「知ってる。土原玲二君でしょ」


「ああ、そうだ。わかってるのなら、名乗る必要はないな。ところで、栗本さんの目的は?」


 ここで順調だった会話が一時的にストップする。和やかなムードが栗本加奈子の周囲だけ一変し、責任の所在を求めるかのように淳吾を見てきた。


 自分に興味のない女はどうでもいいのだが、ここでそんな風に言えないのが淳吾らしさだったりする。


「俺は一緒にグラウンドへ行こうって誘われただけだよ」


 女子には嫌われたくない。けれど野球部にも入りたくない。どっちつかずの状況で、どっちつかずの発言をする。


 これが一番嫌われそうだとわかっているのに、その場の流れでニヒルな男を演じようとした挙句が、先ほどの有様だった。


「……そうだったのか。栗本さんが、仮谷君を説得してくれたんだな。重ねてお礼を言おう」


「えっ!? あ、はい。そうなんです」


 そうだったかとズッコけたくなる衝動を抑えつつ、淳吾は栗本加奈子の対応に苦笑する。


   *


 どうせならフェンスの外からではなく、ベンチで見学したらどうだという話になった。


 遠慮したい淳吾とは対照的に、栗本加奈子は即答で「是非!」と応じる。


 初対面で淳吾を仮谷っちと呼んできた女子生徒が、土原玲二の前では借りてきた猫みたいにおとなしくなる。


 文字どおりの猫かぶりに、さしもの淳吾も呆れ果てる。だからといって、相手女性を責められないのが悲しいところでもあった。


 なにせ体育の授業でヒーロー扱いされたのをいいことに、その夢を見続けるため淳吾は積極的に野球が得意だという認識を払拭しようとしなかった。


 相沢武や土原玲二と話してる時でも、本当ならもっと強固に誘いを固辞して、野球などできないと言い切ればよかったのだ。


 それをしなかったのは、ひとえに女生徒からの人気が欲しいがためだった。


「せっかくだから、仮谷っちも練習に参加させてもらえばいいじゃん」


 野球部の練習を見るというより、ひたすら土原玲二の姿を目で追っている栗本加奈子が、とんでもない発言をしてくる。


 中学時代は長距離を専門とした陸上部であり、球技などの経験は皆無に等しい。たまたま体育の授業でまぐれ当たりを出した淳吾が、野球部の練習に参加したところで悲惨な結末にしかならない。


「遠慮しとくよ。それなら栗本さんが参加すれば? もっと土原君の近くにいられるよ」


「……確かに」


「そこまで好きなんだ。前から気になってたの?」


 淳吾が尋ねると、顔を真っ赤にしながらも、栗本加奈子は「ひと目惚れよ」と教えてくれた。


 確かに土原玲二はイケメンだ。野球部ということで坊主にはしているけど、その髪型は決してハンデになっていない。むしろ相手の恰好良さを際立たせている。


 整った顔立ちに加えて長身に筋肉質とくれば、女子生徒が放っておくはずがなかった。


 仮谷っちと呼ばれて意識するようになったはいいが、最初から栗本加奈子は淳吾になど興味を持ってなかったのである。ほんの少し悲しいが、現実とはこんなものだと理解している。


 土原玲二が目的の栗原加奈子と、いつまでも会話をしてても仕方ないので、淳吾はそろそろ帰ろうと考える。


 意中の相手と会話をするきっかけは与えたのだから、あとは淳吾を使わなくても栗本加奈子ひとりでなんとかできるはずだ。


 そう伝えようとしたところ、練習中だったはずの土原玲二がこちらへ小走りで駆け寄ってきた。


 どうしたのかと思っていると、淳吾に「少しだけ、練習に参加してみないか」と誘ってくる。


 ブレザー姿でグラウンドを走り回るのはさすがにごめんなので、丁重にお断りする。


「どうしてよ。少しくらい、参加してあげればいいじゃん」


 残念がる土原玲二に代わって、栗本加奈子が淳吾に文句を言ってくる。


「仕方ない。仮谷君にも事情がある」


 物分りがいい土原玲二に比べて、人懐っこい女生徒はムキになって淳吾へ参加するように言い続ける。


 すると今度は相沢武までもが、淳吾たちの近くへやってきた。


「練習って言っても、軽く勝負をするだけだって」


「……勝負?」


 相沢武の不可解な発言に、おもわず淳吾は眉をひそめる。


「そうそう。俺がピッチャーで玲二がキャッチャー。そしてお前がバッターだ」


 どうだとばかりにひとりで頷く相沢武を放置し、淳吾は比較的話が通じやすい土原玲二に目で説明を求める。


「すまない。相沢が、どうしても仮谷君と勝負したいらしいんだ。受けてもらえないだろうか」


 受けるも何も、野球部の投手と対戦して、打てるはずがない。わざわざ自分からメッキを剥がされに行くようなものだ。


 すぐに断ろうと思っていると、唐突に栗本加奈子が野球部のグラウンドの外へ向かって手を振り出した。


「あ、皆。これから相沢君と仮谷っちが、野球で勝負するんだって」


 着々と作り上げられる逃げられない状況に、淳吾は頭を抱えたい気分になる。

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