第3話 野球やろうぜ
突如教室に入ってきた謎の男は、嫌な予感で表情を曇らせる淳吾のもとへ一直線にやってきた。
髪の毛はスポーツ刈りで、体つきはスマート。なのにジャケットの下の白ワイシャツから覗ける胸元には、しっかりとした筋肉が備わっている。
淳吾も中学の三年間部活動に励んできたので、それなりに筋力はある。しかし近づいてきた男子生徒の上半身とは、比べ物にならない。
とはいえ筋骨隆々というわけではなく、まるでどこかのモデルみたいなスタイルをしている。
「よお。お前が仮谷っていう奴?」
柄の悪そうな口調でいきなり問いかけられ、平然と応じられるほど淳吾の神経は図太くない。
動悸がするほど内心ではビビってるのに、周囲に女子がいるせいで、損を考えずに得だけを優先する恰好つけ精神が前面に出てくる。
「さあ? どっちだと思う」
「……ふざけてんのか」
さすがにムっとした表情を浮かべる相手男性の目を、意識的に正面から見返す。正直なところ、目を合わせるのは怖かった。
しかし、逸らしながらではどんな威勢の良い台詞も本来の効果を発揮できなくなる。だからこそ向かってくる視線に、こちらも負けじと視線をぶつけるのだ。
相手が可愛い女性なら最高のシチュエーションなのだが、残念ながらそうではない。淳吾の目の前に立っているのは、体格だけならすでに大人と大差ない高校男子である。
もちろん淳吾に変な趣味はないので、よからぬ展開に発展したりはしない。可能性があるのは、一触即発の危険なシーンだ。
いっそ謝ってしまえれば楽なのに、注目を集めているせいで実行できなかった。弱気イコール恰好悪いという認識が自分の中にあり、後退を許してくれないのだ。こうなったらと淳吾は覚悟を決める。
「ふざけてるのは、自公紹介もなしに、人を呼び捨てにする人間の方だと思うけどね」
平然を装い、強い口調ですぐ前方に立っている名前も知らない男子生徒へ告げる。
これまでにない緊張感が、教室内に充満する。ピリっとした空気に、誰かが生唾を呑む音が聞こえた。わずかに口端が歪んでいるのがわかる。顔が勝手に笑みを浮かべる。決して挑発する意図はなかった。
頭の中では喧嘩になったらどうしようという不安が、常に走り回っている。自慢ではないが、淳吾の腕っ節は強くない。直接対決になったら、負けるのは目に見えていた。
それでも退くという選択をできないのだから、自分の恰好つけな性格は最悪だなと、淳吾は心の中でため息をつく。
まるで錘でも乗ってるかのような重苦しさが、時間の流れを何倍も遅く感じさせる。ほんの数秒の沈黙なのに、淳吾には何十分も経ってるように思えた。
そんな状況を打破したのは、淳吾を探しにこの教室へやってきた、目の前の男子生徒だった。
「……そういや、そうだな」
教室内に存在するこれまでの緊迫した雰囲気は何だったのかというくらい、名前も知らない男子生徒はあっけらかんとしていた。
「俺の名前は相沢武。私立群雲学園の同じ一年だ。クラスは違うけどな。よろしく」
そう言って相沢武と名乗った男子生徒は、淳吾に右手を差し出してくる。
握手を求めてるのはわかったが、応じてもいいものか考える。とはいえ、ここで相手の手を払ったりしたら、逆にこちらが悪者になる。
この後の展開はまったく読めないが、とりあえず握手には応じる。その上で淳吾も自分の名前を教えた。
最初に自己紹介をしろと要求したのは他ならぬ淳吾であり、相沢武という男子生徒はそれに応じたからだ。
握手した右手を離したあとで、目の前に立っている男子生徒は「お前に会いたかったんだよ」と言ってくる。
ますます大きくなる嫌な予感が淳吾に冷たい汗をかかせ、痛いくらいに喉を渇かせる。
*
一体、自分に何の用があるのか。目の前で必要以上に、にこにこしている男子生徒の次の言葉を待つ。
胸が痛くなりそうなくらい淳吾が動悸をさせてるなんて、微塵も思っていない男子生徒はあくまでマイペースで会話を進めようとする。
「野球やろうぜ!」
「……は?」
ドクンドクンと鳴っていた心臓が、急速に落ち着きを取り戻す。どうやら、何らかの暴力行為を起こすつもりはないようだ。
とはいえ、いきなりすぎる展開にさすがの淳吾も戸惑う。何がどうなって、自分を野球部へ誘いにきたのか。
「お前、凄いんだろ。中学の時の友達から聞いたぜ」
どうやらこのクラスに友人がいるらしく、体育で野球をやった際の淳吾の活躍を聞いたみたいだった。
誰かは知らないが、余計な真似をしてくれた。心の中で悪態をついても、決して口にしてはいけない。
喧嘩が強いタイプではないのに加え、暴言や愚痴を吐いてばかりの男は基本的にモテないからだ。
どこぞの雑誌で見たからといって、忠実に従ってる人間もどうかと思うが、生まれてこの方モテた経験がないので仕方ないと開き直る。
これから様々な経験を経て、一人前の男になってゆく。そのためにアルバイトは必須条件で、部活に精を出している暇はなかった。
「悪いけど、断る」
自身の欲望のためにも、あっさりと淳吾は相沢武と名乗った男子の誘いを却下する。
申し訳ないような気もするが、そもそも買い被りが原因のスカウトなのだ。本物の実力を備えていない淳吾を入部させたところで、何の利点もない。
すぐに「そうか、邪魔したな」と引き下がってくれればいいものを、目の前にいる男は小動物みたいに小首を傾げて淳吾の回答を疑問に思っている。
「野球部は一年しかいないし、この夏の大会から試合に出放題だぜ」
野球部に所属した際に得られる特典を強調しながら、気が変わるのを信じて瞳を輝かせる。
悪い人間ではなさそうだが、どこまでも我が道を突き進みそうな人種なので、淳吾とはあまり気が合わないかもしれない。
淳吾と正反対の性格で、水と油のような反応を起こしそうだからではなく、悪い意味で似すぎている。
ひょっとしたら同属嫌悪というやつかもしれない。もっとも相手の相沢武は、淳吾と比べものにならないくらいの運動神経を所持していそうだった。
しかも顔もかなりのイケメン。実際にこの教室へやってきた時から、数人の女子が隙を見つけては相沢武に視線を送っている。
話し相手の淳吾でも気がつくほど熱烈なのに、当の本人は一切気にしていない。というよりかは、女子の無言のアプローチに気づいてないのだ。
体育授業での奇跡のホームランがあって、ようやく女子との会話のきっかけをつかめた淳吾とはえらい違いだった。
羨ましすぎる状況なのに、相手はまったく興味なしとばかりに野球部の話を延々としている。
顧問もさほど厳しくなく、いてもいなくても変わらない。本人が暑くなければ髪型も自由。思う存分、野球だけを楽しめる。
熱すぎるくらいに語らせておいてなんだが、野球は観戦するだけで十分の淳吾の心は到底揺さぶれない。どんなに粘っても、結論を変えるつもりはさらさらなかった。
「体育の授業のことを聞いてきたんだろうけど、あれはマグレだからさ。他を当たってくれるかな」
なるべく相手が傷つかないように、慎重に言葉を選んで断る。これだけはっきり拒否の姿勢を示せば、さすがに相手も諦める。
そう考えていたのは、淳吾ひとりだった。明確な返事をしたはずなのに、相手は何故か気落ちするどころか感心している。
「さすがだな。実力をひけらかさない謙虚さを持ってるなんて、お前はやっぱり大物だぜ」
……何だ、コイツは。淳吾の中で、相沢武への印象が次々に変わっていく。もしかしてこの男は、アホなのではないか。受け答えを聞いている限りでは、本気でそう思えた。
*
通常の休み時間ならとっくにリミットがきているのだが、生憎と今は昼休み。時間も多く設定されている。
おかげで淳吾は、いまだ目の前にいる相沢武から逃げられないでいた。別段用事はないのだが、せっかくの昼休みなので女子と会話を楽しんでいたかった。
まぐれにせよ体育の授業で活躍したおかげで、向こうから話しかけてきてくれるという願ってもないチャンスを得ているのに、わけのわからない男のせいで無駄にしようとしている。
「遠慮することはない。俺と一緒に甲子園を目指そうぜ!」
あくまでも熱く語り続ける男の勧誘に、淳吾は頭が痛くなりつつあった。どうにかして諦めさせたいのだが、何を言っても引いてくれそうな気配はない。
となれば時間切れを狙うのが王道なのだが、残念ながらまだ二十分近くも残っている。
とりあえず昼飯だけは食べてしまおうと、用意していた食料を胃袋へ流し込む。空腹のままで、午後の授業を迎えるのだけはごめんだった。
淳吾は高校生活に、不必要な注目など求めていない。人並みの楽しい青春が送れれば、それで満足だった。しかしその夢は、入学して早々に儚く散ろうとしていた。
ただでさえ目立つ風貌の男が、熱心に何かを語っていれば、あちこちから注目を浴びるのは当然の流れだ。
すぐに教室のそこかしこでひそひそ話が始まり、その幾つかが淳吾の耳にも届いてくる。
「野球部のスカウトらしいよ」
「うそー。やっぱり、仮谷君って凄い人だったんだ」
「私、今のうちにサインを貰っておこうかな」
お調子者の淳吾の鼓膜は本領を発揮して、見事に女子生徒の会話内容だけを拾い集めた。
良い意味で噂の的になるのは大歓迎だが、問題なのは淳吾本来の実力で勝ち取った状況ではないという点だ。
本当に野球の実力があるのなら、散々恰好をつけた挙句に助っ人待遇の部員として入部している。
だが実際の淳吾の実力は、恐らく本格的に野球をやっている小学生にも劣る。その程度のレベルでしかなかった。
そんな淳吾が無理に入部したところで、結果は知れている。余計な恥をかいて終わりだ。ゆえになんとしても、相沢武の誘いに乗るわけにはいかないのだ。
だというのに、淳吾の実力を過大評価しまくっている連中が、ここぞとばかりに騒ぎ立てる。
「仮谷って、ただ者じゃなかったんだな。さすが中学時代は野球部にスカウトされ続けただけはあるぜ」
スカウトされた経験はあると確かに言ったが、され続けたと言った覚えはない。たった数分前の話なのに、早くも尾ひれがつき始めている。
そして淳吾以上に調子に乗りやすそうな男の話に、よせばいいのに相沢武がこれ以上ないくらいの勢いで食いついた。
「それは本当か」
「ああ、間違いないぜ。三年間、毎日誘われておきながら、最初に所属した陸上部に義理を貫き続けた男だぜ」
同じクラスなので見覚えはあるが、まともに話したのは今日の昼休みが初めて。しかも栗本加奈子らと話していた際に、勝手に混じってきただけ。そんな男が、淳吾についてどや顔で説明している。
頭痛の強さが増したような気がしても、とても保健室へ行かせてくれと言える状況ではなくなっていた。
「もしかしてお前も、何か理由があって弱小校を選んだのか。そうだと思ったぜ」
勝手に納得して、うんうんと頷く相沢武。正直なところ、相手の事情などはどうでもいいので、華麗にスルーしておこうと心の中で決定する。
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